受難週夕礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第18回「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に」 説教 澤 正幸牧師
新約聖書 ルカによる福音書5章33〜39節


 

ルカによる福音書連続講解説教 第18回
「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に」 ルカによる福音書5章33〜39節

33節
ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈っていましたし、ファリサイ派とその弟子たちも同じようにしていました。この人々が、それぞれに、断食を守り、祈るために集まっていることは、ユダヤ人社会において、人々が公に認めていること、尊敬の目を持って見られていたことだったと思います。宗教生活として正しく、立派なことだと思われていただろうと想像します。
それに比べたとき、主イエスとその弟子たちが断食もしない、ヨハネの弟子たちや、ファリサイ派の人々のような祈りのときも持たない、それを見た周囲の社会の人々が奇異な感じ、違和感を覚えたとしても不思議ではなかったでしょう。
マタイはこのように主イエスに問いかけたのはヨハネの弟子たちだったと書いていますが、マルコもルカも「人々」と書いています。ということは、主イエスと弟子の振る舞いは、一部の人、ヨハネの弟子やファリサイ派といった当事者だけでなく、直接そこに属してはいない外部の、一般の人々に取っても関心事でもあったと受け取ってよいだろうと思います。

34〜36節a
主イエスのお答えは、普遍的とでも言える、一般常識に訴えるようなお答えです。主イエスとその弟子たちの振る舞いを、ヨハネの弟子たちや、ファリサイ派の人々から、どうして自分たちと違うことをするのかと問われて、それに対して答えるだけでなく、当事者以外の、周囲の人々がどういうことなのかと不思議に思うのに対して、だれでもが納得する理由を掲げて、お答えになったと言えると思うのです。
主イエスと弟子たちが今、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人たちと違って断食していない理由が、花婿である主イエスがともにいるからだというのは、わかります。
だとすると、主イエスの弟子たちが断食するようになる日、花婿である主イエスが取り去られる日が来るというのは、いつのことを指しているのでしょうか。このことは説教の最後にもう一度取り上げたいと思います。

36節b〜39節
この喩えは生活経験としてだれでもが認めること、理解できることばかりです。最後の39節に関しても、これも常識的に認められることです。
しかし、この喩えで一体、主イエスは何を言おうとされるのでしょうか。とりわけ、38節までと39節は、反対のことを言っているようで、一貫性を認めることが難しいように思われます。
ここでは「新しい服」、「新しいぶどう酒」、「新しい皮袋」と、「古い服」、「古い皮袋」というように、新しいものと古いものとが対比されています。
そこで、喩えられている「新しいもの」とは、主イエスが来られてもたらされたものを指しています。主イエスの教えは「権威ある新しい教え」(マルコ1:27)だと言われます。放蕩息子が帰ってきたことを父親が喜んで肥えた子牛を屠って祝宴を始めたように、主イエスの招きを受けて、罪人が悔い改めて神のもとに立ち返ったのを喜びいわうことこそ、主イエスとその弟子たちにとってふさわしいことであり、断食は、主イエスによってもたらされている「新しいもの」にふさわしくないことがわかります。
主イエスがもたらされた「罪の赦し」の福音という新しいぶどう酒を入れる「新しい皮袋」は、ファリサイ派やヨハネの弟子たちが守っていた断食という「古い皮袋」とは違うものにならざるを得ませんでした。

そうだとすると、最後の39節の「古いぶどう酒」とは何を指すのでしょうか。そして、「古いぶどう酒」を飲む人は、新しいものは欲しがらない、古いものの方が良いと言うからだというのは、一般常識ではその通りですが、ここでは何を言わんとしているのでしょうか。

わたしたちは今日、主イエスが守られた最後の晩餐を記念して、ここに集まりました。その席上、主イエスは「わたしを記念してこのように行いなさい」と言われて聖晩餐を制定なさいました。そこで、主イエスは杯をとって、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20)と言われました。

この「新しい契約」とは、「古い契約」に対しての「新しい契約」のことであり、主イエスにおいてたてられる新しい契約を意味しています。先ほど、39節において「古いぶどう酒」が出てきていましたが、その「古いぶどう酒」とは、古い契約を指していると受け取って良いと思います。

主イエスが最後の晩餐を弟子たちとともに守ったその夜は、満月の夜であり、ユダヤ人が過越の祭を祝う夜でした。この夜、ユダヤ人はそれぞれの家ごとに小羊を屠っていただく過越の食事を守っていました。その中で、主イエスがご自身の体を過越の小羊としなさり、ご自身の肉を裂き、ご自身の血を流して、わたしたちの罪の赦しのための贖いの犠牲となさったのです。これはパロの奴隷であったエジプトからの古い出エジプトに対して、罪と死の支配からの新しい出エジプトでした。ここにおいて古い契約ではなく、新しい契約が立てられました。

しかし、ユダヤ人たちは2千年たった今でも、今宵、過越の祭りを守っています。彼らは古い契約を古いながらに守り続けているのです。彼らがそれにいつまでも執着し続けるのは、ぶどう酒は古いものこそ良いと言って新しいものを欲しがらないからなのです。
先日から度々引用するスイスの聖書学者、エドワルト・シュヴァイツアーはこのことについてとても興味ふかいことを言っています。
「イエスは確かに自分がもたらした新しいものを古い形に混ぜ合わせることを拒否したが、しかし、人が古い仕方で神に仕え、神の義を働かせることを非難しなかった。」

主イエスは、ご自分がもたらされる「新しさ」と、ヨハネの弟子やファリサイ派の信仰生活、礼拝生活が調和しないこと、それを両立させることはできないということを、はっきりと教えられました。だからと言って、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の信仰を否定したり、非難したりはなさらないということです。

このことはキリスト教とユダヤ教の関係を考えるとき、重要なことだと思います。先ほども申し上げましたように、今日、この時間に、世界中のユダヤ人が過越の祭りを守っていると思います。そのことに対して主イエスは、またキリスト教会は非難しないし、すべきではないということです。ヒトラーのナチズムを持ち出すまでもなく、新しい契約に立つキリスト教会が古い契約に立ち続けるユダヤ人に加えた迫害の歴史は、誤りだったということです。

39節のことについてさらに考えたいことが二つあります。
一つは、新しい契約に立つキリスト教会の中にも、「古いものの方が良い」という傾向があるのではないかということです。教会での礼拝の守り方、賛美歌、信仰生活などについて、長い間、慣れ親しんだものの良さ、心地よさと言ったものがあり得るでしょう。私たち自身の中に自分の好みに執着する傾向があることは確かだと思うのです。
わたしたちは自分のそのような好みを、他者から尊重してもらうことについて、申し訳なく思う必要はないと思います。先ほど、ユダヤ人が古い契約に執着したとしても、キリスト教会はそれを非難すべきでないといった通りです。

だったら、わたしたちの教会が新しい契約にあずかっている、その「新しさ」の所以はなんなのでしょうか。ユダヤ人が古いものの良さに執着している、それを凌駕する新しいものの「良さ」はどこにあるのでしょうか。

みなさん、ヨハネの弟子たちが断食し、ファリサイ派の人たちが敬虔な信仰生活を守るのを、周囲のユダヤ人たちも尊敬の念を持って見ていたでしょう。それに対して、主イエスとその弟子たちが、あるときはファリサイ派の人々から眉をひそめられながら、徴税人や罪人たちと喜びの食卓を囲んでいました。

そして、ファリサイ派と主イエスの間の亀裂は徐々に深まって、ついに後戻りできない対立にまでいたって、主イエスは罪人の一人として十字架につけられて殺されてしまったのです。その日、悲しみの日、断食の日が訪れました。しかし、ユダヤ人の指導者たちが十字架につけて殺した主イエスを、神はよみがえらせられました。これが新しいぶどう酒である福音であり、それを信じる群が、新しい皮袋である教会です。

古いぶどう酒にすら、はるかにまさる良いぶどう酒、それは人間の好みに基づかない、神の喜びからくるところの良さです。神の喜び、神のなさる新しい救いのみわざからくる新しさの宿る、良さとはなんでしょうか。古い、人間の文化、伝統は素晴らしいものではありますが、果たしてそれが分断や対立ではなくて、違いを超えて、人類を一つに結びつけることができるでしょうか。

わたしたちは自分たちの良さ、敬虔さ、正しさよりも、そのようにして世からも認められ、評価されることよりも、罪人である私たちを、罪あるままに受け入れ、赦し、愛し、喜んでいただいた神の恵みを喜び、その神にあって、互いに赦し合い、愛し合い、受け入れあうものとされることを喜びとしたいと思います。それが、今、わたしたちが喜び祝う、新しいぶどう酒である福音であり、わたしたちが招かれている主の食卓という、新しい皮袋なのです。

父と子と聖霊の御名によって。