聖日礼拝 「十字架を背負う死への道」
説 教 伊藤健一長老
旧約聖書 ホセア書10章8~10節
新約聖書 ルカによる福音書23章26~31節
皆さんは、「ヴィア・ドロローサ(“Via Dolorosa”)」ということばをご存じでしょうか。「ヴィア・ドロローサ」とは、「苦しみの道」という意味で、主イエスが十字架を負わされて、ゴルゴタの丘まで歩かされた道ということです。伝承に基づいて十字軍時代に定着したとされていますが、1キロほどの道のりに14のステーションがあり、そこに留まりながら、主イエスに思いを寄せながら道を辿っていきます。毎週金曜日の午後3時から、フランシスコ会の修道士が十字架を背負って行進します。その時、その狭い旧市街の道は多くの観光客であふれかえるそうです。その第5ステーションのところで道が折れ曲がり、上り坂になります。この場所は、聖書ではキレネ人シモンが登場し、主イエスに代わってその十字架を背負うところです。26節を御覧下さい。
26人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
訴えられた主イエスを裁判したのは、ピラトでした。そのピラトが下した判決はこうでした。22節でピラトはこう言います。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」死刑に当たる犯罪が見つからなかった、というのは正しい判断に違いありません。しかし、ピラトはこの段階で、無実と考えたわけでは無かったのでしょう。死刑にこそ当たらなくても問題なしとはできなかったので、鞭打ちの刑を言い渡したのです。ローマの鞭打ち刑はたいへん過酷です。先に金属が付いた鞭で打つのですから、背中を打たれると、皮膚は破れ、肋骨まで見えるほどの傷を受けることもあったのです。前面から顔にかけて鞭を打つと、親族が見ても誰か分らないほどの悲惨な状態になったということです。主イエスは顔が変形したなどとは描かれていないので、背中から鞭打たれたのかもしれませんが、おそらく、肉が露出し、肋骨まで見えるほどの傷を負って出血多量で危険な状態になられたはずです。
しかし、私たちがすでに知っているように、主イエスはこれで釈放されたわけではありませんでした。やはり十字架刑に処せられることになりました。十字架刑は政治犯を処刑する方法で、長時間苦しめながら死に至らせる、たいへん残酷な見せしめの刑です。肉を裂かれる激痛、太陽の照り付きによる乾き、出血、飢え、呼吸困難という筆舌に尽くしがたい苦しみを伴う、あまりにも過酷な刑です。その苦しみが、死ぬまで一週間ほども続くこともあったと言います。十字架を負って歩かされてきた主イエスは瀕死の状況ですから、下手をすると十字架につけられる前に、途中で死んでしまってもおかしくない状況にありました。まさしく「苦しみの道」、そして弟子たちにさえ見捨てられて歩む孤独な道です。主イエスが途中で死んでしまえば、それはローマにとっては面目丸潰れになってしまいます。そこでローマ兵は、そばにいたキレネ人シモンを捕まえ、無理矢理十字架を背負わせました。キレネとは、現在のリビアに当たるアフリカの町で、当時そこにはギリシア系ユダヤ人のコミュニティがあったようです。彼は過越の祭のためにエルサレムに来ていたのだと思われます。
このシモンの登場は、私たちにとって、大きな励ましとなります。これまで見てきたように、決して主イエスを見捨てないと誓っていた弟子たちは、無残にも散り散りになり、主イエスは十字架への道をお一人で歩まれています。そこに登場するシモンについて、マルコによる福音書15章21節の並行記事には、「アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキレネ人」と、彼の出自が記されています。この情報に従うならば、ローマの信徒への手紙の16章13節に登場するルフォスは、シモンの子である可能性があります。ここにはこう記されています。「主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」このルフォスがシモンの子のルフォスなのであれば、彼らはローマ教会を立ち上げていった信仰者たちであったことになります。
ルカによる福音書9章23節に、よく知られた御言葉があります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」これを文字通りに実戦した人が、このシモンでした。そしてその妻と子は、教会を立ち上げていったのです。シモンは、短い時間ではあっても、十字架を背負いながら、その間近でふれた主イエスの言葉や行動から、後に主イエスを信じる者となったとともに、その信仰を家族に継承し、そしてその十字架の意味を最も深く知る者となったのでしょう。そしてその家族は、パウロの同労者として、初代教会時代に大きな働きをともに担う者たちとされていきました。私たちにとって、「自分の十字架を背負って、主に従う」とはどういうことなのか、私たちも日々黙想し、喜びと感謝とをもって主とともに歩み、主に従う者となりたいと思います。
その孤独な歩みを進まれる主イエスの後ろには、しかし、多くの民衆や、嘆き悲しむ女性たちがいました。27節、28節を見ましょう。
27民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。28イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
この記事を記しているのは、共観福音書の中でルカだけです。ルカはここで女性たちに視線を向けます。当時の習慣として、葬送の行列に「泣き女」という職業女性が同行し、刑場に着いたら十字架にかかる前に鎮痛剤を与えていました。ローマもこのような行為を容認していました。したがって、この「嘆き悲しむ女性」の中には、このような職業女性がいたことが想像されます。しかし、主イエスは、そのような女性たちに向かって大切なメッセージをおっしゃることはなかったでしょう。28節以降のメッセージは、確実に、そこに同行していた主イエスの女性の弟子たちであったと考えられます。しかし、ここでルカだけがこの記事を記している理由は、ここで語られた主イエスの御言葉が、ルカにとってとても重要だと思われたからなのです。これが生前の主イエスの最後の警告のメッセージであり、エルサレムと民の運命について語る預言だったからです。
主イエスは、女性の弟子たちに向けて語られます。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」彼女たちがここで流した涙は、主イエスに対する同情や嘆きであったのかも知れません。それならば、主イエスはここで沈黙していることはできなかったはずです。もし沈黙すれば、彼女たちの思いをただ肯定することになるからです。この時の彼女たちに必要だったのは、自己憐憫や慰めではありませんでした。主イエスは彼女たちに本当に必要なメッセージ、彼女たちの信仰の目を開かせる厳しいメッセージを送られました。それは、エルサレムと民に起こることの預言であり、それゆえ悔い改めを促すメッセージであり、主の十字架の出来事に関する神の裁きがあることを知らせるためのメッセージでした。主のためではなく、自分と自分の子供たちのために泣かなければならないほどの恐るべき出来事とは、歴史的には紀元70年に起こったエルサレム陥落の出来事です。ルカはこの出来事を、事後予言として記しています。
その時に起こることが29節、30節に記されています。
29人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
30そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。
女性にとって、少なくとも当時の女性にとって、子を産めることは祝福であり、喜ばしいことであると考えられていました。創世記の1章28節の「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」をすぐに思い出すことができます。当時のユダヤでは、結婚して子どもがないことほど惨めなことはありませんでした。当時の離婚の最大の理由は、子供を授かることができなかったことだったのです。それなのに、子どもを産めることはそれほどの祝福なのに、ここで主イエスは、逆転現象が起こると言われます。「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言われる時が来ると言われるのです。それはなぜか。先ほども少し触れましたが、紀元70年にエルサレム神殿の崩壊が起こるのです。これまでも、この時も神の招きを徹底的に拒み続けたこの町へのさばきの時が近づいていました。子を産めなければ、その時に犠牲となる子がいないわけですから、祝福になるのです。
30節のことばは、ホセア書10章8節の予言を受け継ぐものです。ここにはこう記されています。「アベンの聖なる高台 このイスラエルの罪は破壊され 茨とあざみがその祭壇の周りに生い茂る。そのとき、彼らは山に向かい 『我々を覆い隠せ』 丘に向かっては 『我々の上に崩れ落ちよ』と叫ぶ」。ホセア書のこの嘆き悲しみの叫びは、民の身の上にさばきが下ろうとしていたとき、彼らは死を願うのだということを預言しています。ルカ23章30節の預言が実現するときも、この時エルサレムに住んでいた民も同じように死を願うことになるのだと言われているのです。
思い出してみましょう。エルサレム入城を果たされたとき、主イエスは涙を流されました。その時の記述がルカによる福音書19章41~44節にありました。その箇所をお読みします。
41エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、 42言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。 43やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、 44お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
主イエスは、この時、40年後にローマ人を用いてエルサレムに下される出来事を知っておられただけでなく、神の恵みを拒み続けたイスラエルへのさばきを見通しておられたのです。
23章に戻りましょう。続く31節には、こう記されています。
31『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
これは格言です。ここでも、旧約聖書に記されていた預言が踏まえられています。エゼキエル書21章3~4節にはこう記されています。
「ネゲブの森に言いなさい。主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。わたしはお前に火をつける。火は、お前の中の青木も枯れ木も焼き尽くす。燃え盛る炎は消えず、地の面は南から北まで、ことごとく焦土と化す。 生ける者は皆、主なるわたしがそれを焼き尽くしたことを認めるようになる。その火は消えることがない。」
ここでは、神の怒りが火に例えられています。神の怒りの火が、「生の木」も「枯れた木」も焼き尽くすと言われています。このできごとが、もし40年後に起こることが分っているのであれば、今すべきことは何でしょうか。言うまでもなく、悔い改めて立ち帰ることです。23章26節から30節までの箇所から読み取るべきメッセージは、そういう内容になるはずです。悔い改めて立ち帰れ。
しかし、この31節の格言の中の「生の木」と「枯れた木」には、何か特別な意味合いが込められているように感じられます。すなわち、「生の木」とは、主イエスを指しています。命が脈々と流れ、生き生きと満ちている「生の木」は、生ける神の子、主イエスです。しかしこのさばきの時には、義人である主イエスが罪人とされて十字架を背負わされ、十字架刑に処せられるのだとすると、「枯れた木」、すなわち命が流れていない、立ってはいても一撃を受ければ折れて倒れてしまうような木とは、罪人のことです。生きているように見えても、真に生きた者とはなっていない者、だから「枯れた木」とされているのです。神の前に正しい義人である主イエスが罪人とされて十字架刑に処せられるという仕打ちを受けるのであれば、本当の罪人、すなわち神からの働きかけをことごとく拒み、神の子である主イエスを受けいれないばかりか十字架に架けようとする者たちには、どんな仕打ちが待ち受けているのか。彼らがさらに激しい苦難に遭わないはずがないのです。
この箇所から続いて、32節には、「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った」と記されています。この記述からは、イザヤ書53章12節の苦難の僕の姿との重なりを、なお一層鮮明に見ることができるように思います。そこではこう書かれています。「彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」主イエスは、罪を犯されたことがない方です。それなのに、犯罪人とまったく同じ扱いをお受けになる。これはイエスに対する侮辱であると思います。
しかしそれでも、主イエスは、ご自分がこうして十字架に架かり、絶望的な苦しみの中で死に至る、この歩みの中に神のご計画を認め、最後まで徹底的に、「死に至るまで」神に従われたのです。使徒パウロは、この主イエスの神への従順を、こう表現しました。フィリピの信徒への手紙2章6~8節に注目しましょう。
6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
この主イエス・キリストの十字架の贖いのお陰で、私たちは神との間に平和をいただいていることを覚えたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン。
私たちの救い主イエス・キリストの父なる神さま
主イエスが捕えられ、ヴィア・ドロローサ、苦しみの道を辿られ、女性の弟子たちに最後のメッセージを送られる中でも、徹底的に、死に至るまで神に忠実な歩みをなさったことを教えられました。対照的に、民の頑なさ、神への反逆が示される中でも、主はわたしたち罪人を愛し、神さまの御心通り、従順に歩んでいかれました。主は、私たちの罪のため十字架にかかり、死んで復活し、贖いを成就されました。私たちは、そのイエスを信ずる信仰によって、新しい命に生きる者へと変えられました。私たちが、その信仰告白に生きる者となりますよう、わたしたちの信仰を成長させて下さい。キレネ人シモンのように、自分を捨て、自分の十字架を負って、主イエスに従う者とされますように。御ことばによって常に新しくされ、十字架の主を見上げつつ、感謝と喜びに溢れた歩みを続ける者とされますよう、お導きください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
