聖日礼拝 「父よ、彼らをお赦しください」
説  教       谷村禎一 長老
旧約聖書  詩篇 53篇 1〜6節
新約聖書  ルカによる福音書 23章 32~38節

十字架の上から発せられた主イエスの祈りの言葉を集めると7つになります。7つのうち、最初の2つと最後の言葉がルカによる福音書にあります。7つの言葉を読みます。

1「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」
2「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」
3「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」「ごらんなさい。これはあなたの母です」
4「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
5「わたしはかわく」
6「すべてが終わった」
7「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」

今朝は「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」のみ言葉に耳を傾けたいと思います。

お手元の聖書の34節を見ていただくと、このイエスの言葉に括弧がついています。その理由は、初期の写本には、この言葉がないものと、あるものがあるので、テキストの真偽性について議論がある箇所であるからです。4世紀以降の写本にはこの言葉が挿入されています。そこで、2つの可能性が考えられています。ひとつは、元々はなくて、後に写本した人が挿入した可能性。もうひとつの可能性はこの文章が最初はあったが、初期に削除されたが、後に戻されたというものです。キリスト教の体系は、4世紀頃までに、教父と呼ばれた教会の指導者、神学者によって整えられてきましたが、2世紀に活躍していた複数の教父がこの箇所について書いていますので、用いられた一部の写本にこの箇所があったことはわかります。しかし、いずれにしても、この箇所は私たちの信仰において、とても重要なことが示されています。

まず「父よ」という神への呼びかけについて考えてみます。最初に、神は男性なのかという問題を再確認する意味で考えます。その答えは、神さまに生物学的な性別はないのです。神は霊であり、肉体も性別も持ちません。「父なる神」を人間的な父親像で説明するのは誤りです。実際、神さまの「母性的」イメージが聖書には多くあります。しかし、この神に性別はないという考えは。統一的な見方ではありません。

キリスト教と人間の歴史を振り返ると、神を「父」として男性的に語る伝統が、人間社会の男女の不平等を宗教的に正当化してきた長い歴史があります。それが、女性の牧師が長らく認められなかったこと、また現在でも、女性の牧師、司祭を認めていない教派、教会がある理由でもあります。

イエスが、女性に対していかに尊厳を持って接し、罪の赦しを与えていたかについて、福音書の多くの物語を思い起こします。ルカ福音書にあるナルドの香油をイエスに捧げた女性の逸話もその一つです。また、今日の箇所で、十字架のそばに、イエスの母マリア、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、イエスの母の姉妹サロメの女性がいました。男性の弟子たちが逃げさった後も、最後まで十字架の傍に立ち続けました。

さて、神を「父よ」と呼びかけることのもう一つの意味を考えたいと思います。「父よ」は、アラム語では「アッパ」ですが、これはイエスによる独自の呼びかけです。イエスによる独自の呼びかけです。旧約の時代は神に対するこのような呼びかけは例がなく、ユダヤ人は神を直接的に呼ぶことを避けていました。「アッパ」は、幼児がお父さんを呼ぶ時の言葉だとよく言われますが、幼児語に限定されなく大人も使っていました。ある教会で、教会員の方が礼拝で「天のお父さま…」と祈祷をしたら、後でその呼びかけは良くないと長老から指摘されたという話を聞いたことがあります。しかし、その指摘は誤りであり、「天のお父さま」という呼びかけこそ、イエスが祈られた呼びかけです。イエスと神は、深い信頼、安らぎの関係にあるのです。

パウロは、ローマ人への手紙8章15節で次のように記しています。「あなたがたは、再び恐れに陥る奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる霊を受けたのです。その霊によって『アッバ、父よ』と叫ぶのです。」「恐れに陥る奴隷の霊を受けたのではなく」とパウロが書いたのは、律法を厳格に守ることによっては、本当の救いは得られないという意味です。律法による救いは、裁きへの不安と恐れの元にあります。一方、イエスにある生き方は、子供が両親から愛されて守られているという安心感の中にあります。キリスト者は、何々をすべきであるという律法的な生き方ではではなく、神から愛されて赦されているが故に、喜びがあり自由な生き方を与えられています。そして、重要なことは、そのような神さまとわたしたちの関係ができるためには、主イエスが十字架につけられることが必要であったのです。

次に「ゆるす」という言葉をみます。日本語「ゆるす」には、二つの漢字があります。許可するの「許す」の漢字は、言葉で認めるという意味です。一方、34節にある「赦す」の漢字は罪人を解き放つという意味です。新約聖書のギリシャ語では、「罪の赦し」と、「許可する」の許しとでは異なる動詞が使われています。中国から来た漢字によって、日本語の聖書には別の意味がある「赦す」という言葉があってよかったと思います。「赦す」という言葉は、福音書、使徒言行録、パウロの書簡に見られます。イエスの十字架の上からの赦しの言葉は、誤ったことを行なっている人、誤って賛同している人に対する赦しなのです。それは、使徒言行録の十字架を前にしたステファノの言葉に通じるものがあります。使徒言行録の7章60節、227ページです。自分に石を投げつけて殺そうとしている人に対して、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。

「彼らは何をしているのか分からずにいる」の「彼ら」とは誰のことでしょうか。十字架の下には多くの人がいました。先ほど述べた、家族に連なるのは、母マリア、マグダラのマリアなどの女性たちいました。弟子たちの多くが逃げた中で、ただ一人の弟子ヨハネがいました。権力側の人には、百人隊長を含むユダヤ教の指導者たちがいましたが、嘲笑っていました。「もしメシアなら自分を救ってみろ」と。刑を執行するローマ兵は、兵士の職務的な冷静さで仕えていましたが、同じように「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろと」侮辱しています。彼らは「もしお前がユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲り続けます。そして、野次馬として集まった者もいたでしょう。処刑はローマの公開見せしめで、多くの人は見物目的でした。しかし、イエスに癒されたり教えを聞いたりした人々の中には、胸を打たれ、悲しみながら帰っていった者もいたはずです。
「この人は何者だったのか?」という戸惑いと恐れが広がりました。

イエスが「彼ら」と言った人々は、このようにイエスに挑発的な言葉を投げつけて、嘲りつづけた人々でした。しかし、本人は何をしているかを理解していない。誤った行動の罪を主イエスが神にとりなして赦してくださるとは、いったい、何という愛の赦しでしょうか。

十字架の上には、罪名を書いた札を掲げるのが慣習で、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書かれていました。ピラトは、主イエスがユダヤ人の王であると主張したというユダヤ人宗教指導者たちの訴えを認めませんでした。しかし宗教指導者たちと民衆が一緒になって、主イエスを十字架につけろと要求し続けたために、ピラトはその要求を飲み、皮肉を込めて「ユダヤ人の王」と書かせたのです。すなわち、ユダヤ人の王としてローマ帝国に対して反逆した政治犯であるという罪名でした。イエスの左右で十字架についた二人もユダヤ人の政治犯でした。

ピラトは裁判の時に、「どちらを釈放してほしいのか。バラバか、それともメシアといわれるイエスか」と集まった人々に問いました。するとユダヤ人を含めた民衆は、「バラバ」と叫びました。今年のイースターにドイツのオペラ劇場でバッハのマタイ受難曲を聴く機会がありました。民衆が「バラバ」と叫ぶ演奏場面で、突然、指揮者が私たちの方を向きました。そして、聴衆の皆が「バラバ」と叫んだのです。それは、イエスを十字架につけたのはユダヤ人だけでなく、わたしたちひとりひとりであったことを確認した叫びだったのです。わたしたちは、自分がどのような罪を犯しているかを知らずに、イエスを十字架につけよと叫んだのですが、主イエスはそのような私たちの罪の赦しのために祈ってくださったのです。

マタイ5章の山上の説教で、イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する人のために祈りなさい。」と教えられました。そして、その通りに、十字架につけた人々のために祈られたのです。私たちが知らずに犯した罪、行動に対してさえ、そして、逃げ去った弟子たちのために、イエスを知らないと、三度言ったペテロに対してさえ、主イエスは祈ってくださっていたのです。

私たちは、次のように告白できるでしょう。

イエスが赦しを祈られた彼らの一人、それは私です。
私のために、あなたがむち打たれ、十字架にかけられるのです。
それは、主イエスの私たちに対する愛のゆえです。
愛のゆえに、私の救い主は死のうとしておられるのです。

 このことを心に覚えつつ、来週からのアドベントの日々を歩みたいと思います。