聖日礼拝 「十字架が刻まれた墓」
説 教 澤 正幸 応援教師
旧約聖書 ヨブ記19章 23節~27節
新約聖書 ルカによる福⾳書 23章 1~5節
今朝ここに持ってまいりましたのは、福音時報というわたしたちの日本キリスト教会から毎月発行されている新聞です。ここに福井市にある日本キリスト教会、福井宝永教会の教会墓地についての記事が載っています。
ご存知の方がおられるかも知れませんが、福井宝永教会のある福井県から金沢のある石川県にかけての北陸地方は、曹洞宗の永平寺をはじめ、お寺が沢山あって、とりわけ浄土真宗の信者が多い仏教王国です。そのためか明治以降、北陸地方ではキリスト教の伝道が困難で、キリスト教がなかなか広まりませんでした。その中で、この地方では現在に至るまでキリスト教信者は、墓地を得られなかったと言います。というのも、この地方の墓地はほとんどがお寺の墓地なのです。明治時代から長い間、キリスト教で葬儀をした人の埋葬をお寺は拒否してきました。今でこそ、法律で宗教の違いを理由に埋葬を拒否できないと定められていますから、埋葬は可能なのですが、実際問題として、クリスチャンがお寺に墓地を設けようとすれば様々な不都合があるのでしょうから、今でもそうしようとは思わないでしょう。
そのような中で、1944年、戦争中のことですが、福井市内の教会が合同で一つの墓地を造ったそうです。それが今日まで続いていて、現在では市内の13のプロテスタント教会がその共同墓地にそれぞれの教会の信徒のお骨を埋葬しているとのことでした。日本のお墓は個人の墓でなくて、何々家の墓が多いけれども、わたしたちクリスチャンはみな神の家族であるから、「主は一人、信仰は一つ」と考えて、墓地が一つでもいいのではないかと福井宝永教会の持田牧師は書かれていました。
そこに載っていた教会墓地の写真には、墓石に「聖徒之墓」とだけ書かれ、小さな十字架が刻まれていました。
皆さん、今朝は年に一度、主のみ許に召された神の家族である兄弟姉妹を覚える永眠者記念礼拝です。その礼拝の説教の題を「十字架が刻まれた墓」としました。
クリスチャンの葬られた墓には十字架が刻まれます。それは一体何を物語っているのでしょうか。十字架というと女の方が首からアクセサリーとして下げたりします。でも、本来、十字架はアクセサリーでもなければ、単なるデザインではありません。十字架は歴史を物語るものです。十字架は2000年前に、イエス・キリストが磔になって殺された歴史的出来事を物語っているのです。
先ほど読まれた聖書のルカによる福音書23章1節以下は、人々がイエス・キリストを十字架につけようとしてローマ総督ピラトの法廷に訴え出た場面です。
当時のユダヤは、ローマ帝国の植民地でした。そのローマ帝国の植民地支配に武器をとって抵抗し、ユダヤの国の独立を目指す人々がいて、彼らは熱心党と呼ばれていました。ローマ帝国はその熱心党の人々を反逆する暴徒、今日の言葉で言えば、過激派テロリストとして十字架に磔にして処刑したのでした。イエス・キリストの十字架は、イエス・キリストが熱心党の一人としてローマ帝国によって処刑されたことを物語っているのです。
先ほど読まれたところをもう一度読んでみましょう。1、2節。
当時の人々は、救世主メシアがきたら、ユダヤ人の王としてローマ帝国の支配から人々を解放し、国を回復してくれると期待していました。でも主イエスは、本物の王、メシアではないのに、偽って自分がメシアだと自称して、人々を扇動し、ローマへの反逆を企てたと訴えられたのです。
その告訴を裁判官、ローマ総督ピラトは聞きましたが、彼の反応は実にあっけないものでした。2、3節。
これは裁判における罪状認否です。裁判官ピラトから、お前は訴えられている罪を認めるのか否かと問われた主イエスが「わたしが王だとはあなたが言っていることです」と答えた、この答えは主イエスが自分は王だと言ったのか、王ではないと言ったのか、イエスなのかノーなのかはっきりしません。でも、主イエスが自分は王だと認めたとしても、ピラトの反応は拍子抜けするようなものでした。
4節.
ピラトのこの発言を聞いた祭司長たちは、一層自分たちの主張に力を込めて、主イエスを訴えました。
5節
いくらこの人物、ナザレのイエスがローマにとって危険な存在だとの訴えがなされても、ローマ総督ピラトの目には、どう見ても、今、自分の前に立っている主イエスが政治的にローマ帝国を脅かす危険な存在などとは到底思えませんでした。
熱心党の指導者だというなら、どこに率いている手勢がいるのでしょうか。主イエスには護衛もいない、部下もいない、支持者もいない、たった一人で法廷に立っているこの人物にピラトは何の脅威も感じられなかったのでしょう。
改めて1節を読みますと、「そこで、全会衆が立ち上がった」と書かれていますが、このとき主イエスを告訴したのは、全会衆、すなわち全ユダヤ人だったという意味です。ユダヤ人の中には指導者である祭司たちや律法学者がいました。彼らは普段、政治的に対立していましたが、こと、主イエスの告訴では一致しました。さらに、指導者に加えて民衆も主イエスをピラトに訴えたのでした。それこそ、100パーセント近いユダヤ人が主イエスを訴えているのです。主イエスに味方する人は限りなく0パーセントに近い状態でした。
ユダヤ人が指導者も民衆もこぞって主イエスを告訴したのに対して、裁判官、ローマ総督ピラトは、「わたしはこの男に何の罪も見出せない」と一度言い、この後、二度、三度と、繰り返し「わたしはこの男に何の罪も見出せない」と主イエスが無罪であることを言明しました。
しかし、そのように、裁判官のピラトは主イエスに何の罪も認めませんでしたが、最後の最後、ユダヤ人の圧迫と要求を跳ね返すことができず、ついにそれに屈服して、自分の良心に反するにも関わらず、主イエスを十字架につけたのでした。
ローマ人の目から見てユダヤ人指導者による主イエスの告訴は理不尽極まりないものでした。後で出てきますが、ピラトは過越の祭りの時に恩赦の慣習があるので、その慣習を利用して、主イエスを釈放しようとしましたが、指導者たちは民衆を扇動して、主イエスではなくバラバを要求するよう仕向けたのでした。バラバはまさに熱心党でした。指導者たちは主イエスを偽って熱心党でローマに危険な人物だと訴えておきながら、同じ熱心党のバラバの釈放を要求するよう民衆を扇動したのです。指導者たちのしていることは支離滅裂です。
主イエスは全会衆、ほぼ百パーセントのユダヤ人から十字架につけることを要求されて、殺されてゆきました。ローマ総督ピラトも、主イエスが無罪であることがわかっていながら、ユダヤ人の要求に屈して、自分の良心に反して主イエスを十字架につけることを認めました。主イエスはユダヤ人からもローマ人からも見捨てられました。
全員が主イエスを見捨てたのです。十字架はそのことの印なのです。
わたしたちは自分が百パーセント周りから支持されなくなること、それを何よりも恐れているのではないでしょうか。だれからも支持されない、理解されない、だれ一人自分の味方になってくれる人がいない、孤立し、みんなから捨てられてゆくこと、それはわたしたちにとって最も恐ろしいことの一つだと思います。
わたしたちが宇宙飛行士になって、無限とも思われる宇宙空間に一人投げ出されたなら、わたしたちの絶望感は計り知れないものでしょう。
宇宙空間に投げ出されなくても、地上の社会生活においても、職場で孤立して命を絶つ人、あるいは学校でいじめにあって自殺してゆく子どもたち、家族親戚の中で排除される中で、悲痛な叫びをあげる人たちの悲しみも、みんなその孤立から出ているように思います。
2年余りの歳月、イスラエルの攻撃にさらされてきたガザの人々が「わたしたちは世界から見捨てられている」という叫びをあげていましたが、それは本当に悲痛な叫びでした。
しかし、十字架の印、すべての人に捨てられ、死んでゆかれた主イエスの十字架の印は、わたしたちにとってはこの上もなく大事な、救いに満ちた印なのです。なぜなら、イエス・キリストの十字架は、その悲痛な叫び、すべての人から見捨てられ、孤立する人の耳痛な叫びと悲しみと絶望に対する神さまからの答えだからです。私たちが百パーセント人々から無視され、反対され、孤立したとしても、神さまがなおわたしたちとともにいてくださることの印、それがイエス・キリストの十字架の印なのです。
十字架の印は、あらゆる人から見捨てられた主イエスを神が復活させられた救いの印です。
わたしたちの人生の上に、また、わたしたちが死んでいくときも、そうです、生きる時も死ぬときも、わたしたちの上にはこの十字架の印が刻まれています。
たとい百パーセント、イエス・キリストの十字架のように、すべての人に捨てられたとしても、イエス・キリストだけはわたしたちと共にいて、わたしたちを見捨てることはない、イエス・キリストの父なる神もわたしたちと共にいてくださる、そう信じるとき、わたしたちは計り知ることのできない平安と慰めを受けます。勇気を与えられます。
十字架は行き止まりではありません。十字架が刻まれた墓、それは墓が終着点ではないことを示しています。十字架は復活へとつながる神の国への扉、天国への門なのです。
イエス・キリストが十字架で死なれた金曜日の夕暮れ、ユダヤ人の最高法院の議員の一人、アリマタヤのヨセフという人がローマ総督ピラトに願い出て主イエスの亡骸を引き取りました。彼は最高法院のメンバーでしたが、同僚議員の決議に同意しなかった、良心を貫いた数少ない議員の一人でした。アリマタヤのヨセフは自分のために用意してあった墓に主イエスの遺体を葬りました。主イエスの遺体は3日目の日曜日の朝、主イエスが復活なさるまで、その墓にありました。
主イエスの遺体を納めた墓は、今は空です。主イエスの遺体を納めている墓は世界中のどこを探しても存在していません。主イエスの墓は空なのです。
わたしたちにとっても、墓はやがて空になるところです。永遠の住まいではないのです。主イエスが3日間だけそこにとどまったように、やがて主イエスが再びおいでになる終わりの日を一時的に待つ場所にすぎないのです。
わたしたちは今日、十字架の印のもとに葬られた、イエス・キリストの父なる神を父とする、神の家族とされた兄弟姉妹を覚えています。それらの兄弟姉妹は、主イエスが再びおいでになる復活の日を、墓にあって静かに待っています。わたしたちもその日を兄弟姉妹とともに待ちたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって
