聖日礼拝「にわとりが鳴く」
説 教 澤 正幸 応援教師
旧約聖書 ヨブ記 2章 1〜6 節
福 音 書 ルカによる福音書 22章 31〜34節
31節
「シモンよ、シモンよ」。主イエスはペトロとも呼ばれるシモンの名を呼んで彼に語りかけられます。自分の名前が呼ばれると思っていないときに、突然、自分の名前が呼ばれたら、わたしたちは、「えっ、わたしですか」と問い返すかもしれません。それに対して、そうです、あなたですと言われたら、今、呼びかけられているのは、まさしく自分なのだ、語りかけられようとしているのは、他でもない自分に対してなのだと確認するでしょう。
「シモンよ、シモンよ」。主イエスはこのとき、どうしても語っておかなければならないことがあって、シモン・ペトロの名を繰り返し呼んで、それを彼に告げようとされます。この時主イエスがそれをあらかじめ語ってくださることがなかったら、この後に起こるサタンの試みにあって、ペトロの信仰は完全に打ち砕かれてしまい、ペトロはその挫折から二度と立ち上がることができなくされたでしょう。ペトロは絶望のうちにその生涯を閉じざるを得なかっただろうと思います。
シモン・ペトロにとって、主イエスがこの時語りかけてくださった彼が犯す罪と過ちの予告と、それにもかかわらず、主が彼の信仰を守り、彼を再び立ち直らせてくださると語りかけてくださった、その約束の言葉がペトロの救いとなるのです。
主イエスは彼にとって大事な言葉を語りかけようとして、シモン、シモンと彼の名を繰り返し呼んで、彼にしっかりと、主の言葉を聞くようにと言われたのです。
「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないようにあなたのために祈った。」
この世の法廷で検事が犯罪人の罪を告発して、有罪判決を求めるように、サタンは神の法廷において人間の罪を告発し、人間を罪に定めるよう要求します。サタンは主イエスが捕らえられ、十字架につけられてゆくその最後の時に、主イエスの弟子たちの信仰が本物かどうかを試すことを神に願い出ます。その結果、弟子たちの信仰がもろくも崩れさるなら、神の法廷で彼らを罪に定めることを要求しようとしました。そのサタンの要求を神は聞き入れられたのでした。
「小麦がふるいにかけられる。」小麦をふるいにかけると、本物の小麦だけがふるいを通って下に落ち、藁やゴミクズはふるいの中に残って、捨てられます。
今、サタンは弟子たちの信仰が本物なのか、それとも藁クズのような見せかけだけで実体のないものに過ぎないのかが、それによってはっきりと示される試練に弟子たちを遭遇させようとします。
33節
シモン・ペトロはサタンの試みにあっても、かえってそれによって自分の信仰が本物であることが証明されるでしょう。他の弟子たちが全員、試練に耐えることができずに挫折するようなことがあっても、自分だけはふるいを通って下に落ちる本物の小麦、正真正銘の小麦であることが明らかになるでしょうと言ったのです。
主イエスに対して、このように答えたシモン・ペトロは、シモン、シモンと名を呼んで主イエスが語りかけようとされた言葉が、まったく耳に入らず、主イエスの思いがその心に届かなかったことがわかります。しかし、主イエスは、彼が主イエスの言葉に対して聞く耳を持たないからこそ、彼の心に主イエスの言葉を受け入れる場所がないことを知っておられたからこそ、この時、こうして、シモンよ、シモンよと繰り返し、彼の名を呼んで諭すように語りかけられたのです。
34節
主イエスは彼が、わずか数時間後には、主イエスのことを三度も知らないと言ってしまうことを知っておいでになりました。彼が、また彼だけでなく、一人残らず弟子たち全員が、主イエスに躓いて、主イエスを見捨てて逃げ去ることを知っておられたのです。主イエスは弟子たちの弱さをご存知でした。弟子たちにはサタンの試みに耐える力がないことをだれよりもよく知っておられたのは主イエスだったのです。
ペトロが自分だけは主イエスに従いますと言い放った言葉、自分の信仰が試練を通して本物であることが証明されると言った言葉が、むなしいことをご存知だったから主イエスはペトロの信仰がなくならないようにと彼のために祈られたのです。
主イエスはこのとき、わたしはペトロのために祈った、と過去形で言われていて、あなたのために祈るだろうと、未来形で言われたのではないことに注意したいと思います。この祈ったというのが過去形であることは、直前の31節でサタンが神に願って聞き入れられたというのが過去形であることと対照をなしています。シモン・ペトロたち、弟子たちを試みに遭わせるとのサタンの願いが神によって聞かれたゆえに、それを受けて主イエスはペトロのために祈られたのです。
この後、ペトロは主イエスが捕らえられ、裁きを受けていた大祭司カヤパの官邸の中庭に密かに単身潜り込んで行きました。しかし、周りのものに気づかれて、お前は主イエスと一緒にいたものではないかと問い詰められると、私はあの人を知らないと一度言い、さらに追求されると、あなた方が何を言っているのかわからない、わたしはあの人を知らないと二度目に言い、三度目には神に誓ってそんな人は知らないと言いました。彼がそれを言い終わるや否や鶏が鳴いたのでした。
鶏の鳴き声、夜明けを告げるその声を聞いたペトロはハッと我にかえり、自分が取り返しのつかない罪を犯したことに気づいて、激しく泣き出します。
鶏の鳴き声が主イエスのお言葉をペトロに思い出させたのです。ペトロがこの時思い出したのは、ペトロが三度主イエスを知らないというだろうと言われた、その言葉だったでしょう。ペトロはそんなことが自分に起こることはあり得ないと思っていたので、主イエスの予告が耳に入らなかったのでした。しかし、それが現実となったことに愕然とし、取り返しのつかない事態になったことを悔いて、彼は号泣します。
しかし、シモン、シモンと二度名前を呼ばれて、どうしてもペトロが聞いておかねばならない言葉として主イエスが彼に語りかけようとされたのは、彼が主イエスを三度知らないという罪を犯すということではなかったのです。そうではなくて、彼が取り返しのつかない重大な過ちを犯し、決定的な罪を犯しても、その彼のために主イエスが、彼の信仰がなくならないように祈られたという、主の救いのお言葉でした。
信仰とはなんでしょうか。ペトロがどこまでも主イエスの後に従い抜くこと、殉教をも恐れずに主に従うこと、それがペトロの考える信仰だったとすれば、主イエスは、そうではない、それが信仰なのではないとペトロに告げられたのです。
信仰にはわたしたちが主イエスを信じ、主イエスに従い、主イエスに繋がり続けるという面があります。信仰には確かにわたしたちが主イエスを信じるという側面があります。しかし、信仰にはもっと大事なことがあります。それはわたしたちが信じるという前に、それに先立って主イエスの方がまず、わたしたちを選び、わたしたちに語りかけ、私たちのために祈り続けることをやめられず、わたしたちをとらえ続けてくださるということです。それがあるので、わたしたちも主イエスの愛に答えて、主イエスを愛し、主イエスに従い続け、私たちの手を離すことなく捉えてやまない主の手を、私たちの方からも握り返し、主イエスに繋がり続けるのです。それこそが信仰なのです。この信仰はサタンがふるいにかけても、残ります。サタンが私たちから奪おうとしてもそれを奪うことはできません。
鶏が鳴きました。朝が来たのです。ペトロの目からはとめどなく悔恨の涙が流れました。それは冷たい涙でした。しかし、その涙はいつしか、溢れる感謝の涙、温かい涙に変わってゆきました。
シモン、シモン、そう呼びかけられた主イエスは、今日、ここに集まっている一人、一人の名を呼んで語りかけてくださいます。また福岡城南教会、福岡城南教会と、わたしたちの教会の名前をも呼んで語りかけられます。
みなさん、わたしたちひとりひとりも、また教会も、これまでただ主イエスの祈りによってだけ、その信仰を守られてきました。そして、これからも、ただ、ただ主イエスの祈りによってだけ、その信仰を守られ続けるのです。
わたしたちを祈りによって力づけてくださるお方は主イエスです。主イエスは繰り返し、み言葉を語りかけてわたしたちを力づけてくださいます。聖餐式において、主イエスの御体の印としてのパンを食べ、主イエスの十字架の血の印である盃を飲むことを通しても、わたしたちを慰めてくださいます。また聖霊によってわたしたちと共にいてくださることによって励ましてくださいます。
そのようにして主イエスから力づけられ、励ましと慰めを受けるわたしたちですが、そのようにして主によって力づけていただくわたしたちもまた、兄弟姉妹を力づけましょう。兄弟姉妹を訪ねて、ともに祈り、語り合うことによって、兄弟姉妹を励ましましょう。わたしたちにとって兄弟姉妹が一緒にいてくれることにまさって力づけられることはないからです。
父と子と聖霊の御名によって。
