聖日礼拝 「苦難に備える」
説 教 内田 聡 ⻑⽼
旧約聖書 イザヤ書 53章 11節~12節
新約聖書 ルカによる福⾳書 22章 35~38節
最後の晩餐の時、イエス様は使徒たちに三つのお話をされました。この後イエス様はゲツセマネで祈り、使徒たちから離れて受難します。イエス様と共にある穏やかな日々の最後のお話は、使徒たちの今後についてのものでした。主が去った後の新しい倫理、信仰の危機、苦難の備えです。本日は三番目の「苦難に備える」ことについて御言葉に聴いて参りたいと思います。
35節、「イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言う」 ルカによる福音書では、9章で12人、10章で72人をイエス様は選び、世の中に派遣しますが、いずれも何も持たせず送り出しました。使徒たちは戸惑ったかもしれませんが、必ず彼らを迎え入れる町があり神の国の福音は広がって行きました。勿論、彼らを受け入れない町もあったでしょう。その時は足に着いた埃を払い落とし、「神の国が近づいたことを知れ」と広場で呼ばわりました。それはイエス様の使徒としての証しであり、神の子イエス・キリストの裁きであったと思います。
使徒という職務は、キリスト教の母胎となったユダヤ教にもありますが、それは法律的なもので任命者の代理人という性格がありました。「ある人の使徒はその人自身と同じである」と看做されたのです。使徒たちが世に派遣された時、任命者のイエス様は群衆にメシアとして期待されていました。権威ある言葉で語り、悪霊を払い、病を癒す業に仰天したからです。使徒たちにも同様の業をなす権能が与えられたので、群衆は使徒たちをもメシアの一味と思ったかもしれません。世にあって使徒たちが不足したものは、何もありませんでした。しかし今、イエス様は言われます。
36節、「財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」 この御言葉は、「神に頼らず自らを守れ!」と言うのではありません。イエス様の十字架刑で、群衆の眼差しが変わるということです。
37節、「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」 イエス様が引用した聖句は、先ほど聖書朗読されたイザヤ書53章12節の「彼は自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。」を指します。この預言は、ローマの官憲による十字架刑として実現しました。もはや群衆はイエス様をメシアと看做しません。死に至る刑罰を科せられた犯罪人の一人と看做します。その眼差しはイエス様の使徒たちにも同様です。使徒たちも犯罪人の一味に見えるのです。もはや彼らを迎え入れる町も望めないでしょう。世にある苦難が始まるのです。
36節の「財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。」とは、誰からも受け入れられない世にある苦難に備えて、信仰を保ちなさいという意味でしょう。信仰を保つことが目的で、財布も袋も手段に過ぎません。それに囚われてはなりません財布や袋が無い者がいたならば、「上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」という新しい倫理を実践するだけです。これもまたイエス様が示した苦難の備えでしょう。
では、剣についてはどうでしょう。「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」 さらに、38節、「そこで彼らが、「主よ、剣なら、ここに二振りあります。」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。」 これらの聖句に基づいて、自分を守るために相手と戦う権利、自衛権の根拠とするのは賛成できません。それは実際に、この剣が抜かれた時に分かります。ゲツセマネの祈りの後、ユダに裏切られる場面です。
ルカによる福音書22章49節から51節、「イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。」 剣によってイエス様を守ろうとする人々は、戦いの開始を命じて欲しいと願いました。その中のある者は気持を抑えられずに暴力を振るいます。
イエス様が命じられたのは「「やめなさい。もうそれでよい」 」でした。剣による戦いを認めていません。ある者の暴力は相手の耳を癒すことで贖います。「もうそれでよい」と訳されている原文のギリシャ語を直訳すると、「それまで」です。「やめなさい。それまで」小さな暴力を認めたのではなく、暴発を制御したのです。同様に38節で二振りの剣について語たられた「「それでよい」」は、「もうたくさん!」というニュアンスの、話しを打ち切る言葉でもあったるようです。剣の本数を問題にしているのではありません。
「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」 という御言葉は、「服を売って」に注目することで、ある種の比喩として捕えることもできます。服に因んだイエス様の教えとして「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」を覚えていらっしゃる方も多いでしょう。ここでは「上着を奪い取る者」が悪人とされますが、それはモーセの律法に由来します。出エジプト記22章25節から26節に、こう書いてあります。「もし、隣人の上着を質に取る場合には、日没までに返さなくてはならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。
もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、私は聞く。わたしは憐み深いからである。」 正当な質草であっても、上着を完全に奪うことはモーセの律法で禁じられているのです。
「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」の「服」は、原文で「上着」と同じ単語が使われていました。「上着を売って」ということになれば、貧しい者には夜にくるまって寝るものがありません。それほどまでして買わねばならない剣とは何でしょう。自分の体を守るための道具ではなさそうです。
イエス様のお話を聞いている使徒たちが苦難に遭うのはこれからのことですが、実際に苦難の只中にあった初代教会の指導者たちは、この剣が霊の剣であると理解します。例えば、エフェソの信徒への手紙6章17節には、「また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」とあります。また、ヘブライ人への手紙4章12節には、「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」とあります。肉体を守る最後の上着を売ってでも、買わねばならない剣とは、霊の剣です。そして霊の剣とは神の言葉です。みなさんが手にしている聖書がわたしたちの剣なのです。この剣によって、主が去った後の世にある苦難と戦うのです。
さて、イエス・キリストを主と仰ぐ使徒たちが苦難に遇うのは、群衆が彼らを主と同じく犯罪者と看做すからですが、果たしてこの苦難にはどのような意味があるのでしょうか。もう一度、イエス様が引用したイザヤ書を振り返ってみましょう。
聖書学によれば、イザヤ書は複数の預言者によって告げられたものとされています。 40章からは第二イザヤと呼ばれる名も知れぬ預言者が、バビロン捕囚の解放を告げるものです。この中で「主の僕の詩」という、メシアを黙示した4つの詩があります。福音書が書かれる以前の初代教会は、このメシア (ギリシャ語ではキリスト) にイエス様を重ね合わせました。「主の僕の詩」を十字架で処刑されたキリストの預言としたのです。特に、52章の13節から始まる第4の詩 「主の僕の苦難と死」からは、イエス・キリストの受難と十字架の意味を解釈しました。先ほど聖書朗読されたイザヤ書53章11節の半ばから12節までを意図的にイエスとキリストに置き換えて読んでみます。旧約聖書の1150頁。
「わたしのイエスは、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人をキリストの取り分とし キリストは戦利品としておびただしい人を受ける。イエスが自らなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは イエス・キリストであった。」
いかがでしょう。わたしたちが礼拝で何度も聴いた「罪の贖い」の教理ですね。この 教理は聖霊の助けが無ければ理解できません。少し前のイザヤ書53章8節には、こう書かれています。
「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命あるものの地から断たれたことを。」 第二イザヤはもちろんイエス様と同時代の群衆も、「神の手にかかり 命あるものの地から断たれた」のは、その人の罪が理由だと思ったことでしょう。その理由が「民の背き」にあるなど考えも及びません。それを認めれば、民の一人である自分の罪となり、自分の裁きになるからです。その人だけが罪人、犯罪人の一人に数えられるべきです。自分とは何の関係もありません。「わたしはあの人を知らない」 使徒ペテロが主を否認した時の言葉です。
「わたしはあの人を知っている」と、群衆の前で人に告白させるのは、復活したイエス・キリストから注がれる聖霊です。その時、人は自分が罪人であったと知ります。同時に、あの人の苦難と死は、イエス・キリストの受難と十字架は、自分が「正しい者とされるため」であったと知ります。悔い改めが起こり、イエス・キリストを目標として新しく歩み始めます。
その過程で様々な苦難に遇うでしょう。それは第二イザヤの主の僕、イエス様が担った苦難と同じです。それは神と人が和解するために必要な苦難でした。説教の始めに、「ある人の使徒はその人自身と同じである」と語りましたが、イエス・キリストを伝える者、使徒はイエス・キリストの苦難をも共にするのです。
使徒パウロは語ります。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足らない」 この苦難には神の栄光があるのです。さらに語ります。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」 どちらもローマの信徒への手紙8章からの言葉ですが、神から召し出された者とは、聖霊を注がれた者、わたしたち信仰者のことでしょう。わたしたちは、使徒たちと同じく苦難を共にすることで、神と人の和解の業に用いられ、神からの栄光を受けるのです。この苦難は罪人に下される罰ではありません。わたしたちの罪は、イエス・キリストの受難と十字架で既に贖われているからです。自己犠牲でもありません。わたしたちは自ら栄光に輝くのではなく、ただ神の栄光を顕すからです。
ルカによる福音書が書かれた時期は、ローマ軍によってエルサレム神殿が崩壊した後の時代でした。エルサレム神殿の崩壊は、ユダヤ人にとって世の終わりとも言うべき出来事です。世の終わりにはイエス・キリストが再臨し、苦難から解放するはずなのに、ルカの教会は異邦人がなおも支配する世を生きています。本日の聖句のように、他の福音書にはない苦難に備える記事が残されているのも、彼らの現実を反映しているのでしょう。少し前に読んだ21章9節には、「世の終わりはすぐには来ない」とありました。苦難が果てしなく続くような世を生きて行くため、ルカの教会は世の終わりの救いから、この世の歴史へと関心が移ります。
天地創造から始まるこの世、それと対をなす来たる世、その境界にイエス・キリストの再臨があります。この世の歴史とは天地創造からイエス・キリストの再臨までのことです。更に、この世の歴史はイエス・キリストが生まれるまで預言の時と、それ以降の成就の時に分かれます。そして成就の時はイエス・キリストによる宣教の時と教会による宣教の時区分されるのです。
この世の歴史は神の摂理による全人類の救済の歴史です。イエス・キリストの再臨は、教会による宣教の時の終わり、目標となりました。これは苦難の日々を全人類の救済の猶予として捉え直すことになります。ルカの教会には苦難に耐えてイエス・キリストを証しする使命が与えられるのです。この理解は、現代のキリスト教会の平和運動や人権運動、福祉活動の推進力になっていると思います。
今は未だ、教会による宣教の時です。群衆はイエス様がキリストであること知りません。キリスト教の知識はあっても、聖霊の助けが無ければ自分の出来事にならないからです。知らなければ受け入れません。イエス・キリストを信じる者が苦難に遇うことは避けられません。イエス様は最後の晩餐に、そのことを覚え三つの話で備えとされました。愛と祈りと聖書。互いに仕え合う兄弟愛、信仰を執り成す祈り、神の言葉である霊の剣、聖書の解き明かしです。苦難に遇っても動揺せず、信仰を保ちなさいと促すのです。
愛と祈りと聖書。これらを全うする場所、それが教会であり。こられを全うする時、それが礼拝でしょう。使徒たちの時から今日の礼拝、イエス・キリストが再び来たり給う時まで、それは変わらずに続きます。 父と子と聖霊の御名によって。
お祈りします。
父なる神様、苦難にある人々を憐れんで下さい。将来の展望もなく、隣人との繋がりを絶ち、今だけ、自分だけの利益を求める風潮を鎮めて下さい。
真の神を見失い、不安に駆られているのです。真の人を見出して、平安を与えてください。わたしたちをイエス・キリストの証として用いてください。
愛と祈りと聖書によって、苦難に耐えさせて下さい。
この祈りを、わたしたちの救い主、イエス・キリストの御名によって受け入れたまえ。
アーメン
