聖日礼拝 「イエスはキリストである」
説 教 黄 南徳 平和宣教師
旧約聖書 イザヤ書53章 3~6節
新約聖書 マルコによる福音書8章 27~30節
18世紀の東ヨーロッパで起こったユダヤ教の神秘主義運動であるハシディズムがあります。ハシディズム(ユダヤ教の神秘主義)にこのような寓話があります。ある賢者が眠っているときに、夢の中でメシアの啓示を受けました。夜が明けると、村の井戸水がすべて毒を帯びるようになり、その水を飲んだ人は狂ってしまうので、絶対に飲ませてはならないというものでした。
賢者は急いで起き、暗闇をかき分けながら家々を回り、「井戸水を飲んではならない」というメシアの警告を伝えました。
眠りを妨げられた人々は、賢者があまりにも深刻になりすぎて、精神がおかしくなったと思いました。朝になると、彼らは何の疑いもなく井戸水を飲み、すぐにみな狂ってしまいました。
今やその村で狂っていない人は、賢者ただ一人だけでした。当然、狂ってしまった人々の目には、狂っていない賢者こそが狂人のように見えました。賢者は、人々が異常な行動を取るたびに、彼らが狂っているという事実を思い出させようと努めましたが、ついに彼らは、騒ぎを起こし続ける賢者を閉じ込めることに決めました。
狂気にとらわれた者たちによって捕らえられ、精神病院へと引きずられていく途中で、賢者はもはや手立てがないことを悟りました。彼は「ちょっと待ってくれ!」と叫びました。人々が立ち止まると、彼は自ら井戸の方へと走って行きました。そして、一杯の水をすくい上げて飲み干し、自分自身も狂ってしまいました。
すると人々は、彼がようやく正常に戻ったと拍手し、再び彼を賢者として尊敬しました。
この話を聞いて感じることは、聞く人それぞれで異なるでしょう。
私がここで感じるのは、「多数の考えの危険性」です。たとえ多数の考えであっても、それが主観的な思い込みに陥れば、「正しさ」と「誤り」、「真実」と「偽り」が逆転してしまい、暴力として現れる可能性があるからです。
私たちは何かを決断する際に、「多数の考え」を重要視します。しかし、その多数の考えが本当に正しいかどうかを評価するための基準も必要です。なぜなら、多数の考えが常に正しいとは限らないからです。
本日の本文を見ると、イエス様が誰であるかについて、当時の多数の人々の考えが出てきます。
本文は、ガリラヤの北にある フィリポ・カイサリアという村から始まります。そこでイエス様は、「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ねられました。ここに重要な点があります。弟子たちがイエスに「あなたは誰ですか」と質問したのではなく、むしろイエス様が弟子たちに質問されたのです。神の御子が人間に問いを投げかけられたのです。神が人間に質問されたのです。
聖書は、人間が神を探しに行く道を示したのではなく、神が人間を探しに来られる姿を示しています。
創世記3章を見ると、人間が善悪の実を食べて、自分たちが裸であることを知り、恥ずかしさから体を隠しました。8節を見ると、「そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した。」と書かれています。
このとき、神はアダムを呼ばれて尋ねられました。「どこにいるのか」──これは園の中のどこにいるのかという場所的な問いではありません。これはアダムに向けられた実存的な問いなのです。
神が人間を訪ねてこられたことは、イエス・キリストの中で人となられた神によってわかります。イエス・キリストの中で、言葉が肉となった神なのです。
人間にとってまったくの他者である神が、イエス・キリストの中で、イエス・キリストを通して人間のもとに来られました。人間の理性を超越し、私たちにはまったく知り得ない神、隠れておられる神が、キリストを通して「私は誰か」を人間に明らかにされたのです。
本日の本文にも、人間にまず語りかけられる神の御子の姿が現れています。
「人々はわたしのことを何者だと言っているか」
この話は、イエス様の公生涯の後半に属する話であり、それはつまり、すでに人々の間でイエス様についての話が語られていた時期であることを意味します。
イエス様が人々の病を癒やされ、悪霊を追い出され、人々を教えられた──そのような出来事についての話です。その中には、五つのパンと二匹の魚の奇跡の出来事もあったでしょうし、異邦人の地域へ行かれて、異邦人を癒やされたことも含まれていたでしょう。
噂は急速に広がっていきました。
このような状況の中で、イエス様は「 人々はわたしのことを何者だと言っているか」(マルコによる福音書 8:27)と弟子たちにお尋ねになったのです。
すると弟子たちはこう答えました。「洗礼者ヨハネだと言っています。ほかに、エリヤだと言う人、ほかには、預言者の一人だと言う人もいます。」(マルコによる福音書 8:28)
弟子たちは、大多数の人々の考えをそのまま伝えました。すると今度は、イエス様が弟子たち自身の考えをお尋ねになります。
「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」
ペトロが答えました。これは29節の言葉です。「あなたは、メシアです。」
当時、大多数の人々が思っていた「洗礼者ヨハネ」や「エリヤ」、あるいは「預言者の一人」ではなく、ペトロは「メシア」「キリスト」と言ったのです。口語訳には「あなたこそキリストです」と書かれています。
「キリスト」とは、ヘブライ語「メシア」のギリシャ語訳です。「メシア」は「油を注がれた者」という意味であり、それはすなわち「救い主」を指します。
私たちが「イエス・キリスト」と言うときの「キリスト」は名字ではありません。「イエスが救い主である」という意味なのです。
「イエスがキリストである」という言葉は、「平和と正義というメシア的統治の実現をもたらす者」という職務を指す言葉です。これがマルコによる福音書の核心であり、キリスト教のメッセージの核心です。
ペトロは、大多数の人々が考えていたイエスの称号に、さらに高貴な称号を一つ加えたのではなく、まったく別の何かを表現したのです。
神学者ポール・ティリッヒは、「イエスはキリストである」という告白こそが教会の根であり、キリスト教史の始まりであると述べています。つまり、キリスト教は制度や律法ではなく、「イエスがキリストである」という告白から始まり、この告白は存在論的な決断であるというのです。キリスト教はこの決断から始まります。
しかしそれは、一方では非常に危険な言葉でもありました。なぜなら、「イエスがキリストである」という意味は、他のすべてのものを相対化することになるからです。
ローマ皇帝を頂点とする政治、経済、宗教──あらゆる権力が相対化され、無力化され、ただイエスだけが中心となる新しい世界、すなわち神の国の到来を意味するからです。自らを父であり王であると君臨していたローマ皇帝は、もはや彼らを守る父でもなく、王でもないと宣言されることになります。
だからこそ、「イエスがキリストである」と宣言することを、世の権力者たちは決して許さなかったのです。天皇もヒトラーも、イエス・キリストの御前では皆ただの一人の人間であり、罪人にすぎません。
イエス様は、弟子たちに対して、ご自分について誰にも話さないようにと命じられました(30節)。そして、これからご自分に起こる十字架の道について語られました。それは十字架での死でした。苦難と死の道を歩まれるのです。
するとペトロが語ります。32節を見ると、ただ話したのではなく、イエス様をいさめ始めましたと出ています。韓国語の聖書では「抗議した」と出ています。
「いさめ始めた。」あるいは「抗議した」とあることから、ただ思いやりや保護の意図を超えて、別の考えがあったことがうかがえます。なぜペトロは抗議したのでしょうか?
主は勝利と栄光の冠をかぶって行進されるべきであり、だからこそこれまでの自分の人生も報われるべきなのに──なのに今さら、何の成果もなく死んでしまうとは、彼にとっては到底受け入れられないことでした。
もちろん、イエス様は復活についても言及されました。しかし、ペトロの耳には「苦しみ」と「死」という言葉しか届かず、今は他のどんな言葉も耳に入ってきませんでした。しかし主はこうおっしゃいました。
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」(マルコによる福音書 8:33)
主が苦しみを受けてはならないという考え、主が死んではならないという考えを、主は「人のこと」としてご覧になったのです。
ここで、イエス様とペトロの考えの間には大きな違いがあることがわかります。それはまさに「メシア像」に関する違いです。
ペトロのメシア像は、「勝利のメシア」「征服のメシア」「栄光のメシア」「政治的なメシア」でした。これは当時のユダヤ人の大多数が抱いていた考えでもありました。たとえペトロがイエスを「キリスト」と告白したとはいえ、彼はまだその大多数の考えから抜け出せていなかったのです。
大多数が持っていたメシア像によれば、来られるメシアは、エジプトのファラオのように、ローマのアウグストゥスのように、勝利の凱歌を歌いながら、征服者の玉座に座っていなければなりません。
そんな彼らにとって、「苦しみの僕」「受難のキリスト」「民衆のメシア」というのは、まったく想像もつかないことでした。しかしキリストであるイエスは、苦しみを受け、死ななければならなかったのです。真のキリストとは、権力と栄光を享受するキリストではなかったのです。
さあ、今この問いを私たち自身に向けてみましょう。
「あなたがたは私を何者だと言うのか。」
イエス様もまた、「人々はわたしのことを何者だと言っているか」という問いから始め、弟子たちに対して「それでは、あなたがたは私を誰だと言うのか」とお尋ねになりました。それと同じように、今、主は私たち一人ひとりの考えを知りたいと願っておられるのです。皆さんにとって、イエス様とは誰ですか?
肉体的に病を抱えている人々にとって、イエス様は「医者」のように映ります。聖書を読んでも、イエスが病人を癒された物語に目が向きます。だから彼らは、イエス様を「人間の病を癒される方」として告白するのです。
また、心理的に不安を感じ、精神的に苦しむ人々にとって、イエス様は「心を慰め、癒してくださるカウンセラー」や「心理療法士」のように感じられます。
このように、人それぞれが置かれた状況によって、「イエス様とは誰か?」という問いへの答えが異なるのです。
アメリカやヨーロッパの教会で告白されるイエス像と、南米、アフリカ、アジアの貧しい国々の教会で告白されるイエス像は異なります。南米では、イエス様は貧困と疎外と搾取から解放してくださる「解放者」として告白されます。だからこそ「解放の神学」が生まれたのです。
しかし、ここで最も重要なのは、「イエスがキリストである」という事実です。これこそが最も根本的な告白です。イエス様は病を癒される医師でもあり、心を慰め癒してくださるカウンセラーでもあり、貧しい者たちを顧みる社会奉仕の模範でもあり、社会正義と解放のための改革者の模範でもあられます。しかし、そのすべてに先立ち、「イエスがキリストである」という明確で根本的な告白がなければならないのです。
「イエス様がキリストである」という告白があってこそ、医者としてのイエス、心理療法士としてのイエス、貧しい人々を顧みる社会福祉家としてのイエス、そして正義と解放のために闘われた解放者としてのイエスの意味が、さらに明確になるのです。
二千年に及ぶキリスト教の歴史の中で、教会は「イエスがキリストである」という告白と宣言を決して手放しませんでした。
神の御子として来られ、私たちを罪から救い、十字架につけられ、死者の中から復活された──それがイエス・キリストです。
教会のアイデンティティは、まさにここにあります。教会は病院ではなく、瞑想センターでもなく、社会福祉機関でもなく、政党でもありません。教会とは、「イエスがキリストである」という信仰告白の上に建てられた信仰共同体なのです。教会は、この信仰共同体として、世において働かれる神の救いの業に参与する道具です。教会は、万物を創造し救われる命の神の宣教に参与することによって、終末論的な希望を抱く信仰共同体なのです。
教会は、「イエスの主であること」が否定される時代──人間の理性が主となり、金が主となり、科学が主となる時代に向かって、「イエスがキリストである」ことを宣言しなければなりません。
福岡城南教会は、イエスがキリストであると信じ、道であり、真理であり、命である主を宣べ伝えなければなりません。
「イエスがキリストである」と宣言し、正義と平和の神の国のために働かなければなりません。
歴史の未来は、「イエスがキリストである」と信じる信仰と、聖霊の力の中で神の国の未来に向かって歩んでいく教会と私たちの実践にかかっているのです。
イエスがキリストです。
