聖日礼拝 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
説 教 伊藤健一長老
旧約聖書 詩篇 106編1〜5節
新約聖書 ルカによる福音書23章39~43節
12月を迎えました。先週からアドベント、主イエスの御降誕を待ち望む時となりました。今日は、アドベント第2の主日です。この季節になりますと、街ではきれいな飾り付けがなされ、夜ともなれば、とてもきらびやかなイルミネーションが美しく輝いています。博多駅や天神地区は、まさしく「光の洪水」と言って良いような別世界となっています。主イエス・キリストと光の繫がりを意識して、このようなイルミネーションが設置されているのかどうかはわかりませんが、聖書には、主イエスを指して「光」と称しているところがあります。ヨハネによる福音書の冒頭、「初めに言があった」に続いて、1章4~5節には、こう記されています。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」私たちが「光」と聞いてすぐに連想する聖句の一つがこれかと思います。
このヨハネによる福音書の書き出しは、創世記の書き出しを意識したものです。そう思って創世記の書き出しを見ると、1章3節にこうあります。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」ヨハネは、この光の真の意味は、主イエス・キリストであると言いたいのです。
私たちは、「光」と聞いて、どんなイメージを描くでしょうか。目もくらむようなまばゆい光、そこから光の国のヒーローたちを連想するかも知れません。しかし他方、暗闇の中にかすかに存在を示すか細い、しかしそれがないと身動きもできない、か細くてもすがり頼む光を連想することもあるかもしれません。ヨハネが「光」として描くイエス・キリストは、どんな光なのでしょうか。
聖書の中で、光が登場するエピソードとしてすぐに思い出すのは、キリスト教徒を迫害していた使徒パウロ、ここではヘブライ名でサウロと呼ばれていますが、彼がダマスコ途上で出会った光ではないでしょうか。使徒言行録の9章3節から9節までの記事を見てみましょう。
(3)ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。(4)サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。(5)「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(6)起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」(7)同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。(8)サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。(9)サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。
この記事によると、パウロは天から強烈な強い光を受けて、目が見えなくなりました。この展開からここでの光について私たちが受ける印象は、まさしく光の国のヒーローたちの光線技、誤った道を歩んでいたパウロをたたき伏せ、回心させ、主の僕として宣教に仕える使徒へと変えていく、「暴力的な光」というイメージかも知れません。でも、実際のパウロは、ガラテヤの信徒への手紙の冒頭で、そのできごとをこう語っています。
(15)しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、(16)御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、(17)また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。
これは1章15節から17節の部分ですが、パウロはここで、神が「御子をわたしに示し」たと言っています。パウロはその時どんな姿の御子と出会ったのでしょうか。それを知るヒントを、コリントの信徒への手紙一1章23節にこう記しています。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」
すなわち、実際のパウロの身に起こったことは、強烈な光によって暴力的に回心を迫られたということではなく、十字架につけられたキリストと出会い、そこから回心してキリストの使徒となり、生涯をかけてキリストを宣教する者へと変えられていったということなのです。啓示された主イエスを通してパウロが見た光は、イザヤ書のことばを借りれば、「暗くなってゆく灯心」に近いかも知れません(42:3)。輝かしいイルミネーションとは大きな差があります。ここで「十字架につけられた」と訳されている言葉ですが、文法的に見ると、ギリシア語では、受動相の現在完了分詞になっています。現在完了という時制は、そこで完了したことの結果が、現在の私たちにも及んでいるという意味合いを表現しています。そのニュアンスを表現するために、西南学院の青野名誉教授は、これを「十字架につけられたままのキリスト」と訳出されました。わたしは、この訳でいいのだろうか、と最初は違和感があったのですが、同時に、この訳によって気づかされたことがありました。それは、私たち一人一人と出会ってくださった主イエスは、まちがいなく、この「十字架につけられたままのキリスト」だったのではなかったか、ということです。このキリストと出会わせていただいたからこそ、私たちは主イエスを信ずる信仰者とされたのではなかったでしょうか。アドベントを迎えている今、主イエスは、今も「十字架につけられたままのキリスト」として私たちとともにいてくださっていることを覚えて、主の御降誕を待ちたいと思います。
ルカによる福音書の物語は、主イエスが十字架につけられた場面まで進んでいます。主イエスと、二人の犯罪人が引かれて行き、一人は主イエスの右に、もう一人は左に十字架に架けられました。その時、主イエスは、十字架上の7つのことばの第1のことばを言われます。それが、34節の「『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」でした。ルカが伝える主イエスは、父なる神の御心に徹頭徹尾従い、どんな時でも神のご計画に沿って行動する方です。マルコおよびマタイの福音書には、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、すなわち「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫された後、最後に大声を出して息を引き取られる姿が描かれていますが、この最後の場面でルカは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と言って主イエスは息を引き取られたと記しています。これは、十字架上の第7のことばです。この変更を、ルカによる編集、と言って片付けるのは簡単ですが、むしろ、ルカは主イエスの最後の叫びの意味を読み取って、このように記していると言うべきだと思うのです。34節でも同じように、ルカは、一切取り乱されることもなく、彼をののしる群衆たちを「自分が何をしているのか知らないのです」と執りなされるイエスの姿を描いています。因みに、ルカは、これらのことばを、使徒言行録7章の中で、ステファノの最後のことばとしても記しています。
さて、十字架につけられた二人の犯罪人ですが、ここで二人は対照的な態度を主イエスに対して示します。23章39節にはこうあります。
(39)十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
ここから、この犯罪人が、熱心党と呼ばれた政治集団のメンバーであったことがわかります。イスラエルを政治的に解放し、国を独立させ、自分たちの誇りを回復させ、ダビデ王国を復興させるメシアを待ち望んでいた政治結社です。その立場からすると、簡単に十字架に架かってしまい、自分も、またもう一人の同志も救うことができない「メシア」への絶望感を聴き取ることができます。この人は、人生の最後の時を迎えても、自分の姿勢をまったく変えることなく、群衆や役人たちと同じ立場に立って主イエスを罵り続けたのです。「自分自身と我々を救ってみろ」とのことばからは、「お前は自分も、我々も救うことはできない無力な存在なのだ」と言いたいのだ、ということがわかりますが、これは彼を取り巻く現状への痛烈な皮肉でもあります。主イエスは、私たちを罪から救うことのできる方です。同時に彼は、自分は救いなどいらない、と言っているように見えますが、本当は救いを必要としている者であることに気づいていないように思われるのです。
しかし、もう一人の犯罪人はまったく異なる姿勢を示します。40~41節にはこうあります。
(40)すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。(41)我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
彼も、同じ罪で十字架刑に処せられているのであれば、一人目の犯罪人とかつては同じ立場に立って活動をしていたのかも知れません。事実、並行箇所であるマルコによる福音書15:32では、「一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」と記されていますし、マタイも27章44節で同じように記しています。これがルカで変更されているということを、私たちはどう理解すれば良いのでしょうか。
ルカは、マルコ、マタイに用いられている資料とは異なる資料から、この記事を執筆しています。ですから、マルコやマタイの記事を都合良く書き換えているわけではありません。むしろ、私たちはここから、この僅かな短い時間の接触から、つい先ほどまで主イエスを罵っていたこの人がこのように変えられた、それだけの影響を主イエスから受けたということに注目すべきなのではないでしょうか。
以前、私たちは、キレネ人シモンが主イエスの十字架を無理矢理背負わされたという物語を学びました。決して主イエスを見捨てないと誓っていた弟子たちは、無残にも散り散りになり、主イエスは十字架への道をお一人で歩まれています。そこに登場して主の十字架を背負うシモンについて、マルコ福音書には、「アレクサンドロとルフォスの父」と説明されています。ということは、シモンはローマの信徒への手紙の16章13節に登場するルフォスの父である可能性があるのだということでした。このルフォスがこのシモンの子なのであれば、彼らはローマ教会を立ち上げていった信仰者たちであった訳で、シモンにもたらされたほんの僅かな、ほんの短い主イエスとの接点こそが、彼の信仰の種まきであったことを物語っています。シモンは、短い時間ではあっても、十字架を背負いながら、その間近でふれた主イエスの言葉や行動から、後に主イエスを信じる者となったとともに、その信仰を家族に継承し、そしてその十字架の意味を最も深く知る者となったのだと思われます。そしてその家族は、パウロの同労者として、初代教会時代に大きな働きをともに担う者たちとされていったのです。
このことに思い至るとき、私たちはこの二人目の犯罪人にも同じことが起こっていることをはっきりと見極めることができると思うのです。9章23節の「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」との御言葉に、シモンとまったく同じように、彼も文字通り応えたのです。彼は、自らの死を目前にしたとき、第1の犯罪者があくまでも自分の生き様に固執し、そこから一歩も離れようとしなかったのとは対照的に、この第2の犯罪者は、同じように自分の生き様を振り返りつつも、かつて命を捧げてきたその生き方のむなしさに気づかされ、主イエスがなさった働きがいかに正しかったかを知らされたのだと思います。かつては自分にとって「教祖」とでも呼ぶべき存在であった主イエスが、自分たちが思い描いていた存在とはまったく異なっていたことに気づいたときに、第1の犯罪者はその憤りを主イエスにぶつけて激しく罵りました。しかし、この第2の犯罪者は逆に、自らの思い描いていた考えの方が誤りであり、十字架上で主イエスが自分の隣になったとき、この方こそが本当のメシアだということが示され、彼はそれに気づかされたのです。この気づきは、到底人間のなせるわざではありません。ここには確実に神のわざがなされています。私たちが信仰を持つようになるときと全く同じではありませんか。その彼の信仰告白が42節です。
(42)そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
先ほど、パウロが回心するにあたって出会ってくださった主イエスは、「十字架につけられたままのキリスト」であったことを見ました。この第2の犯罪者も、まさしく「十字架につけられたままのキリスト」を目の前にしていたのです。この状況で彼が言ったこのことばには、自己主張がまったく見られません。この叫びは、詩編106編の詩人の、「主よ、あなたが民を喜び迎えられるとき わたしに御心を留めてください。御救いによってわたしに報いてください。」との叫びと相通ずるものです。この第2の犯罪者は、隣で十字架に架かっている主イエスこそ、本当のメシアだということがわかった、そのことをはっきりと宣言しているのがこのことばなのです。
これを受けて、主イエスはこう言われます。
(43)するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
これは、主イエスの十字架上の第2のことばです。この約束のことばは、短く簡潔で、しかもはっきりと、あなたは私と一緒にいる、しかも今日、私と一緒に楽園にいる、と約束されます。楽園とは、神の御国のことです。罪人でも、主イエスと繫がるなら、救いに与ることができる、その力強く雄弁なメッセージを、主イエスは瀕死の状態で十字架の上で語られたのです。主イエスは死に至るまで父なる神に従順に生きられました。そして父の御心をなすことを徹底されました。
ペトロの第1の手紙の著者は、2章22~24節でこう記しています。
(22)「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」(23)ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。(24)そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
このような方として、「十字架につけられたままのキリスト」として、主は私たちに出会い、私たちとともにいてくださいます。私たちも、この第2の犯罪人のように主イエスと繫がるならば、「今日主イエスと一緒に楽園にいる」ことができるのです。
待降節の中で、主の御降誕を待ち望みつつ、その主イエスの十字架を同時に思いながら、その日を迎える心の準備をしてまいりましょう。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン。
私たちの救い主イエス・キリストの父なる神さま
主イエスの御降誕を待ち望む季節を迎えています。主は私たちの救い主としてお生まれになり、私たちを愛し、十字架に架かって救いのわざを成し遂げられました。それにより私たちは新しい命に生きる者へと変えられました。私たちが、その信仰告白に生きる者となりますよう、わたしたちの信仰を成長させて下さい。
私たちは、先週臨時総会を開き、祈り願ってきた後任牧師を迎えることができるようになりました。ここに、あなたのお導きがあったことを覚え、心より感謝申し上げます。私たちが変わることなく、主の御旨を問いつつ、主の御心に沿って信仰生活を送っていくことができますように。世界には未だ紛争が続いていますが、平和の主の御声に聞き従い、主にある平和に至りますように。御ことばによって常に新しくされ、十字架の主を見上げつつ、感謝と喜びに溢れた歩みを続ける者とされますように。どうぞお導きをお願いいたします。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
