聖日礼拝 「皆に仕える人となる」
説 教 谷村禎一 ⻑⽼
旧約聖書 ヨブ記 1章 24節
新約聖書 ルカによる福⾳書 22章 24~30節
レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵画「最後の晩餐」は、イエスが「この中にわたしを裏切る者がいる」と言われた時、弟子たちがびっくりして「いったい誰のことだろう」と議論を始める様子を描いています。その続きが今日の箇所であるルカによる福音書22章24節です。弟子たちは、「自分たちの中で誰が一番偉いのか」と言い合いを始めるのです。
主イエスご自身がパンとぶどう酒を給仕された、最後の晩餐という貴重な体験が台無しになっています。「ここでそんな話をするな」と言いたくなる場面です。
でも、弟子たちにとって「自分たちの中で誰が一番偉いのか」は、切実な問題でした。なぜなら、彼らは「神の国がまもなくこの地上に実現する」と本気で考えていたからです。だから、自分たちのそこでの順位がとても気になったのです。
福音書を読むと、この「誰が偉いのか」というやり取りが何度も出てきます。
たとえば、
マタイ18章1 節(34 pp.)では弟子たちがイエスに「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか」と尋ねます。するとイエスは「自分を低くして、この子どものようになる人が一番偉いのだ」と答えられます。
また、マタイ20章(39 pp.)上の段の20節では、ヤコブとヨハネの母が「王座におつきになる時に、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座らせてください」と願い出ます。母親の息子に対する思いは今も昔も変わらないかもしれませんが、母親の物言いは、序列意識にとらわれていて、さらに利己的です。イエスは「あなたがたは自分が何を願っているのか分かっていない」と答え、「私が飲む杯を飲めるのか」と問いかけられます。
マルコ9章33節(79 pp.)では、弟子たちがまた「誰が一番偉いか」と議論していました。イエスはそこで「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と語られます。
その頃のユダヤ人の社会には、多くの序列がありました。祭司の世界では、上から、大祭司、祭司長、普通の祭司、そして、祭司の補助者であるレビ人の順番です。律法学者も学識や権威、弟子の数で序列がありました。だから弟子たちも「順位」にとらわれていたのでしょう。
でも、それは現代の私たちも同じではないでしょうか。政治の世界でも、会社の中でも、学校でも、序列や肩書きに人々がこだわる姿は今も変わりません。日本では、その序列に従って行動しなければなりません。25節でイエスは、この世の権力者たちについて語られます。25節に「守護者」という言葉があります。守護者の意味がわかりにくいですが、別の聖書の訳では、「恩人」「恩恵者」とありました。
当時のギリシャ・ローマ世界では、支配者が「自分こそ人々に恩恵を与える者だ、つまり恩恵者だ」と誇るときに自ら使っていた称号でした。現代に置き換えれば、道路を作ったり、補助金を配る「地方の名士」、あるいは「国民の恩人」とアピールする政治家の姿に似ています。したがって、イエスが権力者を「恩恵者」と言われるのは皮肉が込められています。
イエスは「あなたがたは、この世の権力者のようであってはならない」と言われます。名誉や権力のために善行をするのではなく、下から人に仕える者になりなさいと教えられるのです。
27節には「食卓につく者」と「仕える者」という表現があります。当時の正式な食事は横になって食べるスタイルでしたので、「食卓につく者」の原語は「横になる者」になっています。最後の晩餐でもそうだったでしょう。そこで「仕える人」とは、給仕する人、世話をする人のことです。これはやがて初代教会の役職名「執事(ディアコノス)」の語源にもなっていきます。私たちが使っている、ディアコニアは、奉仕という行為の意味です。
つまり、教会でのリーダーシップの本質は「仕えること」にあるのです。牧師も、長老も、執事も、皆「仕える人」であり「世話をする人」です。上に立つ人が偉いのは、下から皆のために仕えるために選ばれているからです。私たちの教会の小会のはたらきもそうありたいと願います。
もちろん、このことは、教会の中だけでなく、家庭においても、社会においても同様です。家庭においても男性が給仕する人になることができます。
弟子たちは、3年間もイエスに直接教えを受けていながら、結局このことを理解できませんでした。最後の晩餐の前には、イエスが弟子たちの足を洗われたのに、その意味が理解できなかったのです。
学校での学びに例えれば、弟子たちは3年間、毎日イエスの教えを聞き、律法学者、ファリサイ派の人々との論争に立ち会い、寝食、旅を共にし、実地で、伝道実習をしてきたはずです。ところが卒業式の前になっても、実は生徒たちは誰一人として、イエスが受難に向けて歩まれる意味を理解していませんでした。イエスが地上の神の国をもたらすと誤解していました。そればかりが、誰が偉いのかと論じ合っていました。これでは全員が卒業に値しなく留年させて、もう一度学び直す必要がありました。教師は3年の教育の努力は無駄だった、失敗であったと落胆する場面です。
ところが、主イエスは驚くべきことを弟子たちに言われます。28節です。
「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったときにも、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」。試練には、誘惑、試み、困難など幅広い意味があります。イエスは、律法学者、祭司長、ファリサイ派などの人々からの絶え間ない批判、論争を挑まれ、命を狙われる危険の中を歩まれてきました。
しかし、その場にいた弟子たちは、何の助けにもならなかったのですが、イエスは「そばにいてくれて、一緒に踏みとどまってくれた」という事実を評価されるのです。私たちの世界では、成果を得ること、成功すること、良い成績をとることで初めてポジティブに評価されます。何の結果もなく、失敗して、試験で落第点では、評価されません。
神の国の価値観では、「成果」ではなくて「関係にとどまり続けること」が大切にされるのです。主イエスは、弟子たちが、最後まで離れずそばにいたことを評価されています。弟子たちは、イエスが試練に会った時に助けたわけではありません。そんなことはできません。弟子たちはイエスの受難への道を全く理解しなかっただけでなく、誤解していました。しかし、イエスの元を去らなかったという事実を高く評価されているのです。しかしその弟子たちは、ゲッセマネの園では眠っていました。そればかりか、最後は、イエスの元から逃げ去ります。
29、30節は解釈が難しい個所ですが、そのような弟子に対しても。終末において旧約からの約束が成就するという文脈です。30節の最後の12部族を治めるというのは象徴的な意味で言われています。
私たちは、教会生活においても、長い間には、様々な悩みや迷い、試練があり、信仰生活に山や谷があると思います。しかし、そのような時にも主イエスのそばから離れないことが大切であることをこのみ言葉は教えてくれています。
「誰が一番偉いか」と争った弟子たちの姿は、まさに私たちの姿ではないでしょうか。それはまた、人間、人類の罪の姿ではないでしょうか。人間の社会は常に序列を作り、国の間に敵味方の関係を作り、差別があり、争いがなくなりません。自分の国が一番だという政治家がいます。科学技術が進歩しても、戦争のための新しい兵器が作られています。ガザの子どもたちが飢えて死んでいる現実があります。権力を持つものが、平和よりも、力や序列を優先する罪の姿がそこにあります。
序列が気になる私たちが陥りがちな様々な誘惑は、教会においてもあるのではないでしょうか。教会員として誰よりも長く、欠かさずに礼拝に連なっている、何代目のクリスチャンである、逆にノンクリスチャンの家庭でクリスチャンになった。教会で誰よりも多くの奉仕をしている。同様に社会の中にも、学歴、勤務先における地位など多くの序列があります。
しかし、ヨブが語ったように、私たちは何も持たないでこの世に生まれました。そして、地上でどのような成果、地位、栄誉を得たとしても、何も持たないでこの世を去ってゆき、主のみ前に立つのです。
弟子たちは、ペテロを含めてみなイエスを見捨てて逃げました。ユダだけでなく他の弟子も同じでした。それでも主イエスは、十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしください」と祈られたのです。
先ほど歌った讃美歌に「はかりも知られぬ 人の罪よ」とあったように、弟子たちと同じように、わたしたちの罪は、はかりも知られないほど深いのです。主イエスは、十字架上で「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」「父よ、彼らをおゆるしください」と祈られました。
大切なのは、失敗しながらも、弱さを抱えながらも、「主のそばにとどまり続けること」です。9月からの説教を通して、私たちも、いつくしみ深い友なる主イエスのそばに留まり、十字架から復活に至る主の歩みの、み言葉を聴き続けましょう。
父と子と聖霊の御名によって
