聖日礼拝 「裁く者が審(さば)かれる」
説  教        内田 聡 長老
旧約聖書   詩編 2編 1~2節
新約聖書   ルカによる福⾳書 23章 6~25節

本日、説教で取り上げる記事は、小見出しが二つある長いものです。にもかかわらずイエス様の御言葉はありません。イエス様を取り巻く人間模様が描かれています。

私は若い頃から文章を書くのが好きで、ずっと文学について考えてきました。皆さん、19世紀の作家バルザックをご存知でしょうか。代表作は『ゴリオ爺さん』や『谷間の百合』です。それぞれ完結した作品なのですが、ある作品の登場人物が他の作品にも再登場します。バルザックが作品全体を「人間喜劇」として構想したからです。彼が生きた時代、フランスの市民革命から王政が復活した時代を描き尽くそうとしたのです。九十を超える作品を書きましたが、完結することはありませんでした。「フランス文学は人間学である。」という研究者の言葉があります。なるほど文学とは人間の真実を描くことかもしれません。

文学という観点で今日の聖書を読むと、僅か一頁の中に全ての時代に通じる人間の真実が描かれていることに驚かされます。まずは、聖書に出てくる登場人物を整理しましょう。三つのグループに分かれます。一つ目は支配する者として、ピラトとヘロデです。二つ目は支配される者として民衆。バラバも民衆の一人です。三つ目はその間に立つ者としての祭司長、律法学者、長老です。グループの内部で対立があることも忘れてはいけません。それぞれに思惑があります。その思いを達成するために巧妙な駆け引きをするゲームの世界なのです。トランプ大統領ならばディールと言うでしょう。人間社会の縮図です。

6節~7節「これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。」 先週の説教で聞いた通り、ピラトはイエス様に罪を見つけられません。しかし無罪放免にすることもできません。イエス様を訴えるユダヤ人の最高法院とは、持ちつ持たれつの関係だったからです。

最高法院は、ピラトやヘロデと民衆の間に立つ者として、祭司長、律法学者、長老で構成されています。民衆は支配する者の力と、間に立つ者の知識で、二重に縛られているのです。この知識は形を変えた暴力です。その知識は人を殺すためであり、人を生かす神の知恵ではありません。ローマ帝国から総督として送られた異邦人のピラトが、ユダヤ人の最高法院に便宜を図るのは効率的でした。見返りに彼らの横領や宗教的な既得権を黙認していたのです。

ピラトは、ローマ帝国に反逆するだけの力を、イエス様に見つけられません。メシアの宗教的な権威は、異邦人のピラトには関係ないことです。しかし、その権威は最高法院の既得権を脅かします。彼らとの関係を壊したくないピラトは、彼らの言葉尻を捕らえて、ガリラヤを支配しているヘロデのもとへイエス様を送ります。ユダヤ人の律法違反が容疑であるなら、その土地のユダヤ人領主が裁くべきだということです。裁く力を持っているピラトが、イエス様を正しく裁けないのです。

エルサレムに滞在していたヘロデはイエス様を見ると喜びました。8節、「イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。」 しかしイエス様はしるしをなさらず、尋問にも答えません。ヘロデはイエス様のうわさを聞いて、会いたいと思っていました。そのうわさには、「イエス様が甦った洗礼者ヨハネである。」というものもあります。彼の首を刎ねたのはヘロデです。それでもイエス様に会いたいというのは、「俺は洗礼者ヨハネの亡霊など恐れない。しるしで刃向かってみせろ。」とでもいうような、傲慢な態度です。

その場にいた祭司長や律法学者は、メシアを自称するイエス様の冒涜を激しく訴えました。出身階級の違いからか、祭司長と律法学者は対立することもあったのですが、自らの既得権を守るため今回は共闘します。敵の敵は味方ということです。

祭司長や律法学者の訴えにもかかわらず、ヘロデはイエス様を有罪としません。また無罪放免にもしません。あざけり、侮辱するだけ。しるしを行わず反論しないイエス様は自分を脅かす力すらないと思ったのでしょう。彼が期待していたメシアは政治的な力がある者。宗教的な権威など問題ではないのです。

王と名乗ることも許されず、ローマ帝国の監督の下に置かれていたヘロデは、余計なことをすれば立場が危うくなります。だからこそ人畜無害のしるしとして派手な衣を着せ、ピラトにイエス様を送り返しました。裁く力を持っているヘロデが、イエス様を正しく裁けないのです。

12節、「この日、ヘロデとピラトは仲が良くなった。それまでは互いに敵対していたのである。」 ピラトとヘロデは共に支配する者です。裁く力をもちながら、イエス様を正しく裁きませんでした。裁くべき者が裁く務めを放棄したのです。彼らがそのように判断したのは、イエス様の無力さでした。彼らにとって力こそ畏れるべき対象、神でした。その神とは実在するローマ皇帝です。ピラトとヘロデはお互いが頼みとする力を確認し、仲良くなったのでしょう。興味深いことに、力を頼みとして支配する者は、より強い力に支配されることを望みます。しかし神の力でない限り、本当の解放、自由はありません。

これは2,000年前の出来事に過ぎないのでしょうか。国際連合の常任理事国であるロシアがウクライナへ侵攻した時から、「武力による一方的な現状変更は断じて認められない」という国際秩序が揺らいでいます。武力を背景とした力のゲームに世界が翻弄されています。

さて、裁く務めを放棄したピラトは、祭司長、議員、民衆を呼び集めます。まるで人民裁判が始まるかのようですが、並行するマタイによる福音書によれば、「祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。」からでした。  集まった民衆に向かって、ピラトはイエス様の弁護人のような振舞いをします。

15節、「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。 だから鞭で懲らしめて釈放しよう。」 イエス様を有罪にしなかったのはピラトだけではありません。ヘロデもそうでした。だから送り返してきたのでした。ユダヤ人の律法である申命記19章15節には

いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証される ことはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。

とあります。ピラトとヘロデ、民衆を支配する者二人が有罪でないと証言しているのです。「釈放すべき囚人が誰か分かるだろう。」という訳です。さらに民衆の怒りを宥めるためにイエス様を鞭で懲らしめることまでも提案します。支配する者が支配される者におもねる倒錯した光景がここにあります。

しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。

バラバは支配される者、民衆の一人です。19節、「このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。」 その容疑が「都に起こった暴動」であることから、バラバは政治犯でしょう。並行するマタイによる福音書には、「評判の囚人」とありますから、民衆の支持を得ていたと考えられます。たぶん熱心党の者だったのでしょう。

熱心党は、ユダヤ人の王国がローマ帝国の属州にされた時、ガリラヤのユダの指導で反ローマ帝国の武装闘争に決起したレジスタンスです。ガリラヤは発祥の地でした。

ガリラヤ人のペテロがイエス様を否認する時、「言葉づかいでそれが分かる。」と告発されますから、ガリラヤは民衆に注目された土地であったと思われます。また、ピラトがヘロデにイエス様を送るのは、出身地を知ったからでした。ガリラヤは支配者に危険視された土地でもあったと思われます。イエス様は、民族解放運動の中心地で神の国を宣教していたことになるのです。

「熱心党はレジスタンス!」と言うと英雄的な響きがありますが、反ローマの武装闘争のためには手段を選ばない者たちでした。「善いサマリア人」の譬えに出てくる、旅人を襲った追いはぎは熱心党であったと註解書にあります。イエス様は間接的に熱心党を批判していたのです。

バラバは、バル・アッバ。バル(息子)とアッバ(父)とが組み合わさった名で、父の息子という意味です。マタイによる福音書には「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」とあります。彼の呼び名はイエスだったでしょう。

民衆の前に二人のイエスが立っています。父の子イエスと神の子イエス。イエス様は霊なる神を父(アッバ)と呼びました。傍らに立つ者は肉なる父(アッバ)の息子、イエスです。

わたしたちの真の父とは誰でしょう。わたしたちは、どちらの息子を選ぶべきでしょう。

21節、「しかし人々は、「十字架に付けろ、十字架につけろ」と叫び続けた。」 バラバを選択した民衆はレジスタンスに共鳴し、ローマ帝国に民族の解放を迫るのでしょうか。聖書はそのように語りません。並行する福音書には、祭司長が民衆を扇動したと書かれています。多くの民衆は政治的な意図もなく祭司長を敬い従っただけです。指導者に従うことが、民衆の処世術だったからです。

ローマ帝国におもねる祭司長とローマ帝国に反逆する熱心党は、本来は水と油です。

しかし両者の目的がイエス様を殺すことで一致します。民衆の従順と反抗がイエス様を殺そうとするのです。これは裁きではなく集団の暴力です。

しかも、「「十字架に付けろ、十字架につけろ」」という叫びは正しくありません。メシアを自称する者が律法によって裁かれるならば、刑罰は石打の刑です。「石打にしろ」と叫ぶべきでしょう。十字架刑はローマ帝国の刑罰です。「十字架につけろ」と叫ぶことは、反ローマ帝国を掲げるユダヤ人が、異邦人の法律の支配にあることを認めることになります。

ピラトは三度、イエス様の釈放を訴えました。「しかし彼が十字架に付けられることを求める大きな声で、彼らは詰め寄った。そして彼らの声が打ち負かした。」 23節の原文を直訳したのですが、ピラトが民衆に圧迫される様子が伝わって来ます。この民衆の声に押されて、「ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。」のです。

ローマ帝国に反逆するレジスタンスのバラバを釈放し、罪がないイエス様をユダヤ人に引き渡して、好きなようにさせる。裁く力を持つピラトが民衆の暴力に屈し、正しく裁かない罪がここにあります。しかし、イエス様の苦難はピラトによるものだけではありません。使徒信条の「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」という告白に、このような背景があることは覚えておきたいと思います。

民主主義の国に生きる私たちにとって、民衆やレジスタンスは肯定的な響きを持っています。今回の説教では意識的にこの言葉を使いました。聖書本文には人々と訳されていますし、バラバは単なる盗賊だったのかもしれません。いずれにしても今日の記事゛では罪なき者と描かれていません。もちろん、総督も領主も、祭司長や律法学者や長老も罪なき者とは描かれていません。それぞれに自分の正義があって、人を裁くからです。

これは2,000年前の出来事に過ぎないのでしょうか。自分を正当化するために誰かを裁く。裁かれたら罪人になるので裁く者になろうとする。裁く者に必要なのは力です。力をめぐる果てしないゲームは今もなお続いています。但し、現代のゲームでは見えなくなっているものが一つだけあります。わたしたちの真ん中に立つイエス・キリストです。

今日、説教で取り上げている記事はイエス様を取り巻く人間模様です。全ての登場人物が自らの正義でイエス様を裁きます。しかし正しく裁いた者はいたでしょうか。人が神の子を裁くことができるでしょうか。むしろ、それぞれの罪が顕になってくるのではありませんか。本日の説教題を「裁く者が審かれる」としました。フリガナの付いた審かれるは、最後の審判からの当て字です。審かれるとは、「神によって審(つまび)らかにされる、人間の真実が顕かにされる。」という意味を込めています。

見るべきしるしも行わず、不当な訴えに反論しない、無力なイエス様が、わたしたちの真ん中に立っています。顕かにされていく罪を、わたしたちは見たくありません。聖書の民衆は、最初に「「その男を殺せ」」 と叫びましたが、「殺せ」と言う言葉は「消せ」という意味もあります。「その男を消せ。目障りだ。」 その男はいなかったことにして、ゲームを再開しよう。神亡き時代を生きる者は、そのように嘯くかもしれません。しかしイエス様が十字架で死んだことは歴史的な事実です。この出来事を無かったことにはできません。

イエス様は真ん中に立っています。わたしたちが生きる中で、ピラトやヘロデ、祭司長や律法学者、バラバや民衆の罪を、時々の自分に見つけます。この罪を抱え、どのように生きて行けばよいのでしょうか。

それは、今日の説教題を逆さまに読むことです。「審く者、即ち、人間の真実を顕かにされたイエス様が、裁かれる」ということです。ここで裁かれるのは、イエス様を頭とする全ての人間です。その罪が裁かれ、自らの罪を悔い改めてイエス様のように生きようとすることから新しい人生が始まります。イエス様は力のゲームを終わらせるゲームチェンジャーなのです。それは神をめぐる新しいゲームです。治める者は神の力を正しく用い、治められる者は神の力に正しく従い、間に立つ者は神の知恵を正しく語る。わたしたちは神の国を目指して日々を生きて行くのです。

とは言え、わたしたちの周りは何も変わっていません。力をめぐる古いゲームに囚われている人々にとって、キリスト者は目障りです。イエス様が受けた苦難、「その男を消せ。目障りだ。」はキリスト者にも及びます。しかし、わたしたちも彼らの真ん中に立ちましょう。無力だったイエス様のように、立ち続けましょう。キリスト者が世に立つことで、神をめぐる新しいゲームが始まるのです。父と子と聖霊の聖名によって。

お祈りします。

聖なる神様、力のゲームに囚われている世の人が、真ん中に立っているイエス・キリストを、見ますように。

イエス・キリストを見て、罪を悔い改めイエス・キリストに与る、復活に生かされイエス・キリストが受けた、苦難に臆せず
イエス・キリストにならって、世の中に立ちイエス・キリストの伝えた、神の国を仰がせてください。

新しく迎える牧師と共に、神の栄光を顕す教会となりますように。この祈りを、イエス・キリストの御名によって受け入れたまえ。アーメン