聖日礼拝 「肉で死に、霊に生きる」
説  教     内田 聡 長老
旧約聖書  詩編 31篇1節~7節
新約聖書  ルカによる福音書 23章44節~49節

礼拝堂の入り口の赤いキャンドルに火が三つ灯って、いよいよ来週は降誕節です。御子の誕生を祝う週となるのですが、本日、説教で取り上げる記事は、御子の死です。主を待ち望むアドベントの気分に水を差すようなものですね。布にくるまれて飼い葉桶に眠る嬰児のイエス様が、十字架刑の死で終わるということを知っていたなら、母マリアは我が子の誕生を素直に喜べたでしょうか。

イエス様を身ごもった時、天使ガフリエルはマリアに告げました。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」と。確かに、イエス様が掛けられた十字架の上には、「「これはユダヤ人の王」と書いた札」が掲げられていました。ユダヤ人の王であると自らを名乗ったことが、ローマ帝国の秩序を乱すとして処刑されたのでした。それはイエス様を妬む者の策略による冤罪でした。このように不条理な死に方をしたイエス様を、どうして救い主・キリストとして待ち望んでいるのでしょう。

既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。」多分、日蝕が起こったのでしょう。

それは単なる自然現象ではありません。イエス様が語っていた「終わりの日」の徴です。ルカによる福音書21章25節。「それから、太陽と月と星に徴が現れる。」 この御言葉はイエス・キリストの再臨を予告したものですが、旧約聖書の時代が終わる とするなら、イエス様が十字架刑で死ぬ日は、ユダヤ人にとっての「終わりの日」と言うこともできるでしょう。「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。」という御言葉は、それを象徴しています。

モーセの律法に、「この垂れ幕はあなたたちに対して聖所と至聖所とを分けるものとなる。」と書かれてある通り、至聖所は聖なる神が臨在する場所でした。垂れ幕を隔てて神様を崇めていたユダヤ人の神殿礼拝は、垂れ幕が裂けることで正統性を失いました。神の子であるイエス様を神の民であるユダヤ人が殺してしまったからです。聖書では「裂けた。」と能動的に訳されていますが、原文は「裂く」という言葉の受動形です。垂れ幕は神様によって「裂かれる」のです。

ところで、福岡城南教会の講壇には特徴があります。ご覧のように礼拝堂の正面中央に取って付けたようです。ちょっと高くはなっていますが、それは聴衆への配慮に過ぎません。いわゆる一段高い内陣、聖域のようなものが無いのです。これはイエス・キリストを覚える聖餐卓を中心に、呼び集められた人々が礼拝するという思いを反映しています。

この礼拝堂には神と人を隔てる垂れ幕がありません。神と人の間には私たちの大祭司であるイエス・キリストが聖霊として臨在されるからです。

ルカによる福音書はイエス様の臨終の場面を短く描きます。並行するマタイやマルコの福音書には、「「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」」というイエス様の叫びや、興味本位にエリアの降臨を見たがる人々の様子が描かれています。人生の不条理と、それを揶揄する人々の罪の姿です。現代に至るまで繰り返されてきた人間の絶望的な終わりです。そのために罪に囚われ、悪びれて滅ぶ者はいるでしょう。罪に対する罰を自ら引き込んでいるのです。しかし、人生の不条理から、罪から救われたいと願う者もいます。先週の説教で聞いた十字架の左と右にいる犯罪人は、人間の滅びと救いを表しています。主の十字架を前にして下される審判の現実です。イエス様は審き主であるにもかかわらず、この現実を人間として、人の子として共にされました。

46節、「イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」 こう言って息を引き取られた。」 この叫びはイエス様の隠されていた本性、神の子によるものです。神の子であるから、神様を「父よ、」と呼びかけます。先程、朗読していただいた詩編31篇6節は、「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」と書かれていますが、「まことの神、主よ、」と呼びかけるのは、この詩編の作者であるダビデが人の子だからです。誠実に仕えているサウル王から妬まれ、王となっても息子アブサロムに刃を向けられる、彼自身は部下から妻を奪い取る罪を犯している。不条理な人生と罪の中にいるダビデが、それでも神様を信頼し救いを願う、この詩編は人の子の祈りです。

イエス様は、神の子として人の子の祈りを執り成します。「わたしの霊を御手にゆだねます。」という御言葉は、原文では「わたしの霊を御手の傍らに置きます。」と訳すこともできます。ここから罪を贖う犠牲の捧げもの、小羊を連想するのは飛躍でしょうか。但し、捧げものは肉ではなく霊です。

ルカによる福音書はイエス様の誕生にあたって、マリアに告げられたことを伝えます。「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」 肉としてあるイエス様の始まりは霊によるものだったということです。そして肉としてあるイエス様は、十字架で終わりを迎えます。その霊は人の子の罪の贖いとして捧げつつ、神の子として父に委ねるのです。

私は本日の説教題を「肉で死に、霊に生きる」としました。これは誰のことだと思われますか。肉であったイエス様は十字架で死に、三日後にキリストとして復活し、天に昇り聖霊として現臨します。だから、イエス・キリストのことだと思われるかもしれません。私もそのつもりで説教題としたのですが、準備を進めるうちにイエス・キリストを信じる者でもあるのでは、と思っています。イエス・キリストの十字架を自分の出来事として受け止めるからです。

46節の後半、「こう言って息を引き取られた。」原文を直訳すると「息を吐き出した。」です。創世記にある人の創造は「命の息を吹き入れられた。」ことでした。神様から鼻に息を吹き入れられることで、人は生きる者となりました。神の息は霊の別の名です。息を吐き出すこと、肉体から霊が離れることで人は死ぬのです。

5年前のことですが、コロナウイルスの災いにある世界で キリスト者はどのように歩むべきか、説教したことがありました。ガラテアの信徒への手紙5章16節の「霊の導きに従って歩みなさい。」に聴いたものです。伝えたかったのは、人間は肉と霊で生きるということ、肉の欲望ではなく霊の導きに従って生きよう、というものでした。積み重なっていく死体の山を前にして、少しでも希望を語りたいと思っていました。しかし取り上げた聖書の記事はキリスト者の日常的な倫理についての勧告で、非日常的な事態にあった人々の希望としては、適切あったか疑問が残ります。

コロナウイルスでは、親友が瀕死の状態になりました。集中治療室に入って酸素吸入を受けている友の回復を祈り、先程の説教を送りました。一命を留めた後で彼にメールを送っています。その当時の気持が、説教よりも伝わるのでご紹介します。

【君がコロナに罹ったと聞いた時は、本気で人の死を感じました。これまで自分の死について、あれこれ考えているのに、人の死については余り実感がありませんでした。言い残したことが、たくさん湧き出て来ました。手遅れになる前にという思いで送ったのが、説教の音声です。伝えたかったのは、「僕らの体は肉と霊としてある。肉は滅びても霊は甦る。死は眠りで、必ず目覚める。だから死は怖くない。眠りの時間がどんなに長くても、本人には一瞬のこと。目覚めた時、僕らがどんな形なのかは分からない。でも、僕は君のことが必ず分かる。友よ、また会おう。」というものです。僕が信じる「復活」です。君が生きていて良かった。また、話をしましょう。】 クリスチャンではない友に、肉と霊に基づいた「復活」がどれほど伝わったかは分かりません。映画プロテューサーの彼は、同じくコロナウイルスで苦しんだ監督と共に映画を創りました。『果てしなきスカーレット』というアニメーションです。よろしかったら、ご覧になって下さい。

イエス・キリストの十字架は、神に背く根源的な罪を滅ぼされました。それを信じる者が肉に於いて死んでいるようでも、神に委ねた霊によって生きることを可能としました。わたしたちは肉の欲望に囚われることなく、聖霊に導かれた新しい人生を歩んでいます。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章13節から14節で書いています。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」 イエス・キリストを信じる者は「肉で死に、霊に生きる」ということです。

本日の記事に戻ります。47節からは、十字架の出来事を見た者たちのことが書かれています。百人隊長は「「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美します。」  見物に集まった群衆は「胸を打ちながら帰って行った。」異邦人の百人隊長は、いかなる神を賛美しているのでしょう。群衆は、なぜ胸を打つのでしょう。

現代の聖書註解者は、イエス・キリストの死に様が、真の神の理解と悔い改めを導き出したと考えます。百人隊長は、ルカによる福音書の7章に出てくる百人隊長と同じく、「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」と言うような、真の神を畏れる人になる。群衆は18章に出てくる徴税人と同じく、「「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」」と悔い改める者になるということです。

一方、わたしたち改革派の始祖ジャン・カルヴゥンは、十字架刑の現実を厳しく受け止めて註解します。十字架刑は、受刑者が死ぬまで悶え苦しむ残酷な刑罰です。その光景は見る者に恐怖を与えたはずです。百卒長が「本当に、この人は正しい人だった」と言うのは、十字架刑の苦痛に耐えるイエス様に驚嘆したから。群衆が「胸を打ちながら帰って行った。」のは正しい人を十字架につけた自分たちに下される罰を嘆いたから。確かに、十字架のイエス様に只ならぬもの、聖なるものを感じて神を畏れます。しかし、その感情は一時的なもので、悔い改めには至らないとするのです。

おぞましい十字架刑が日蝕という天変地異を伴い、さらにイエス様の只ならぬ言葉を聞いて、冷静でいられる者などいないでしょう。聖なる出来事に遭遇した者が悔い改め真の神を賛美するには、罪の自覚が前提となります。罪の自覚を含めて、信仰が全ての人に与えられるには、イエス・キリストの復活を待たねばなりません。

この十字架から「遠くに立って、これらのことを見ていた」のは、イエス様を知っていたすべての人たち、ガリラヤから従った婦人たちです。このすべての人たちに、十二弟子も含まれていたでしょう。彼らは全てを捨ててイエス様に従ったはずでした。今は、彼ら自身が主の十字架と距離を置きます。しかし遠くからでも、主の十字架を見るかぎり、主との繋がりは切れていません。その繋がりは主が創られたから。主が断ち切らない限り繋がりは続きます。復活した主に出会った時、十字架との距離は無くなり、弟子たちは主の十字架の証人となります。遠くからでも主の十字架を見た事実があるからです。

来週の木曜日はクリスマスです。クリスマスツリーの美しいイルミネーション、どこからも流れる楽しいクリスマスソング。クリスマスケーキは予約した。プレゼントは何にしようか。大人になってもサンタクロースは信じます。人を思い遣る気持ちは永遠だから。何もかも肉の欲望に囚われていませんか。飼い葉桶に眠る嬰児のイエス様は、十字架刑の死で終わるのですよ。それでもクリスマスを喜ぶのは、イエス・キリストの十字架の死と復活が全ての人を救うからです。「肉で死に、霊に生きる」の新しい人生を確かにするからです。クリスマスは肉としてあったイエス様の終わりから遡って喜ぶべきでしょう。神様が御子によって人を救う御計画の始まりだからです。これがクリスマスの真実。わたしたちは真実を知りました。この教会の外に出たなら、あなたなりのやり方でクリスマスの真実を伝えてください。

父と子と聖霊の聖名によって。

お祈りします。

父なる神様、御子のご降誕を待ち望むアドベントを感謝します。殺伐とした世にあって、人を思い遣る気持ちが甦る、この時を感謝します。この時が、年に一度の特別の時ではなく、いつも心にあるように人々の心を聖霊で照らしてください。人々の霊の眼を開いてください。

どうぞ、わたしたちをクリスマスの真実を伝える者として用いてください。肉の欲望に囚われた不安と戦争が終わり、聖霊に導かれる平安と平和が始まりますように。

この祈りを、イエス・キリストの御名によって受け入れたまえ。アーメン