聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第20回「「十二弟子の選任」 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 エレミヤ書28章1~17節
新約聖書 ルカによる福音書 6章12〜26節

 

 

ルカによる福音書連続講解説教 第20回
「十二弟子の選任」 ルカによる福音書6章12〜26節

12、13節
今朝、わたしたちが読んでいるのは、主イエスが12人の弟子を選んで、使徒とされた箇所です。教会が主イエスに従う弟子たちの群れであるとするなら、今日読んでいるこの箇所に教会の出発点、原点があると言って良いでしょう。
すると、教会の原点について、ここから教えられることは何でしょうか。主イエスは12人の弟子を選ぶにあたって、一人で祈られた、つまり、主イエスに従う弟子たち、教会の群れは、主イエスの祈りの中から生まれたということでしょう。主イエスの祈りと、その祈りを聞かれた神の御心から主の弟子は誕生し、その群である教会は出発しているということです。

ここに福岡城南教会の創立時の牧師であった、藤田治芽牧師の追悼記があります。藤田牧師は1994年4月に94歳で亡くなられましたが、この追悼記の中に、長女の楠川恵美子さんが、城南教会が誕生した時のことを書いておられます。この手記を読むとわたしたちの城南教会も祈りの中から生まれたことがわかります。

わたしたちは先週、復活節を迎えました。復活節の朝、主イエスがよみがえって墓が空になったとき、その墓を訪れたのはだれだったでしょうか。二人、三人の女の弟子たちが墓を訪れましたが、その他の、主イエスからこのときに選ばれた弟子たちはどこにいたのでしょうか。彼らの姿はそこになかったのです。

そこにいなかったペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、レビとも呼ばれるマタイ、そのほかの弟子たちが、しかし、のちに復活の証人として主イエスに従ってゆきました。姿が見えなくなった弟子たちが、もう一度、主イエスに従って行った、それは何を物語っているのでしょうか。
主イエスが弟子たちを選ばれるにあたって、徹夜で祈られた、あの祈りの中で、弟子たちは生まれただけでなく、姿が見えなくなった時ですら、主イエスの祈りによって支え続けられ、主イエスの祈りによって再び立ち上がり、弟子としての歩みを全うしたと言えます。

主イエスの祈りは固く立てられた柱のようです。どんなことがあっても、この柱は倒れず、揺らぐことなく、立ち続けます。また、主イエスの祈りは、岩のようです。この岩は動くことがないのです。その岩によって支えられて、弟子たちは初めて弟子であることを許されるのです。

今日の会報の裏に、わたしたちの教会の会員である谷村禎一さんが、先週、ドイツのベルリンで守られた復活節礼拝の様子を知らせてくださった文章が掲載されています。
実は、最初、ドイツから送られてきたこの文章を読んだとき、私にはどうしても腑に落ちない所がありました。それは6行目の終わりから始まる次の文章です。
「ところが、(ベルリンの日本語教会が)会堂を借りていたPaul-Gerhardt教会の午前の礼拝には出席者が5〜6名ということもありました。1960年代には約2万人いたこの教会の信徒は、数年前には数千人にまで減少しています。教会の財政の問題によって、ベルリン日本語教会が午後に小礼拝堂を借りるには、1回1万円の使用料が必要になったそうです。会堂の維持管理が大変で、礼拝参加者の激減で大きな会堂が必要でなくなっているのは、ドイツの教会が抱えている問題です。」
ベルリンのPaul-Gerhardt教会はおそらく何千人もの人が入れる大きな礼拝堂を持っているはずですし、今は会員数が減少したとはいえ、数千人の信徒がいる教会の、日曜日の朝の礼拝に5〜6人しか人が集まらないなどということがあり得るでしょうか。3年前からのコロナも大きく影響しているのかも知れません。でも、この数字は何かの間違いではないかと思いました。それで谷村さんに確かめたところ、間違いではないということでした。今、キリスト教国と言われるヨーロッパのドイツの首都、ベルリンで、由緒ある教会に集う人の数は、片手で数えられるほどなのです。

このことは、日本の教会にも重なっていることです。わたしたちもまた、この礼拝堂が閑散としてしまうことを恐れています。わたしたちの教会に若い人が少ないこと、こどもたちがいないことは厳然たる事実です。このまま行けば、この教会の5年後、10年後はどうなってしまうかという危機感を抱かざるを得ません。どうしたら、礼拝堂を人々でいっぱいにすることができるのか、若い人たち、こどもたちを集めるためにはどうしたら良いのか、そのことをだれもが考えるようになっていると思います。

わたしたちの教会も、ヨーロッパの教会も、やがて姿が消えてしまいはしないのか。でも、みなさん、いくら人々がたくさん集っていたとしても、また盛んで活発な活動がなされていたとしても、果たして、それが本当のイエス・キリストの教会であるかどうか、それが問題だということを考えなければならないのではないでしょうか。

先ほど読まれた旧約聖書、エレミヤ書28章に、預言者エレミヤが、神殿の礼拝において堂々と「万軍の主はこう言われる」と言って預言する預言者ハナンヤと対決する場面が描かれていました。「万軍の主はこう言われる」と言って預言する預言者ハナンヤに対してエレミヤはこう言いました。

「あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることがわかる」(28章8、9節)

ハナンヤの語る平和の預言の言葉を人々はきっと「褒めそやした」に違いありません。彼の語る預言は人々が聞きたいと願っていた預言であり、人々を喜ばせるような預言でした。それに対してエレミヤは、口を開けば、災いだ、破滅だと叫ぶことしかしないとエルサレムの人々は言って、預言者エレミヤを罵り、憎み、迫害し、ついには殺そうとしました。

22、26節
主イエスは弟子たちに、彼らが人々から褒められるようなことを語りなさいと言われたでしょうか。そうではありませんでした。
たとえ、教会堂に人が溢れかえったとしても、それが、人々を喜ばせるような、人々の好む言葉がかたられ、人々がそれを評価し、人々が偽預言者を「褒めそやす」ように教会を褒めそやす結果だとすれば、人が何千人、何万人集まり、大きな会堂が、人々で満杯になっていたとしても、それを教会とは呼べないのです。
それは少なくとも、イエス・キリストの教会ではありませんし、生けるまことの神が礼拝されているところではありません。
教会はイエス・キリストの祈りの中から、イエス・キリストがただ一人祈られる祈りから、無から、何もない、だれもいないところから、ただ神の御心によって生まれます。

20、21節
主イエスは言われます。「貧しい人びとは、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」

教会は富んでいる人ではなく、貧しい人々の集いです。満腹している人でなく、飢えている人、笑っている人でなく、泣いている人々の集まりです。
なぜでしょうか、それは教会のかしらである主イエス・キリストが、ご自身貧しく、飢えを知り、泣く者たちのために涙を流されるお方だからです。教会のかしら、主イエスが裕福ではなく、満腹したお方でもなく、笑っているお方でもないのに、その教会が裕福な人々の集まりだったり、満腹で、笑う人ばかりの集まりだったらおかしくないでしょうか。そういう教会があるとすれば、その教会のかしらはイエス・キリストではないでしょう。

イエス・キリストは貧しい者として馬小屋に生まれてこられました。主イエスが貧しさを知られたのは、わたしたちが貧しい者たちであることをご存知だからです。わたしたちの貧しさを憐れみ、わたしたちと貧しさをともにしてくださるために、主イエスは貧しくなられました。

みなさん、わたしたちは本来、だれもが、貧しい者たちではないでしょうか。あらゆる面でそうではないでしょうか。物質的に貧しいし、精神的に貧しく、肉体的にも貧しいと言わざるを得ないと思います。わたしたちは何より神さまに対して、神さまの前で貧しいのです。なぜなら、わたしたちは何一つ持たずに生まれ、また何一つ持たずに世を去る者として貧しいだけでなく、地上で生きている間にも、わたしたちが何かを持っているとすれば、それはすべて神さまからいただいたものであり、神様からいただいていないものが、一つでもあるでしょうか。それゆえに、だれ一人、神さまの前で、神さまに対して、自分が富んでいるなどと言える人はいないはずなのです。

たとえ、わたしたちが富んでいたとしても、満腹し、笑っていたとしても、わたしたちのそばに貧しい人、飢えている人、泣き悲しんでいる人がいる以上、それらの人が幸せになるまでは、わたしたちは幸せではありえません。そのような意味で、わたしたちは貧しいし、悲しんでいます。

しかし、そのようなわたしたちに対して主イエスは、あなた方は幸いだと言われます。なぜなら、神さまが、そのように貧しいわたしたちのために、御子を遣わし、わたしたちを愛し、慰め、癒し、空腹を満たしてくださるからです。主イエスと共に、笑う日が来るからです。喜びあえる日が来るからです。このような日が来る。わたしに従って、このような日に向かって歩みなさいと主イエスから語りかけられているのが主イエスの弟子たちなのです。

主イエスが十字架につけられたとき、弟子たちは主イエスを見捨てて逃げ去りました。ペトロは三度主イエスを知らないと言いました。主イエスの十字架は弟子たちにとって躓きでした。しかし、それは弟子たちにとって、もう一度、自分の貧しさを知るときになったと思います。そして、もう一度新しく、貧しいもの、泣き悲しむもの、義に飢え渇くものは幸いだとの福音を聞くことを許されたのだと思います。弟子たちとその服従は主イエスの祈りから生まれました。わたしたちの教会もまた、この主イエスの祈りの実です。

教会は一部の人の集まりではないのです。わたしたちの教会に人が集まり、この会堂に人がいっぱいになることが目指すべき目標ではありません。弟子たちはすべての人々に呼びかけるための使者として使徒に任じられました。使徒というのは、主イエスのお使いです。わたしたちの教会もそうです。主イエスのお使いとして、主イエスのことを知らせ、主イエスのもとに人々を招くものたちなのです。

父と子と聖霊の御名によって。