聖日礼拝 「心の目を覚ましていましょう」
説 教 谷村禎一 ⻑⽼
旧約聖書 詩編127編 1~2節
新約聖書 ルカによる福⾳書 21章 34章~38節
38「民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。」
毎朝早く、人々はイエスの話を聞くために、神殿に集まってきました。その一方で、祭司長や律法学者たちは、イエスを殺す計画を立てていました。イエスが捉えられ、十字架にかけられる数日前のことでした。では、そのときイエスの話を聞いていた人たちは、十字架の前にいたのでしょうか。
私たちは毎朝、神さまから、命と新しい一日を与えられています。それは当たり前のことではありません。新しい朝が与えられたことを感謝して、今日も、み言葉に耳を傾けていきましょう。聖書のみ言葉が、今を生きるわたしたちに何を語っているかを聴きたいと思います。
21章34節
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。」
ここで「放縦」とは、節度を失って、自分勝手に振る舞うことです。放縦や深酒は、聖書によって、「二日酔い」「暴飲暴食」「泥酔」「酩酊」などの言葉でも表されています。
新改訳の聖書では「あなたがたの心が、放蕩や酩酊、生活の思い煩いによって押しつぶされないようにしなさい。その日が突然、罠のようにあなたがたに臨まないようにしなさい」とあります。
英語の聖書は64種類あるのですが、そのひとつの日本語訳を紹介します。EasyEnglish Bibleという英語聖書の和訳です。この聖書は極力やさしい言葉を用いた文章になっています。
「気をつけなさい!ごちそうを食べたり、お酒を飲んだりしてばかりいないように。世の中のことで心を奪われてはいけません。そうしていると、大切な日に備えられなくなってしまいます。」
EasyEnglish Bibleでは「世の中のことで心を奪われてはいけません」となっていますが、新共同訳も新改訳は「生活の煩い」「生活の思い煩い」となっています。英語の聖書の中には、世界の煩いと訳しているものがいくつかありました。そこで、原語を見ると、この言葉は、日常生活に関わるあらゆる種類の心配や煩わしさの意味であり、それは個人の生活と、この世的な心配の両方を含んでいます。従って、個人的な生活の心配だけでなく、この世界、世の中のことの二つの側面を取り上げるのがよいと思われます。
実際、私たちは、自分の人生や生活だけでなく、家族のことなどに加えて、日本の政治のこと、世界で勃発している戦争のこと、異常気象や地震などの自然災害のことなど、不安と心配に心があふれています。
人生と生活の心配事 毎日の生活の不安 世の中の不条理な事件、これらが溢れていても、心を閉ざしてはいけない、心の感受性を高いままにいなさいという勧めです。
さて、ここで言われているのは、飲み食いに溺れて心を鈍らせるな、ということです。今の日本では、物価高の中で、暴飲暴食はあまり見られないかもしれません。でも、聖書にはこのような警告が何度も出てきます。
たとえば、ローマの信徒への手紙13:13「昼のように、慎み深く歩みましょう。酒盛りや酩酊、淫らなことや争い、ねたみを捨てて、主イエス・キリストを身にまといなさい。」
ガラテヤの信徒への手紙5:21「ねたみ、泥酔、酒宴など…このようなことをする者は神の国を受け継ぐことはできません。」
なぜこのように、繰り返して警告されているのでしょうか。
それは、当時のローマ社会では、贅沢な宴会や快楽の追求がトレンドであって、それが権力や地位の象徴だったからです。キリスト教の教えは、それに対して「節度」「慎み」「霊的な目覚め」を強く呼びかけたものでした。
それなら、私たちは暴飲暴食のパーティをしていないし、深酒で酩酊して二日酔いになることもないので、そもそも、物価高で十分に食べることができない人々がいる日本では、この箇所は関係がないと読み飛ばしてもよいのでしょうか。
いいえ、そうではありません。
現代の私たちも「食べ物・飲み物」の問題を通して自分自身を省みるべきことがあるのではないでしょうか。
私たちは日常的にペットボトル飲料などプラスチックをたくさん利用しています。その結果、プラスチックごみが増え、マイクロプラスチックやナノプラスチックが海や川を汚し、空気中にも存在し、すべての生物や私たち人間の体内にも入り込んでいます。その影響がわかり始めてきました。これは私たち人間の責任です。
また、食べるという行為には、見えない多くの命の犠牲があります。畜産や水産、農業の背景を知ることは、地球環境への配慮にもつながります。
このように私たちは、便利さや快適さばかりを求めて、心が鈍くなっていないでしょうか。聖書は、そう問いかけているように思います。
35節には、こうあります。
「その日は、地上のすべての人に襲いかかるからです。」
36節。「だから、起ころうとしているすべてのことから逃れ、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
36節は、EasyEnglish Bibleではこう訳されています:
「だから、いつも目を覚ましていなさい!強くあるように祈り続けなさい。そうすれば、すべてを乗り越えることができ、主の前に立つときも恐れることはありません。」
新約聖書には、「目を覚ましていなさい」という言葉が23回ほど出てきます。終末の警告や、祈り、悪への警戒とセットで使われていることが多いです。
たとえば:マタイによる福音書24:42「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたにはわからないからです。」
テサロニケの手紙第一 5:6「だから、私たちは他の人のように眠っていないで、目を覚まし、慎み深くしていましょう。」
もちろん「目を覚ましている」とは、物理的に眠らないという意味ではありません。睡眠はとても大切で、なぜ生物は眠るのかの研究が最近進んできました。睡眠の間に脳は休んでいるのではなく、前の日に記憶した情報を取捨選択して長期に固定化したり、消し去ったりしています。またストレスを感じたことを整理して感情を安定化しています。
ここで言う「目を覚ます」とは、「心の目を開いていること」「神の前にアラートな状態でいること」です。
最近、「熱中症アラート」が発令されますが、注意を怠らず、周囲に敏感であり、心の備えをしておくということです。
この聖書の箇所の註解で、矢内原忠雄は戦時中の経験からこう語っています。矢内原忠雄は内村鑑三の無教会の系譜に属するキリスト者です。
「常に目を覚まして祈っていた者は、時代の意味と、時勢の成行きと、そしてその中における自らの位置についての知識を与えられ、神の審判の進行過程において思い煩うことなく、心に曇りがなかった。イエスが弟子たちの心構えを教えられた御言葉は、太平洋戦争に際して我々に与えられた預言と教訓であった。」
太平洋戦争の間、矢内原忠雄は常に目を覚まして祈っていました。そして、戦争の状況を正しく見極めることができました。今日の聖書の箇所は、与えられた預言と教訓だったのです。しかし、その時、日本の多くの教会は目を覚ましていませんでした。礼拝において神ならざるものを拝み、戦勝を祈り、戦闘機のために献金していたことを、私たちは省みる必要があります。
私たちは、今の時代においても目を覚ましていたいと思います。フェイクニュースに惑わされず、大量の武器を売りつけられて戦争の準備をしているこの国の現実を直視し、主イエスにある「平和」の国の実現を祈っていきましょう。
最後に、もう一人の信仰者、ディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉をご紹介します。彼はナチス政権下のドイツで牧師・神学者として活動し、戦争に反対し続けましたが、ナチスによって逮捕され、ドイツが降伏する3週間前に処刑されました。彼は1944年7月16日付の獄中からの手紙でこう書いています。
「キリストは弱く、無力な存在としてこの世にいます。…この世とともに生き、この世のただ中で苦しむ神です。」
絶望的な状況に置かれているにも拘らず、ボンヘッファーは、主イエスが共にいてくださり、共に苦しんでくださる方であると告白し、希望を抱いていました。
彼にとって「終末」とは、未来の出来事ではなく、「今この時に、神が共におられる」という信仰の表現でした。「終末」は、キリストに従う日々の中で、すでに始まっているというのです。
イエスは言われました。
「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」
これまで学んできたように、キリスト教の終末論とは、終わりの日に神の国が完全に実現するという希望の信仰のことです。「神による新しい創造」の完成です。
最後に、私たちはどのように祈ればよいかを考えてみましょう。その答えは、主イエスから教えられた「主の祈り」をわたしたちは祈ることができることです。なぜなら、「主の祈り」は終末を見据えた祈りだからです。
「主の祈り」は終末を見つめながら生きる私たちの祈りです。
「御国が来ますように」
神の支配がこの世に完全に現れること、悪が打ち砕かれ、正義が勝利する時を意味し、終末の祈りです。
「御心が天で行われるように地でも行われますように」
現在の世界は神の御心に従っていません。しかし終末において、天と地が一致し、神の御心が完全に成就すると信じられています。
「私たちの罪をお赦しください」
これは、終末の裁きに備える祈りでもあります。
「試みに遭わせず、悪からお救いください」
終末の時に訪れる試練と誘惑から守られることを願う祈りです。
このように「主の祈り」は、終末の希望を見つめながら、今をどう生きるかを示してくれています。
私たちも、「主の祈り」を祈りつつ、いつも目覚めて生きていきましょう。
終わりの日に、わたしたちが主の前に立つとき、祝福と慰めの言葉をいただけるように、心の目を開いて、主に従い、今の時代を知恵を持って見据えて、それぞれが与えられた人生を終わりまで生きたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。
