聖日礼拝「ユダの中にサタンが入った」
説 教 澤 正幸 応援教師
旧約聖書 イザヤ書 55章8〜13節
福 音 書 ルカによる福音書 22章1〜6節
1、2節
今月からルカによる福音書の最終章、22章から24章に至る主イエスの十字架と復活の出来事を読んでゆきます。
ルカによる福音書の連続講解説教が始まったのは3年前、2022年の待降節でした。それ以来2023年、2024年、さらに2025年の前半と、2年半に渡ってルカの福音書を読んできました。いよいよ福音書の最後、クライマックスに入って行きます。
これから読む22章から24章に書かれている主イエスの十字架と復活の出来事があったのはほんの数日のことでした。最後の晩餐として主イエスが弟子たちと過越の食事をもたれたのは木曜日の夜であり、それから24時間後の金曜日の夜には主イエスは死んで、その亡骸は墓の中にありました。そして、翌々日の日曜日の夜には、復活された主イエスがエマオの村で二人の弟子と食事を共にしていました。これらの22章から24章に書かれている出来事は、日数にしてわずか3日ないし4日の間に起きた出来事だったのです。
今日わたしたちが読んでいる、ユダが祭司長たちのところへ行って、主イエスを金で売ることを相談したというのは、週の水曜日の夜のこと、過越の食事が守られる木曜日の前夜だったと考えられます。
この週、主イエスは毎日、朝早くから神殿の境内で教えておられ、その教えを聞こうとする民衆が主イエスを取り囲んでいました。
エルサレムの宗教指導者である、祭司長や律法学者たちは、それを見て妬みの念を抱き、主イエスを殺そうと謀りましたが、民衆の手前、主イエスに手をかけることができないでいたのでした。主イエスに手荒なことをすれば、民衆の反発を招き、暴動に発展しかねないことを、祭司長たちは恐れていました。暴動が起こりでもすれば、それを口実に、ローマ軍が介入してきて、祭司長たちがかろうじて手にしていたユダヤの自治権を奪われてしまい、ユダヤは完全にローマの手中に陥ることになるでしょう。そうなったら、元も子もないことになります。
どうすれば、民衆のいないところで主イエスを捕らえることができるだろうか。そう考えていた指導者たちのところに、主イエスの12人の弟子の一人が、向こうから指導者たちのところにやってきたのでした。主イエスの周りには少数の弟子たちだけで、民衆がいない、そんな機会を狙って、弟子の一人の手引きによって、主イエスを捕らえることができる、それを聞いた祭司長たちは大喜びします。
4〜6節
この相談はユダの方から持ちかけました。ユダは祭司長たちが主イエスを捕まえて、殺そうとしていることを見抜いて、自分だったら群衆のいない時に主イエスを引き渡せることに気づいたのでしょう。ユダは主イエスにも、他の弟子たちにも気づかれないようにして密かに、祭司長たちのもとを訪ねます。指導者たちは金を払うことを約束し、ユダは彼らに主イエスを引き渡すことを請け合いました。
一方に民衆のいない時に主イエスに手をかけようと企むエルサレムの宗教指導者がおり、他方に、主イエスが少数の弟子たちとだけ一緒にいるような、主イエスを逮捕する絶好の機会に、そこにいて手引きが可能な弟子の一人であるユダがいました。その両者を結びつけたのはサタンです。ユダの中に入ったサタンが両者を結びつけることにより、主イエスを捕らえて殺すという陰謀が実現したのでした。
3節
ユダの中にサタンが入った。「人間は天使でも悪魔でもない」という言い方がなされるのを聞くことがあります。その言い方によるならば、ユダはもともとサタンだったのではなくて、天使でも悪魔でもないユダの中にサタンが入ったのだということになるでしょう。
サタンはいつユダに入ったのでしょうか。今日読んでいるルカ福音書には省かれているのですが、前半の2節と後半の3節以下の間にマタイ、マルコの並行箇所では、ナルドの香油を注いだ女性の話が挟まれています。
一人の女性が惜しげもなく、高価なナルドの香油を主イエスに注ぐのを見た弟子たちが、口々になぜそんな無駄なことをするのかと言って彼女を非難して、高価な香油を高く売って貧しい人々に施さすべきだったと彼女を責めましたが、その急先鋒はユダだったとヨハネ福音書が書いています。
「弟子の一人で、のちにイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身を誤魔化していたからである。」
この油注ぎの出来事が、サタンがユダの心の中に入るきっかけだったのかもしれません。いずれにせよ、ある瞬間にサタンがユダの中に入ったのだと思います。
サタンが動く瞬間というのは、逆説的ですが、それは神の救いの計画が最もはっきりと示されるときではないかと思います。光がはっきりと示される時に、暗い影もくっきりと浮かび上がります。神の救いの真理が明るく輝こうとする時に、それに反比例するように、サタンの偽りの闇が濃くなるのです。神の救いのみ業が目の前に差し出される時に、それに反発するかのように、サタンが人の心に入ってきて、神から差し出される救いの手を振り払わせるのです。
先ほど引用したヨハネによる福音書はそのすぐ後で、印象的にこう記しています。そこを開いて読んでみます。新約聖書195ページ。ヨハネによる福音所の13章26節以下です。
最後の晩餐の席上、主イエスがパン切れを葡萄酒に浸してユダにお与えになったその瞬間、サタンが彼の中に入ったとかかれています。聖餐式において、主イエスの十字架において裂かれたみ体の印であるパンと流された血の印である杯が差し出されますが、それは主イエスを通して神が差し出される罪の赦しと愛そのものです。神の恵みがさしだされる瞬間に、サタンは人の心に入ってきて、それを拒否させるのです。
ところで、ルカは福音書の4章に、主イエスが荒野でサタンから受けた試みについて記した後で、次のように記していました。
「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」。
時が来るまでイエスを離れた悪魔は、主イエスの公生涯の最後に、時いたって、最終的な試みを加えるために再度、主イエスに近づいたのです。今度はしかし、直接主イエスを試みたのではなく、主イエスの12人の弟子の一人ユダに入りました。
この時、サタンが弟子の一人であるユダを通して主イエスに対して加えた試みはなんだったのでしょうか。
今日、わたしたちは主イエスを裏切った12弟子の一人ユダのことを読んでいますが、ユダのことを考えるとき、いつも合わせて考えるのは同じく主イエスの弟子であったペトロのことです。ユダの中に入ったサタンは、ペトロをも小麦を篩に掛けるようにして、試みました。
ペトロがあなたも主イエスの弟子ではなかったかと問われて、三度も、わたしはあの人を知らないと言って主イエスに対しても、神さまに対しても許されない決定的な、取り返しのつかない罪を犯しましたが、そのような躓きをペトロに引き起こしたのはサタンでした、
ペトロにはそれ以前に、主イエスから面と向かって、お前はサタンだと叱責されたことがありました。主イエスの口から、ご自身が必ず祭司長、律法学者たちから捨てられ、十字架につけられて、殺され、三日目に蘇ると言われた時に、主イエスに真っ向から反対を唱えて、主よ、絶対にそんなことがあってはなりませんと、主イエスを諫めようとしたペトロは、主イエスから、サタン、お前は神のことを思わないで、人間のことを思っていると、厳しく咎められました。神のことを思わないで、人間のことを思う、人間の思いを主張して、神の思いを退ける、そういうペトロの中にまさにサタンが働いていました。
先ほど、「人間は天使でも悪魔でもない」という言葉を紹介しました。そうかもしれません。確かに人間は天使でも悪魔でもないかもしれませんが、そういう天使でも悪魔でもない人間の心の中の思いが、神のことを思う思いであるのか、それとも、神のことを思わないで人間のことを思う思いであるのか、それはどちらかであって、中間はないということもまた確かではないでしょうか。そして、神のことを思わずに人間のことを思うとき、人間の心を支配しているのは、神に反対するサタンなのです。
その、神の思いに反対する人間の思い、サタンにつながる人間の思いとは何でしょうか。
主イエスはそれについてはっきり、こう言っておられます。
「わたしについてきたい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:23)
わたしたちは皆、自分の命を救いたいと思います。生まれながらの人間は全員そう思う、自分の命を救いたいと思わない人はいないでしょう。でも、そのような人間の思いは神の思いとは異なると主イエスは言われました。
先ほど読まれた旧約聖書イザヤ書55章の御言葉を思い起こしましょう。
神はわたしたちに命を与えられました。わたしたちに命をお与えくださった神は、わたしたちを生かしてくださる神なのです。それが神の御心であることを信じること、それが神のことを思うことであり、神を信じないで、自分の命を自分でなんとかしようと思うこと、それが神の思いとは異なる人間の思いなのです。
このとき、主イエスが、サタンに心を奪われたユダという身中の虫を駆除してしまうことは、しようと思えばできないはずのないことでした。しかし、主イエスは裏切り者のユダを粛清して、ご自分を守るようなことをなさらないのです。ユダを粛清して自分を救えという声、それこそがこのときユダにおいて、サタンが主イエスを試みた試みだったと思います。主イエスは、そのようなサタンの試みをキッパリと退けられるのです。
主イエスご自身、十字架につけられた時、祭司長たちから嘲笑を受けました。「他人を救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう。」と罵られたのでした。しかし、主イエスは最後の最後まで自分を救われませんでした。そして、父なる神にすべてを委ねられました。そのイエス・キリストを神は復活させられたのです。
この箇所からわたしたちが今日聞き取るべきメッセージは何でしょうか。それを申し上げて今日の説教を締めくくりたいと思います。
新約聖書の全ての福音書は、主イエスの十字架の死と、三日目の復活の記事を最も重要な出来事として伝えています。わたしたちはこれからルカによる福音書によって十字架と復活の福音を読もうとしています。そのとき、気づかされることが一つあります。十字架と復活の出来事を最も重要なこととして、最後に、それこそ福音書のクライマックスとして記す福音書が、どうしてその前の21章において週末についての教えを記しているのでしょうか。そこには世界の歴史の終わり、主イエスの再臨による終末の救いの完成の教えが書かれていました。これから読む主イエスの十字架と復活の福音と、その前に書かれていた終末に関する教え、それら二つはどう互いに結びついているのでしょうか。
主イエスの十字架の死、ご自分を救わないで、すべてを神に委ねて、神に従って行かれた主イエスにおいて、サタンへの勝利、罪への勝利、死に対する復活の勝利が約束されている、ここにおいて、世界の終わり、歴史の終わりが既に始まっているということだと思います。最終的な世界の終わりは、主イエスの死と復活においてもう先取りされている、主イエスの服従と十字架の死と復活によって、サタンは敗北し、もはやサタンはわたしたちを支配することはできないということです。
ユダは主イエスのもとを離れてゆきました。弟子たちの仲間からも離れて一人、向こう側に行ってしまい、二度と戻ることはありませんでした。神殿守衛長たちのところに行ったということは、神殿守衛長というのは今日で言えば警察に当たります。主イエスの弟子がなんで主イエスを警察の手に引き渡すために警察にゆくのでしょうか。ユダはこえてはならない一線を越えています。
サタンの攻撃を受けたのはユダだけではなく、サタンはペトロをも襲いました。でもペトロは主イエスのもとから離れませんでした。彼のために祈られる主イエスのもとにとどまったのでした。ペトロは鶏が鳴いた時、主イエスの御言葉を思いこして激しく泣きましたが、その涙は彼が主イエスのもとを離れなかった証拠でした。そこがユダとペトロの違いだと思います。わたしたちにとっても、わたしたちのために祈られる主イエスを離れてどこにゆくところがあるでしょうか。
今日も主イエスは、わたしたちが主イエスのもとにとどまるよう、わたしたちを招かれます。主イエスはご自身が再びおいでになるときまで、わたしたちのために主の晩餐を備え、主のもとにとどまるようにしてくださいます。ここに終わりの日の祝宴があらかじめ告げられているのです。ここに終わりの喜びと救いがすでに始まっているのです。
父と子と聖霊の御名によって。
