聖日礼拝 「神の国が近づいている」
説 教 伊藤健一 ⻑⽼
旧約聖書 イザヤ書11章6~10節
新約聖書 ルカによる福⾳書 21章29~33節
“I stumbled when I saw.” 「わたしは目が見えるときにつまずいた。」これは、シェイクスピアの『リア王』の中の台詞ですが、作品の主題とも繫がる、とても大切な台詞だと思います。グロスター伯爵はリア王に仕える忠実な臣下ですが、人の外面に惑わされ、その真実の姿を見ることが出来ません。それは、主人公のリア王も同じです。この物語については、皆さんもご存じだと思いますが、リア王は、上の2人の娘の甘言にだまされ、そして末娘の真実に気づかず、王国を上の2人の娘に分割してしまいます。いざ王国を与えてしまうと、2人の娘には邪険にされ、荒野を放浪する羽目になります。その王を守ってくれるのはフランス王と結婚した末娘でした。また、グロスター伯爵にも2人の息子がいて、弟息子にだまされて兄息子が追放され、その弟息子のグループによって眼をえぐられるという目に遭います。グロテスクな描写ですが、非常に象徴的な意味が込められています。そうして盲目になったグロスターは言います。「わたしは目が見えるときにつまずいた。」人の外面を見ることができなくなったために、結果的に人の外見に惑わされることがなくなった。だから今、初めて真実が見えるようになった。そういう意味が込められていて、同時にこれは、主人公のリア王の心の状況を映し出した台詞にもなっていたのです。他の誰以上に、リア王は人の内面を見ることができませんでした。リアは娘たちの城を出て荒野をさまよう中で、初めて人の内面は外面とは違うことを知ります。80歳を越える老人ではあっても、国王としてチヤホヤされる中で、人の心には裏側があることを知ることがなかったということなのだと思います。
現代のわたしたちにとっても、常に真実を見極め続けるのは、なかなか困難です。今日は、参議院選挙の投票日です。たくさんの候補者がそれぞれに主張をしていましたが、中には事実に基づかない主張をしている人もいました。有権者は、それを含めて各候補者の主張を聞いて判断しなければならないのですから、投票するのにも神経を使う、そういう時代になってきたのだと思います。
本日の説教のために与えられた聖書テキストは、ルカによる福音書21章29節以降の部分です。「イチジクの木の譬え」を通して、主イエスは弟子たちに、自分で徴を見極めて、神の国が近づいていることを知れ、と教えられます。ですが、この部分を見る前に、まずここに至る文脈を確認しておきましょう。21章の5節では、エルサレム神殿の見事な姿について人々が話しています。ここでは「ある人たち」が語っていますが、並行箇所のマルコによる福音書13章では、弟子の一人が語っています。「先生、御覧下さい。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」こうした記述からは、イスラエルの人々が、いかに神殿に誇りを持っていたかが窺えます。歴史的に、エルサレム神殿は、3度建てられたと言われています。最初はソロモンの神殿と呼ばれるもので、紀元前10世紀の中頃、7年かかって建設された壮麗な建物でした。しかしバビロン捕囚が起こり、この間にカルデヤ人によって破壊されてしまいました。第2はゼルバベルの神殿と呼ばれるもので、バビロン捕囚から帰還したイスラエル人が紀元前520年頃に建て始めたものです。その経緯はエズラ記、ネヘミヤ記に記されていますが、最初のソロモンのものより規模も小さくなってしまいました。イエス時代の神殿は、このゼルバベルの神殿が拡張されたものと言われ、これが第3神殿です。紀元前20年頃から工事が始められ、完成したのは紀元64年ということですが、イエス時代にはあらかた完成していたようです。これはヘロデの神殿とも呼ばれました。
「見事な石」とは大理石の円柱のこと、奉納物とは純金製の大きなぶどうの樹のことでしょう。しかし主イエスは、これほど誇らしい神殿も崩れてなくなるときが来ると言われます。「あなたがたはこれらのものに見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」紀元70年のユダヤ戦争において、その預言は実現し、神殿は崩壊してしまうことになります。そう言われた弟子たちが、今度は主イエスに尋ねます。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」神殿の崩壊が意味することは、イスラエルの人々にとっては重大でした。彼らの民族的な記憶の中に、当然バビロン捕囚のことが残っていたはずです。再度バビロン捕囚のようなことが起これば、彼らは離散の民となり、ユダヤ教は崩壊してしまうかも知れません。あるいはそれは、この世が終り、御国が到来するときの徴なのかも知れません。どちらにしても彼らの存在に関わる重大事です。だとすれば、この問いは、決して不信仰からの問いかけではなく、真剣な問いであったことがわかります。
主イエスはこの問いに答えて、終りの時の徴について、エルサレムの滅亡の徴について、主の再臨の徴について語られました。その流れの中で、主イエスは、本日の聖書箇所では譬えを用いて語られました。その部分を見ていきましょう。
29それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。 30葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。
いちじくは、小アジア原産で、古くからパレスチナで栽培されていたようで、その果実は生で、あるいは干して食べられていました。また、薬としても用いられました。大きく育つ木なので、その木の下に座ることができ、平和と繁栄のシンボルでもありました。パレスチナの代表的果実でしたから、限られた地域でしか見ることができないということはなく、誰もが普通に目にすることのできる大きな樹木でした。マルコによる福音書11章では葉だけが茂って実を結んでいないいちじくを主イエスが呪われるというエピソードがありますが、いちじくが非常に身近な樹木であったことを物語っていると思います。いちじくの葉が出始めたら、それは夏が近づいた徴であるということは、おそらくパレスチナの人にとっては言うまでもない常識であったはずです。それを踏まえて、主は言われます。
31それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。
主イエスのこの答えは、7節の「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」への簡潔で的確な回答であると言えます。夏になったらいちじくの葉が出てくるのが確実なように、「これらのこと」が起これば、確実に神の国が近づいていることがわかると言われるからです。そしていちじくの葉が出始めるのは、わたしたちが直接自分の目で見て確かめることができるのです。いちじくの木はどこにでも生えているパレスチナの代表的な果樹ですから、人のことばに頼らず、自分の目で確認できるのです。もちろん、漫然と見つめているのでは意味がありません。見てはいても、葉が出始めていることにまったく気がつかないようなことでは、見ていることにならないのです。しっかりと、まだ葉が出始めていないか、気をつけて見ていくことが必要です。それでは、気をつけて見ていくべき「これらのこと」とは、どのようなことなのでしょうか。改めて確認してみましょう。
主イエスは、まず8節以下で、メシアを名乗る者が現れ、暴動が起こり、戦争、地震、飢餓といった恐ろしいことが起こると言われます。また、20節以下では、軍隊に囲まれると言われます。続いて25節以下では、天変地異が起こると言われます。これらはいずれも恐ろしいことです。その上で、27節にはこう言われています。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」暴動や戦争、天変地異といった恐ろしいことがらにおびえる必要はないのです。なぜならそれは主イエスが再び来られることの徴だからです。それはいちじくの葉が茂るのと同じような、明確な徴だからです。恐ろしい徴ではありますが、自分で直接確かめることのできる徴です。
とは言え、そのようなことが起こるのはいつなのでしょうか。徴はいつ現れるのでしょうか。32節に注目してみましょう。
32はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。
いつなのかは依然として言われていませんが、弟子たちにとってはこれで十分なのです。なぜなら、それまでは世の終りは来ないからです。主イエスはここで「はっきり行っておく」と言ってから話を始めておられますが、このことばは、原語では「アーメン」です。「アーメン」は、わたしたちが「その通りです」という意味で祈りの結びに言うことばですが、主イエスは時折、話のはじめに「アーメン」と言われてから話をされることがあります。これは、主イエスが父なる神とコミュニケーションをとっておられて、父の御ことばに対して主イエスが「アーメン」と応えられ、それから話を始めておられると理解することができると思います。そう考えると、ここで「アーメン」に続いて述べられていること、すなわち「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」ということばは、父なる神から直接与えられた約束のことばと言うことができますから、これを聞いていた人にとっては、徴の意味さえ分れば、それが実際にいつ起こるのかということには余り意味が無いということがわかるはずです。また、「この時代」とは、ユダヤ民族を指していると考えられますから、イスラエルはたとえ裁きを受けるとしても、希望を持って生き続けることができるのです。
最後に33節に注目してみましょう。
33天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
イエスの御ことばは永遠に滅びることはないのです。天地はいつの日か滅びるとしても、御ことばは永遠に続くものなのです。イエスの弟子たちは、自分たちが世の終りまで行き続けるための確かな根拠を御ことばの中に持っているということになります。御ことばは、神さまが天地を創造されたときにも共にいてくださったのです。ヨハネによる福音書の冒頭を見ると、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。したがって、天地創造において共にいてくださった御ことばは、終りの時までわたしたちと共にいると約束してくださっているのです。
わたしたちが生きている今の時代は、「教会の時」です。日本キリスト教会大信仰問答からいくつかの問答を見てみましょう。
問110:そうしますと、今は教会の時、と言うことができますか。
答:そうです。受肉者イエス・キリストの歴史的啓示の時の後に、主の昇天と聖霊の降臨によって新たに教会の時が始められたのです。
問112:教会の時は、いつまでつづくのですか。
答:終わりの日、主の再び来たりたもう時までつづきます。それゆえ、今は中間の時です。
問113:教会の時が終わって、主イエス・キリストの再び来たりたもう時はいつですか。
答:その日その時は、ただ神の見知りたもうところです。
問114:その時には、どの様なことが起こりますか。
答:主は栄光の中に大権を持ってこられ、最後の審判を行ない、救いの経綸を成就し、神の国を完成されます。
この「教会の時」は、中間の時です。「すでに」と「いまだ」の中間の時です。神の国が近づいているときなのです。神の国がいつ来ても良いように備えを持って臨むべきときなのです。
最後にパウロのことばを聞きましょう。ローマの信徒への手紙13章11~14節です。
「11更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。 12夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 13日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、 14主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」
父と子と聖霊の御名によって。アーメン。
私たちの救い主イエス・キリストの父なる神さま
あなたが主イエスをとおしてわたしたちに与えてくださる救いの恵みがいかに大きいものかを思います。わたしたちの救いのために主イエスが十字架について下さり、死んで復活してくださり、そのイエスを信ずる信仰によって接ぎ木され、新しい命に生きる者へと変えられました。今は教会の時、中間の時です。主は約束通りに再び来て下さいます。そのことに希望を持ち続けることができるよう、わたしたちの信仰を成長させて下さい。私たちが、御ことばによって常に新しくされ、十字架の主を見上げつつ、感謝と喜びに溢れた歩みを続ける者とされますよう、お導きください。主にある真の平和をこの世界にもたらしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
