聖日礼拝 「定められた時、創られる時」
説 教 内田 聡 ⻑⽼
旧約聖書 レビ記 23章 4節~8節
新約聖書 ルカによる福⾳書 22章7~13節
今週の15日は終戦記念日です。民族にとって心に刻まねばならない時がありますがユダヤ人にとって過越がそのような時でした。エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民がモーセの導きで脱出したことを記念する日だからです。それは、イエス様の時代にはエルサレム神殿を中心としたお祭りでした。申命記に 男子はすべてエルサレム神殿に出ねばならない と定められています。イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城したのも、人々は過越の巡礼だと思っていたでしょう。
7節、「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。」 当たり前のように書かれている聖句ですが、この一文が躓きとなりました。というのは先ほど朗読していただいたレビ記の定めでは、過越と除酵祭は別の日になっているからです。レビ記23章5節~6節、 「第一の月の十四日の夕暮れが主の過越である。同じ月の十五日は除酵祭である。」
この違いを理解するには、一日の始まりをいつにするかが問題となります。現代人は午前0時ですが、古代ユダヤ人は一日の始まりを日没にしました。一日の範囲を前日の日没から当日の夕暮れまでに区切っているのです。
ところが聖書学者であり考古学者のジャック・フィネガンによると、イエス様が宣教したガリラヤの人々は一日の始まりを日の出と考えた、とされます。フィネガンによれば旧約聖書の一日の区切りも本来は日の出から夜明け前までで、ガリラヤの一部にその習慣が残っていたとするのです。わたしたちの日付の感覚に近いですね。
そのように考えると、「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。」という聖句は納得できます。イエス様が宣教したガリラヤの人々のように一日の始まりを日の出とするなら、過越と除酵祭は同じ日の夕暮れと夜の出来事になるからです。
具体的に、今日の日付で考えてみましょう。今日は8月10日で、今日の夕暮れも夜も8月10日の時間にあります。しかし古代ユダヤ人のように一日の始まりを日没とするなら、8月10日は未だ始まっていません。今は、昨日の日没から始まる8月9日の中にあます。私たちにとって同じ8月10日の夕暮れと夜の出来事が、8月9日の夕暮れと8月10日の夜という、ニ日に渡る出来事となるのです。
7節の「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。」という聖句の躓きは、聖書学の助けによって解決しました。 しかし、それは更に大きな躓きを引き起こします。では、その日は何日だったのか。
一日の始まりを日の出とする区切り方は、日没とするより半日早く始まります。過越は「第一の月の十四日の夕暮れ」とレビ記に定められていますが、先ほどお話しした通り、今日の夕暮れが8月10日でなく8月9日であるなら、7節の日付は、14日の前日である13日となるのです。事実、ヨハネによる福音書13章1節は、「さて、過越祭の前のことである。」と確認してから、イエス様が最後の食事をする記事を始めています。それは13日の夕暮れから始まる出来事です。
私は、イエス様の最後の食事を過越の前日とする、ヨハネの日付は正確であると考えます。なぜなら、過越に続く除酵祭の第一日は安息日で仕事をしてはならないからです。レビ記23章6節~7節、「あなたたちは七日の間、酵母を入れないパンを食べる。初日には聖なる集会を開く、いかなる仕事もしてはならない。」
もしイエス様の最後の食事が過越であるなら、イエス様の受難は、除酵祭の第一日の出来事になります。イエス様を逮捕し、裁判にかけ、死刑を求め、十字架に掛けること。これらをユダヤ人が安息日に行うとは考えられません。彼らは神によって定められた時を忠実に守るからです。
イエス様の受難は、日没から始まる14日の夜から翌日の昼にかけての出来事だったのでしょう。過越は、アリマタヤのヨセフがイエス様を墓に葬った後、14日の終わりの頃夕暮れに行われたのです。そして、日没から始まる15日が除酵祭の第一日となります。これなら過越も、除酵祭の第一日も安息日は守られます。
わたしたち改革派の始祖であるカルヴァンも、イエス様の最後の食事が過越の前日であるとします。但し、彼は一日の区切り方によるのではなく、当時の習慣から推察しました。「除酵祭の第一日が金曜日になったら翌日にずらす」という習慣です。土曜日は一週間の安息日であるため、金曜日も安息日にすると仕事をしない日が二日に渡ってしまうからです。
除酵祭の第一日の15日が金曜日なので、その年は16日の土曜日にずらす。すると過越も15日の夕暮れにずれます。イエス様が律法に忠実である14日の夕暮れに過越をしても、当時のユダヤ人の習慣では前日となるのです。
本日の聖句に戻りましょう。翌日の過越のためイエス様はペトロとヨハネに準備を命じます。しかしガリラヤ出身の彼らには、エルサレムのどこで過越ができるのか知りません。
10節から12節、「イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついていき、家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています』すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」」
イエス様がエルサレムに入城する時、子ろばが備えられていた時と同じような御言葉ですが、並行するマタイによる福音書を読むと少し事情が違うようです。過越の部屋を提供する「家の主人」が「都のあの人」と言われます。「あの人」と訳されているギリシャ語は、名前は分かっているがわざと明記しない場合に用いられるもので、古い口語訳聖書は「かねて話してある人」と訳していました。イエス様が知っている協力者であったのでしょう。使いに出す弟子がペトロとヨハネであることから、彼らが知らない遠い親戚だったのではないかと思われます。但し、彼らが最初に出会う「水がめを運んでいる男」が二人を知っていたかは分かりません。この出会いに神様の御計画があったことは確かです。
マタイによる福音書は、「都のあの人」に呼び掛けるイエス様の言葉として「わたしの時が近づいた」を加えます。「わたしの時」とは、いかなる時でしょうか。イエス様の最後の食事が過越の前日だとすれば、 それはイエス・キリストによって創られる新しい時、
最後の晩餐ではないかと思います。
ペテロとヨハネが見たのは、「席の整った二階の広間」だけです。彼らは過越の食事を準備しますが、その食卓に何があったでしょう。過越の食べ物は出エジプト記の12章に詳しく書かれています。丸焼きにした小羊の肉、酵母を入れないパンに苦菜を添えたもの。それらを、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にして急いで食べるように命じられます。イエス様の最後の晩餐とは少し違った印象がありますね。福音書に書かれた食べ物は葡萄の実から作った飲み物とパンだけ。そこに小羊の肉はあったでしょうか。
そもそも最後の晩餐が過越の前日の食事であるなら、食卓に上がるべき小羊は未だ屠られていません。申命記16章5節から6節にはこのように書かれています。「過越のいけにえを屠ることができるのは、 あなたの神、主が与えられる町のうちのどこででも
よいのではなく、ただ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所でなければならない。夕方、太陽の沈むころ、あなたがエジプトを出た時刻に 過越のいけにえを
屠りなさい。」 エルサレム神殿で小羊か屠られるのは過越の夕暮れ、最後の晩餐の翌日のことです。その日はイエス・キリストが十字架で死んだ日でもあります。
「火と薪はここにありますが、焼き尽くす捧げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
幼い頃、日曜学校で聞いた、この問いを覚えていますか。息子イサクが父アブラハムに尋ねたものです。 「アブラハムは答えた。わたしの子よ、焼き尽くす捧げ物の小羊は
きっと神が備えてくださる。二人は一緒に歩いて行った。」 創世記22章8節の御言葉です。その後、神が備えた雄羊が見つかることは、みなさんご存知の通りです。
過越には、膨大な小羊が屠られました。イスラエルの民がエジプトから脱出する時に、屠られた小羊の血が徴となって、滅ぼす者の災いが過越されるためです。しかしその日、エジプトの全ての初子は撃たれました。ファラオの子から家畜の子に至るまで。 「大いなる叫びがエジプト中に起こった。」と、聖書は伝えます。果たしてこの初子たちに罪はあったのでしょうか。
同じようなことはイエス様が誕生した時にも起こりました。マタイによる福音書はベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を、ヘロデ王が一人残らず殺させたことを伝えています。但し、これは災いではありません。人の手による虐殺です。このような虐殺は世界中で繰り返し行われました。今もなお、ガザで行われています。 いったい罪なき者の血が、どれほど流れれば、罪の贖いは終わるのでしょう。神は、それを求めているでしょうか。
いいえ。罪の贖いはイエス・キリストが十字架で成し遂げました。罪そのものを滅ぼし、わたしたちはイエス・キリストによって神と和解しています。もはや神は、罪の贖いのため犠牲を求めません。イサクが尋ねた「焼き尽くす捧げ物にする小羊」とはイエス・キリストだったのです。アブラハムは息子イサクを捧げようとするほど神に忠実でしたが、神の愛によって雄羊を備えられました。しかし神ご自身は、人への愛ゆえに、子であるイエス・キリストを犠牲とされたのです。
イエス・キリストは、小羊のように神から創造された被造物ではありません。父なる神の子として真の神です。同時にマリアから産まれた人の子として真の人です。かつての過越は、罪を審く神から赦されるために罪の贖いの小羊を捧げました。しかし今、罪を審く神ご自身が全ての人の罪の贖いとして十字架で審かれます。だからこそ全ての人が赦されるのです。 これがイエス・キリストによる新しい過越です。罪に囚われていた古い人からイエス・キリストに似た新しい人へと創られる時です。
最後の晩餐の食卓にあるのは、葡萄の実から作った飲み物とパンです。そこに小羊の肉はありません。イエス様が過越の小羊としてご自身を捧げるからです。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一で、こう書いています。5章7節から8節。 「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」 イエス・キリストの最後の晩餐を記念する聖餐式を覚え、わたしたちも罪から解放された新しい人として、イエス・キリストを目指した自分を創って参りましょう。
さて、本日の説教はここで閉じてもよいのですが、8月15日を前にして、もう少し語らせてください。それは「仕組まれた時」についてです。
わが国では8月15日が終戦記念日とされています。その日、1945年8月15日の正午、裕仁天皇が「大東亞戰爭終結ノ詔書」を読み上げる声がラジオから流れました。この詔書の内容は、連合国が日本に降伏を勧告したポツダム宣言の受諾と、言い訳、内乱の抑制です。この詔書は「終戦の詔書」とも言われるので、終戦記念日という名称の由来になったのかもしれません。
この時の放送は何度も引用され、「堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」というくだりは暗唱できるほどです。裕仁天皇が何を堪え、何を忍ぶのかというと「帝国ノ受クヘキ苦難」です。帝国という言葉には天皇を主権とする国家体制の継続が意識されています。事実、「終戦の詔書」の中には「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ」という言葉もありました。その国家体制の下で未来のための平和を始めるということです。
ポツダム宣言は無条件降伏を迫ったと言われますが、国家体制の選択を迫ったとも読めます。宣言には「身勝手で軍国主義的な助言者らに統制され続けるか、それとも理性による道を歩むか」とあるからです。続けて降伏の条件が示されるのですが、「我らは日本人民族を奴隷化したり、国家を滅亡させる意図は有さない」とか、「日本国政府は、日本国国民の間における民主主義指向の再生及び強化に対する一切の障害を除去しなければならない。」とか、「言論、宗教及び思想の自由、並びに基本的人権の尊重は確立されなければならない。」とか。さらには「日本国国民の自由意思に基づき、平和指向を持ち、かつ責任ある政府が樹立された場合は、連合国の占領軍は、直ちに日本国から撤収しなければならない。」という部分を読む時、ポツダム宣言は平和的な民主化の勧めではないかと思えてきます。しかし最後に日本軍の無条件降伏を求めて抵抗権を奪い、「これ以外に日本国が採り得る選択は、迅速かつ完全な破壊のみである。」と締めくくられるのですから、戦勝国の押し付けと言うこともできるでしょう。ポツダム宣言は7月26日に発せられました。直ちに受諾していれば広島、長崎の原爆投下は回避できたかもしれません。
ところで今日、8月10日は御前会議でポツダム宣言の受諾を決断した日です。その会議の結果は、朝8時に海外向けのラジオ局から世界へ放送されました。ラジオ放送の日ということなら終戦記念日は今日であっても良いのです。
また、連合国軍の占領下にあった1952年4月末まで、終戦記念日という表現はありません。日本が降伏文書に調印した9月2日を降伏の日や敗戦記念日と称しました。
8月15日は、戦後37年を経た1982年、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」として閣議決定されました。8月15日に全国戦没者追悼式を実施することを定めたのです。
全国戦没者追悼式はサンフランシスコ講和条約で日本が独立した1952年に第一回が行われました。その時は5月2日でした。第二回は7年後、1959年3月28日です。8月15日となったのは第三回の1963年から。実に、敗戦から18年の月日が流れています。その翌年、自由民主党内閣部会に「靖国神社国家護持に関する小委員会」が設けられ、全国戦没者追悼式は靖国神社で行われました。それは一度限りのことで、会場は日本武道館になりましたが、8月15日の実施日は1963年から変わりませんでした。1982年の閣議決定は、それを公式に認めるものだったのです。この3年前に元号法が制定され、その2年後に中曽根康弘首相が戦後初めて靖国神社を公式参拝したということは忘れないでおきましょう。
いかがでしょう。ポツダム宣言の受諾を裕仁天皇の声でラジオ放送した日が、段々と終戦記念日にされていると思いませんか。これが「仕組まれた時」です。奇しくも、8月15日はお盆の最中。故郷に帰省して先祖を供養する風習は、戦没者を追悼する儀式と相性が良いのです。「あなたがたの尊い犠牲によって、わたしたちの平和があります。」と自然に手を合わせ拝みたくなります。
果たして戦没者は犠牲者なのでしょうか。あの戦争は災害ではありません。あの戦争の大義は敗戦で無くなりました。戦没者はあの戦争の被害者であり加害者なのではありませんか。それは生き残った者も同じです。犠牲者という言葉で、あの戦争を総括できません。あの戦争の責任を問う使命が戦没者から託されているのです。もう二度と彼らのような被害者や加害者を出さないために。
わたしたちを戦争へと駆り立てる罪を贖うため、犠牲はもう必要ありません。屠られた小羊も戦没者も。すでにイエス・キリストの十字架が罪の贖いを成就しているからです。しかし、わたしたちの中に戦争へと駆り立てる罪があったことを消し去ることもできません。その罪を自覚し、いつも悔い改めから出発します。そうでなければ、イエス・キリストから外れて罪に囚われた古い人に戻り、また戦争へ駆り立てられるかもしれません。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」イザヤが預言した終わりの日の幻は、イエス・キリストに於いて先取りされています。それは希望として戦争に勝利しています。わたしたちは罪から解放された新しい人として、平和を創ります。父と子と聖霊の御名によって。
お祈りします。
父なる神様、全ての戦争の被害者と加害者を憐れみ、責任者を審きたまえ。戦争へと駆り立てる罪に、わたしたちが二度と囚われることがありませんように。罪の勝利者であるイエス・キリストを仰ぎ、平和を創り出す者とならせてください。この祈りを、主の御名によって受け入れたまえ。 アーメン
