降誕節礼拝 「最もつまらない者であるわたしに与えられた恵み」
説   教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 イザヤ書52章7~10節
新約聖書 エフェソの信徒への手紙3章7〜13節

 

2023年12月24日 降誕節礼拝説教
「最もつまらない者であるわたしに与えられた恵み」
エフェソの信徒への手紙3章7〜13節

今日は主イエスの御降誕を喜び祝う礼拝です。しかし、わたしたちは今年のクリスマスを手放しで喜ぶことができないでいます。2年前から始まったウクライナでの戦火は今なお止むことがありませんし、10月に始まったパレスチナでの戦争が多くの人々の心を悲しませています。
主イエスがお生まれになったベツレヘムは、ヨルダン川西岸のパレスチナ統治区にありますが今年は、毎年、クリスマスになされてきたお祝いの行事がすべて中止されました。
わたしたちはパレスチナのガザで、10月以来、イスラエルの侵攻を受け、爆撃が繰り返された結果、2万以上の市民が殺されてしまったことに驚きと悲しみを禁じ得ないでいますが、そのガザの苦しみと悲劇は今始まったものでなくて、そこが「天井のない牢獄」と呼ばれていたことを、今回改めて知るようになりました。
ガザには小さいながらキリスト教会があり、クリスチャンの共同体が存在しています。ガザの教会は、今日のクリスマスをどのように迎えていることでしょうか。そこで今日守られる礼拝はどんなクリスマス礼拝でしょうか。その礼拝でどんな祈りがささげられているのでしょうか。

今、読んでいただいたエフェソの信徒への手紙は使徒パウロが獄中から書き送った獄中書簡と呼ばれています。パウロは自分が鎖に繋がれている囚人であることに繰り返し言及しています。しかし、パウロは13節で、自分が投獄されていることで、エフェソの信徒たちが落胆しないで欲しいと言っています。かつて、パウロとシラスがフィリピで牢につながれたとき、二人は深夜、真っ暗な牢獄の中で祈りながら賛美の歌を歌いました。ここでも、パウロは祈りの声をあげ、獄中にあるパウロを案じる人々をかえって励まそうとしています。

天井のない監獄と呼ばれるガザで苦しんでいる人々のことを思うとわたしたちは今日のクリスマスの日を、落胆する思いを持たずしては迎えられないように思いますが、パウロが獄中にあっても、なお落胆しないと語りかけるメッセージに今朝、共に耳を傾けたいと思います。

今日読んでいる箇所を、死に赴こうとする病床で最後に読んで欲しいと願った人がいました。もう放映されてから10年経つのでご存知ない方も多いかもしれませんが、NHKの大河ドラマに「八重の桜」という、新島襄の夫人であった新島八重という人を主人公にしたドラマがありました。そのドラマの最後の方に、新島襄が死を前にして、彼を見舞いに来た弟子から、「先生どこの聖書を読みましょうか」と尋ねられる場面がありました。そのとき新島襄が読んでくれと言って頼んだのがこの箇所でした。

新島襄は日本人でプロテスタント教会の牧師の按手を受けた最初の人です。幕末、国禁を犯して密航によってアメリカに渡り、親切な人たちの助けを受けたとはいえ、非常な苦労を重ねた末に神学校を卒業し、アメリカの教会から日本に派遣された宣教師として帰国します。帰国した新島襄は日本人への福音伝道の使命とともに、キリスト教の学校を建てたいとの願いを抱いて奔走します。そして、志半ばにして旅先で病に倒れ、大磯の旅館で療養中に、49歳の生涯を閉じました。彼が日本で牧師として働いたのはわずか18年間の短い歳月でした。彼が命をかけた同志社が大学として設置されたのは、彼が1890年に死んでから30年後の1920年のことでした。

新島襄は志半ばにして、世を去ろうとした時に、どうして先ほど読んでいただいたエフェソの信徒への手紙3章7〜13節を読んで欲しいと言ったのでしょうか。彼はアメリカから海を渡って故国日本に戻ってきて、そこでイエス・キリストの福音を宣べ伝え、ひたすら、福音の伝道に捧げた全生涯が、この聖書の箇所において鮮明に言い表されていると思ったからではないかと想像します。

「最もつまらない者であるこのわたしに恵みが与えられた」、そしてイエス・キリストの福音に接したことのない、異邦人である日本人同胞に、福音をのべ伝えるために、自分の生涯が器として用いられた。

3章8節で「この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたし」に与えられたと、ここで自分のことを「最もつまらない者」と呼んでいるのは、言うまでもなく新島襄ではなく、使徒パウロです。パウロが自分のことを「最もつまらない者」と呼んだ訳は、パウロが他の箇所で、自分のことを「罪びとのかしら」と呼びますように、彼が教会の迫害者であったと言う消し難い過去を持つ人間だったと思われます。キリストに出会う前、サウロと名乗っていた時代、彼は何の罪もないクリスチャンの兄弟姉妹に暴力をふるって、彼らを死に至らせる大きな罪を犯した人でした。
新島襄にはそのような過去があったわけではありません。では新島が自分を「最もつまらない者」と呼ぶとき、それは一体どう言う理由からでしょうか。

それは、彼がパウロに自分を重ねて読んだこの箇所に書かれていること、例えば、11節に「神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画」という言葉が出てきますが、自分に恵みが与えられ、召しを受けて従事した神の計画の壮大さ、偉大さを思うときに、その一端に預からせていただいた自分が、神の計画の偉大さと比べていかにちっぽけで、取るに足らない者であるかを思ったからではないかと思うのです。
聖書のエフェソ書がここで語っている神のご計画、偉大で壮大なスケールをもつ計画のことを、パウロはこう述べています。8節後半と9節です。

「キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。」

「すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画」とは何か、それが世の初めから隠されていたのが、今という時代に明らかになり、実現していっているというのは何のことを言っているのでしょうか。

世の初めから隠されていた「神の計画」とは端的に6節にこう記されています。神の民イスラエルと、これまでイスラエルに属していなかった異邦人が同じ恵みを受け、一つの体に結びつけられ、同じ約束にあずかるようになることです。

それは、世の初めから今の時代に至るまで、長い間、隠されていましたが、イエス・キリストの到来と、イエス・キリストが遣わされる福音の使者たちによって、全世界の異邦人に対して告げ知らされるようになりました。その結果、人々は光に照らされるようにして、神の計画を知らされるようになりました。それだけではありません、異邦人が福音を信じて、イスラエルと異邦人が一つの家族となり、神を礼拝するようになっています。つまり、イスラエルと異邦人が一つの体に結ばれる、キリストの体なる教会の出現を見ているのです。

12節
大胆に神に近づく、それはイスラエルと異邦人が肩を並べて神に近づくということです。
ここで「大胆に」と訳されている原語のパレーシアというギリシャ語は、確信に満ちて、はばかることなく、恐れずに、と言った意味を持つ重要な言葉です。なぜ、大胆になのか、反対にいかなる意味で人は恐れなしに神に近づけないのか、それについて、マタイによる福音書5章23節にある次のような主イエスのお言葉が、私たちに教えています。

兄弟の間に対立、敵意があれば、父の前に進みでることはできません。兄弟の間に和解と平和があってはじめて父の前に進み出られます。これは一つの家族の中でも言えることでしょう。それだけでなく、父なる神の前での異なる民族同士、あるいは異なる宗教の信者同士についても言えると思います。

新約聖書のエフェソ書で問題にしている対立は、イスラエルと異邦人の間の敵対関係です。両者の間には「敵意という隔ての壁」(2章14節)があったのです。しかし、今やそれが取り壊されたとパウロは言います。2章15、16節にこうあります。
異邦人とイスラエルの間にあった敵意という壁について、わたしたち自身、異邦人であるものたちとしてよくわかると思います。異邦人である人々は神の民、選民イスラエルから、罪人だと決めつけられるのです。自分をそのように断罪するイスラエルに対して異邦人が敵意を抱くのは当然ではないでしょうか。

その対立、分断と敵意の壁を神さまはイエス・キリストによって取り壊してくださいました。神さまは、イスラエルが主張するように、異邦人を罪人と呼んで、罪に定められるのでしょうか。神は異邦人を罪に定めることをなさらない。これがパウロののべ伝える神の福音です。

パウロが恵みを与えられて仕えるようになったこの福音は、神さまは、イスラエルも異邦人も等しく、律法の行いによる自己の義によってではなく、純然たる恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によって救われると告げるのです。神はイスラエルも異邦人も、ただ恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によって罪を許し、義と認めてくださるお方であること、これが喜ばしい救いの訪れ、福音なのです。この福音は、異邦人とイスラエルが大胆に、肩と肩を並べ、兄弟同士として父なる神に近づくことを可能にするのです。

「すべての者の中で最もつまらない者」使徒パウロは自分をそう呼びました。彼はこのとき、獄中にあって鎖に繋がれる身でした。
天上のない監獄と呼ばれるガザの教会がイエス・キリストの福音を信じて生きようとしても、この人々は最も小さく、つまらない者とされていると言わざるを得ません。

でも、パウロが獄中から呼びかけた「落胆してはいけない」というメッセージは、わたしたちを、今困難の中にあるパレスチナの兄弟姉妹とともに立ち上がらせないでしょうか。イエス・キリストの教会が、世界中のキリスト者が、今日、このような悲しむべき事態の中でなお、神の実現されるキリストの計り知れない富を信じ、それに預かり、希望を持って祈り、生きていること、それが、まさに今の世界に届けられるべき獄中書簡なのです。

わたしたちは、パウロが獄の中から父なる神に祈った祈りを、今日、私たちの心から祈る祈りとして、父なる神に向かってこう祈ります。

14節〜21節。