復活節礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第19回「敵を愛しなさい」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 イザヤ書58章3~10節
新約聖書 ルカによる福音書 6章1〜11節

 

ルカによる福音書連続講解説教 第19回
「敵を愛しなさい」 ルカによる福音書6章1〜11節

1、2節
今日、わたしたちが読んでいる6章の1〜11節には、安息日に、ファリサイ派の人たちが主イエスに対して、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と非難を受ける話が記されています。
一度は、安息日に麦畑を通って行った弟子たちが、麦の穂を摘んで、手でもんで食べたことが問題にされましたし、もう一度は、主イエスが右の手が萎えていた人を安息日に会堂で癒したことが問題になりました。
弟子たちのした麦の穂を摘んで、手でもんで食べたことは、とても些細なことだと言わざるを得ないし、主イエスが萎えた手を癒された行為も、それが安息日以外の日になされたのであれば、何も問題にはならなかったことでした。
ですから、ここで起きていることが、重大で、深刻な結果を招くようなことだとは思わないで、この箇所を読み過ごしかねないのですが、事実はそうではありませんでした。

このときの結果は実に深刻でした。ルカによる福音書では「彼らは怒り狂って、イエスをなんとかしようと話し合った」とありますが、マルコでは、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速ヘロデ党の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(マルコ3:6)と記されています。
主イエスが最終的に十字架にかけられた理由は、主イエスがご自身を神の子であると言ったということが最大の理由でしたが、それと並んで、主イエスが安息日の戒めを破ったこともその一つでした。(ヨハネ5:18)

イスラエルの社会では、モーセの十戒によって「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と命じられていることを受けて、人々は安息日の労働を避けてきました。その安息日の掟を破って、安息日にしてはならない仕事をするものは、命を断たれたのです。

6〜8節
安息日の掟をゆるがせにするような者を断固許さないユダヤ人社会にあって、主イエスの生き方は「流れに逆らう」ようなものでした。主イエスは殊更にファリサイ派の人々を挑発しようとした訳ではないでしょう。とは言え、彼らとの間に対立を招かないように配慮するようなこともしておられませんでした。主イエスは自分の生き方を隠そうとはなさらないのです。手の萎えた人に真ん中に出てきなさい、と言われた主イエスは、ご自身、ユダヤ人社会の真ん中に立たれたと言えるでしょう。

この人は右手が萎えていました。多分右利きだったのでしょう。普通、癒しがなされるときは、本人が主イエスに癒しを求めます。でも、ここはそうではありません。右手が麻痺してしまい、使えなくなっているこの人はその障がいを抱えながら、これまで生きてきたし、これからも生きてゆこうと思っていたのではないか、不自由な手を主イエスに癒していただきたいと願ってはいなかったのではないかと思われるのです。少なくともこの人が、安息日に、この会堂に来たとき、主イエスから、この日に、ここで癒していただくことを願ってではなかったし、それを予想してでもなかったでしょう。

律法学者たちは、主イエスが安息日に病気を癒されるかどうかに注目します。律法学者たちの解釈では、生きるか死ぬか、命に関わるような病気であれば、安息日に人を癒すことは許されるとされていました。生死に関わらないような場合は、安息日以外の日に治療をすべきであるというのです。右手の萎えた人の場合はそれに該当していました。

ですから、主イエスはここで、二重の意味でこの人の癒しをしないでおく可能性があり得たと思うのです。まず、本人が求めていないことです。また、生死に関わらない病気であるから、別の日に癒すという可能性です。そうすれば安息日の掟を犯したと言ってファリサイ派から非難攻撃を受けないで済んだでしょう。しかし、主イエスはその二重線を超えてゆかれます。

9〜10節
萎えていた手は元どおりになりました。説教準備で読んだ註解書の中にとても心打たれた文章がありましたので、紹介したいと思います。

人は、手で物を持つこと、物に触って感触を得ること、愛撫すること、物を作ることができます。手は創造主であり、救い主であられる神さまを、目に見える形で最もよく表すアナロギー・類比です。手は、人を救われるキリストを示す、普遍的な印としてとても重要なのです。

手が創造主であり、救い主であられる神さまを、目に見える形で最もよく表すアナロギー・類比であるならば、私たち人間は、救い主である神に創造された者たちとして、私たちの手は、私たちが創造主である神によってつくられ、救い主である神によって救われていることを最もよく示すと言えるでしょう。反対に、この人の萎えた手は、本来、神が私たち人間を、創造主であり、救い主なる神の形としてつくられたにも関わらず、私たち人間がその本来の姿を失っていることを象徴的に示していることになるでしょう。手が手としての本来の働きと機能を回復し、物を手で持ち、物に触って感触を得ること、愛撫すること、物を作ることができるようになることは、人間が、人を救い、助け、愛される創造主にして救い主なる神の形であることを表し、主なる神を褒め称える者として回復される、神の救いを象徴しています。

わたしたちはルカによる福音書を読み続けてきました。5章では、ペトロ達が人間をとる漁師として召された記事を読みました。その後で、らい病人の癒し、中風の人の罪が赦され、病が癒される話、徴税人レビが主イエスの弟子となった話を読んできました。
そこでは主イエスを絶えず監視し、批判するファイリサイ派の人々に囲まれていたのでした。でも、主イエスはその冷たい監視の視線を浴びても、少しもひるむことなく、一人、一人の人間を愛し、救って行かれました。

まさに人間をとる漁師、人間を生け捕りにして、神の使命に向かって生かすお方でした。主イエスは、救いの神の御手そのものでした。
それにひきかえ、ファリサイ派や律法学者のしていたことは、なんだったでしょうか。彼らの目は人間を見ていたでしょうか。人間の救いを願っていたでしょうか。象徴的なのは、弟子達が麦の穂を摘んでそれを手でもんで食べたと言って目くじらを立てたとき、ファイリサイ派の人々が、弟子達のひもじさ、麦の穂を摘んで食べたいと思うほどに空腹だった彼らのことを果たして想像したかということです。しかも、弟子達を非難するファリサイ派の人々のお腹は満腹に近かったのではないかということです。

ファリサイ派の人々のことを、わたしたちは人ごととして批判するのでなく、このような非人間性、愛のなさ、冷たさを、神を信じる信仰者であると言っている自分自身、同じように持っていないかどうかを顧みたいと思います。手の萎えた人を見ながら、その人の悲しみや、不自由さのことなどつゆも思わないで、主イエスがその人を癒すかどうか、訴える口実を見つけようとしていたファリサイ派の人々の非人間的な姿は、神さまの目に、人間としてのあり方が萎えてしまった罪人の姿としてうつっているのではないかということです。

みなさん、今日の復活節の日曜日は、そのように萎縮してしまっている罪人である私たち、その回復を願うことさえしないで諦めてしまっている、すべての人間を回復するために、神が主イエスを復活させてくださった日です。主イエスは、この日に、ご自身、安息日の主として、わたしたちを本当の安息に招き入れてくださいます。わたしたちを真の人間の姿に回復し、神と隣人を愛し、神を讃え、隣人を喜ぶ人としてくださるのです。その主イエスを喜び、神に感謝し、賛美をささげましょう。

父と子と聖霊の御名によって