待降節第三聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第45回「二人ずつ遣わされた」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 イザヤ書11章1~10節
新約聖書 ルカによる福音書 10章1〜16節

 

2023年12月17日 ルカによる福音書連続講解説教 第45回
ルカによる福音書10章1〜16節

1節
わたしたちは先にルカによる福音書で、主イエスが12人の弟子たちを派遣されたことを読みました。今日読む10章には、主イエスが再度、弟子たちを派遣されたことが記されています。9章に書かれている弟子たちの派遣と10章に書かれている派遣を比べてみると、派遣された弟子の人数が最初は12人で、二回目が12人以外の72人だった点が違いますが、主イエスが派遣に際して言われていることはほぼ同じであるように思われます。

ところで、ここで主イエスが選ばれた72人は、最初に選ばれた12人とどういう関係にあるのでしょう。主イエスが最初に12人を選ばれたとき、そこには12人をそこから選び出した弟子の集団が背後にあったのだと思います。12人の弟子は名前が残っていますが12人に選ばれなかった他の弟子たちの名前は一人二人、例えば使徒言行録1章23節に出てくる主イエスを裏切ったイスカリオテのユダの代わりに12人の一人として選ぶために候補となった「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティア」と言う名前が書かれていますが、その人たちを除けば後はほとんど知られていません。今日読む72人も名前のわからない人たちです。そして今回選ばれた72人の背後には、きっと72人の中には選ばれなかったさらに多くの無名の弟子たちがいたのでしょう。

でも、これらの無名の72人の弟子たちも、主イエスから同じように派遣されたのです。16節に書かれていることは、72人の弟子たちにも、先に送り出された12人と同じように言えるのです。

16節
当時のユダヤの社会では「ある人の遣わす使者は、使者を遣わしたその人自身である」とされていました。主イエスは、12人の名前の知られている弟子たちだけでなく、これらの名前の知られていない72人も主イエスご自身であり、これらの者たちに耳を傾ける者は、わたしに耳をかたむけるのだと言われたということです。
ということは、今日のわたしたちも、ある意味で主イエスの12弟子以外の、名前の知られていない72人に近いもの達であって、無名の72人の弟子達をご自分の代理となさった主イエスは、まったく無名のわたしたちをも、今の時代において主イエスから遣わされた者たちとして、わたしたちに耳を傾ける者は、主イエス御自身に耳を傾けるのだ、これらのものはわたしの使者として、わたし自身なのだと主イエスが言っておられると言うことではないでしょうか。

2〜4節
このとき、主イエスから遣わされて出てゆく72人の弟子たちの心の中には、二つの相反する思いがあったのではないかと想像します。
一方には期待があり得ました。黄金色に色づいた小麦畑のように、神の国への収穫を待つ多くの人々のもとに主から遣わされてゆくのだと言う胸をふくらませるような期待があったでしょう。
と同時に、送り出される弟子たちは、巡礼が旅に出かけるときに携える最低限の持ち物さえ持たずに出かけるよう命じられます。旅に必要なものや、食べるものは、行く先々で弟子たちを受け入れてくれる家を見つけて、そこで与えられるのを期待しなさいと主イエスは言われます。果たして主の約束通りになるのか、弟子達は不安だったでしょう。
3節は、派遣される弟子たちが抱える、相反する不安と約束を象徴的に示しています。遣わされてゆく弟子たちは狼の群れに囲まれた子羊のようだと言われています。当然、そこには恐れがあります。しかし、弟子たちの宣べ伝える神の国の福音とは、「狼は子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」そのような平和の到来を告げる知らせなのです。

5〜6節
4節に「途中でだれにも挨拶するな」とあります。ユダヤ人が唱える挨拶は「シャローム、平和がありますように」という挨拶ですから、途中ではしてはいけない挨拶を、どこかの家に入ったら「シャローム、この家に平和があるように」と挨拶しなさいと言われているのは矛盾しているようで、戸惑いを禁じ得ないのですが、ここで言われているのはきっと、「シャローム!この家に平和があるように」というのは、行きずりに、道すがらする挨拶ではなく、また、決まり文句の、形式的挨拶ではないのだ、そうではなく、「シャローム!この家に平和があるように」というのは、弟子たちが宣べ伝えている神の国のメッセージそのものなのだという意味なのでしょう。

「狼が子羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」そのような神の平和がこの家に来た、そう告げる弟子たちを受け入れる人は、「平和の子」と呼ばれます。その人達は、弟子たちを受け入れることによって、主イエスを受け入れ、主イエスを受け入れることによって、主イエスを遣わされた父なる神を受け入れるのです。

しかし、皆が皆、弟子たちの告げる神の平和のメッセージを受け入れるとは限らないだろうと主イエスは言われます。「この家に平和があるように」と告げても、それを受け入れようとしない家があるでしょう。神の国の平和のメッセージを伝える弟子たちを迎え入れない町もあるでしょう。

現に、今、イスラエルとパレスチナのガザの人々、ロシアとウクライナの人々は、神からの「シャローム!この地に平和があるように」というメッセージを受け入れて、速やかに戦争を止めようとはしていません。

ここで立ち止まって、もう一度16節の言葉を心にとめ、思い巡らしたいと思います。
先ほど、ユダヤの社会では「ある人の遣わす使者は、使者を遣わしたその人自身である」と言われていたと申しました。
それゆえ、王や皇帝から遣わされる使者は威儀に身を正して、ゆめ軽んじられ、侮られることのないように努めます。そして、威厳に満ちた使者を無視し、無礼を働く者に対しては、使者を遣わした皇帝や王がどれほどの懲罰をもって臨むか威嚇します。ですから大国の王や皇帝は自分の重んじる将軍を使者と遣わすのが通例で、小さい子供を使者として遣わすことは決してしないのです。

しかし、王や皇帝が有力な将軍たちと比べて、主イエスが遣わす使者、この使者は主イエス御自身だと言われる弟子たちは、どんな人たちでしょうか。72人は無名の人々です。無名の人たちの話にだれが耳を傾けるでしょう。有名人がくれば人は集まるでしょうが、無名な彼らが来たからと行ってだれがその話を聞きに来るでしょうか。ましてや、彼らは、だれかの家の世話にならなければならない人たちであり、自分では食べてゆくことも、宿る場所も確保できない、ホームレスに等しいような人たちなのです。

主イエスはご自身の使者として弟子たちを遣わすにあたり、弟子たちをあえてそのような境遇に身を置かせ、貧しい者たち、小さな者たちとなさいました。それは、弟子たちを遣わされる主イエスご自身、神からこの世に遣わされておいでになったとき、貧しい者、小さなものとなってベツレヘムの馬小屋に生まれてこられたお方だったからでした。
父なる神から貧しい者、小さなものとしてこの世に遣わされておいでになった主イエスの遣わされる使者である弟子たちが、小さく、貧しい者であることはふさわしいことだと言えるでしょう。

そのことを考えると、わたしたちは驚くべきことに思い至ります。つまり、主イエスが遣わされる72人の弟子が小さい者、貧しい者であるのは、彼らを遣わされる主イエスご自身が小さい者であり、貧しい者であるからだと言いましたが、では、同じことが主イエスを遣わされる父なる神にも言えるのでしょうか。父なる神から遣わされた主イエスが小さく、貧しい方であることは、主イエスを遣わされた父なる神が、ご自身を小さく、貧しいお方となられることを示していることになります。このようなことは人間には思いもよらない、驚くべきことではないでしょうか。

しかし、父なる神様は、ご自身を小さな者、貧しい者とされるのです。ご自身を小さな者、貧しい者と一つに結びつけられることにより、その者たちの神となられます。そして、神が小さな者、貧しい者たちと共におられるところに平和が訪れます。神が小さな者、貧しいものたちの父であられるところに、神の平和が満ちるのです。

説教の最後に6節後半のみ言葉に注目し、ともに耳を傾けたいと思います。
「この家に平和があるように」と告げても、その平和を受け入れようとせず、拒まれることは主から遣わされる弟子たちにとって失望であり、失敗であり、落胆すべきことです。主イエスは、そのようなときには、弟子たちが足についた埃を払い落として、福音を受け入れようとしない人々に対して、彼らが神の裁きを受けることがないよう悔い改めるよう警告して、そこを立ち去るよう言われていますが、それもまた弟子たちにとって心の重いことであるに違いありません。
しかし、裁きの警告を残して、その場を立ち去るときも、神の平和は失われてしまうのではないのです。人々から拒まれた神の平和は弟子たちに戻ってくると言われています。
神の平和はたとい拒絶されたとしても、それによって消え去ることは決してないのです。神の平和はわたしたちのもとに戻ってきて、わたしたちと共にとどまり続けるからです。それは何のためでしょうか。

今日、神の平和はわたしたちと共にあります。それは、主イエスがわたしたちを通して、今日ご自身の平和を差し出されるためです。主イエスの平和、主イエスを遣わされた神の平和が拒まれたとしても、わたしたちは繰り返し、何度でも、何度でも、平和を告げましょう。弱く、小さく、貧しいものたちを囲み包む、神の平和がこの世界に来ることを、何度拒まれても告げ広め続けましょう。神の平和は拒まれても、わたしたちの間に戻ってきます。それは神の平和がついには世界に満ちるに至ることの動くことのない証であり、希望なのです。

父と子と聖霊の御名によって。