聖日礼拝 「主を待ち望み、今を生きる」
説  教        内田 聡 ⻑⽼
旧約聖書   ダニエル書 7章13節~14節
新約聖書   ルカによる福⾳書 21章25~28節

ルカによる福音書の21章5節より、わたしたちは終わりの時に向けた心構えを聞いています。それは十字架に至る受難を控えたイエス様の、弟子たちに向けた愛でした。

25~26節、「「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」
エルサレム神殿の壮麗さに見とれていた人々に、その崩れ去る日を預言してきたイエス様ですが、本日の聖句ではエルサレム神殿を超えた世界の終わりを預言されます。
いわゆる天変地異なのですが、「天体が揺り動かされる」と訳されているギリシャ語は、直訳では「諸々の天の軍隊が揺さぶられる」となります。最新の聖書協会共同訳では、「天の諸力が揺り動かされる」と訳し直されていました。 古代人は、天を地上から神に至るいくつかの階層とし、それぞれの天を天使の軍隊が護っていると考えていました。ですから「天体が揺り動かされる」とは超常現象が起こるというよりも、神の統治から世界が離れ、無秩序に陥ると理解すべきでしょう。絶対の真理が疑問視され、多様性という名の下に価値観が乱立する現代を言い表しているようです。
「地上では海がどよめき荒れ狂う」とは、世界の無秩序を象徴する表現です。「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々はこの世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。」 この御言葉も、混沌とした社会にある現代人の心情を言い表しています。
現代人がこのような不安を感じるのは、秩序の根拠である神を知らない民、或いは神を忘れた民だからでしょう。本日の聖句にある「諸国の民」 というギリシャ語は、「異邦人」とも訳せます。先週の説教で聞いた、「異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」の異邦人と同じ言葉です。「異邦人とは、真の神を認めない者、神の国の民でない者のことです。イエス・キリストによって示された真の神への信仰を失くした現代人も、異邦人と言えるのではないでしょうか。
27~28節、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」」 終わりの時を前にした異邦人の不安と恐怖の只中に、人の子が雲に乗って来ます。人の子は、イエス様がたびたび用いた言葉ですが、それがイエス様ご自身を指すのかどうか、弟子たちにも分かっていませんでした。
旧約聖書で人の子は人間を意味します。しかし先ほど朗読していただいたダニエル書7章13節にある「「人の子」のような者」は、単なる人間ではありません。「権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え 彼の支配はとこしえに続き その統治は滅びることがない。」と、14節で称えられる者です。 この人の子を、当時のユダヤ人が待ち望んでいたメシアであると、イエス様は理解します。そして自ら「「人の子」のような者」、メシア、すなわちキリストなのだと。
イエス・キリストは、神の統治から離れて無秩序に陥っている世界を回復します。それはわたしたちの歴史の只中で、イエス・キリストの十字架と復活から始まり、その昇天で保持され、その再臨、すなわち世界の終わりの時に完成します。終わりの時は、神への信仰を持たない者には、自らが死に絶える不安と恐怖の時です。しかし神への信仰を持つ者には、解放の時となるのです。
「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」 サドカイ派と復活についての問答をした時のイエス様の言葉です。終わりの時は、今を生きる信仰者の希望なのです。

「終末論」という言葉があります。本来は神学の用語ですが、一般でもたびたび耳にします。ある日突然、この世界が終わるというものです。私が子供の頃にはノストラダムスの大予言が流行りました。8日前の7月5日も、大災害が起こるとネットで騒がれていました。また、アメリカの福音派がイスラエルを支持するのは、独自の「終末論」によるのだとも言われます。 何度、空振りになっても、どんなに迷信だと言われても、「終末論」は無くなりません。何故でしょう?
「終末論」には、日常から解放される魅力があるからです。自らも死に絶える世界の終わりは、確かに不安と恐怖の時でしょう。しかし、その自分が生きている日常は満足できるものでしょうか。裏返して言えば、日常への不満が「終末論」を求めるのです。
日常への不満には程度の違いがあって、耐えられるものならば「終末論」はファンタジーの素材です。つまらない日常の気晴らしに過ぎません。現実からの逃避だ、と揶揄されるかもしれませんが、きちんと日常を過ごすなら非難される筋合いはないでしょう。
しかし耐えられない日常もあります。人生の不条理や社会の理不尽を感じる時です。なんとも抽象的ですが、人生の不条理とは、生まれながらの境遇や病気、突然の災害などに放り出されること。社会の理不尽とは、周りの人の不当な要求や不公平な待遇、矛盾するルールで混乱させられることです。

大学時代の仲間にM君がいました。本人と連絡が取れないのでイニシャルで語るのをお許しください。M君は、親から虐待され周りから変人扱いされた、貧しい学生でした。愛読書は英語の辞書で、彼の下宿に行くと素っ頓狂な声で音読していました。ある日、仲間の一人が冗談まじりに問いました。 「Mさんは、なぜ生きているのですか?」 彼は平然と答えます。「自殺する勇気がないから。」
彼の答えを聞いて、私は黙り込んでしまいました。彼は「死ぬに死ねない日常」を生きているのだ。その日常は、私が就職してから出会う現実になるかもしれない。果たして、その予感は的中しました。それは私だけではありません。同じように、「死ぬに死ねない日常」を生きている人の苦しみを聞きたし、心を病む人もいました。
生きることに疲れて、死を望む。誰もが一度は経験することでしょう。そんな時、世界と共に自らも死に絶える「終末論」は魅力的です。もう自殺する勇気は必要ないのです。この耐えられない日常から、いつか解放されるでしょう。「死を待ち望み、今を生きる」 このような「終末論」は、結果として人生の不条理や社会の理不尽を肯定します。宗教が阿片だと言われる由縁です。
「終末論」に頼らず、人生の不条理や社会の理不尽を無くす方法は、人生や社会を受け入れることです。不条理や理不尽と考える自分の判断を誤りとし、与えられた状況が求めている道理を見究め行動することです。真理など求めてはいけません。人々は、「大人になったな」と褒めてくれるでしょう。
人生の不条理や社会の理不尽を無くすもう一つの方法は、それを考えないことです。
あれこれと考えず、与えられた状況を上手く切り抜け、処世術を身につけることです。人々からは、「使える奴」と重宝されるでしょう。
これらの方法を、私は会社勤めの現実から学びました。そのようにして成功した者たちも知っています。では、その自分が生きている日常に、彼らは満足しているでしょうか。

旧約聖書が語る「終末論」には、現実への批判と将来への希望があります。 紀元前8世紀の預言者アモスは、イスラエルの繁栄の只中で、信仰の乱れと社会の不正義を告発し、神の審きとして終わりの日を語りました。現世の堕落を嘆き来世を夢見たのではなく、日常を批判したのです。その後、「終末論」は、神が選ばれた預言者に与える幻として展開します。これを黙示と言いますが、ダニエル書も黙示文学の一つです。
ダニエル書はエルサレムが陥落した後、バビロン捕囚を背景として描かれています。主人公のダニエルはペルテシャツァルと名を変えられ、バビロニア風の生活を強いられました。それは父祖たちが犯した罪の結果であるとは言うものの、バビロン捕囚の時代に生まれた若者の日常は、人生の不条理や社会の理不尽を感じるものだったでしょう。神への信仰が忠実であるほど、この日常は耐えられるものではありません。信仰を捨てバビロニアの神々に帰依すれば解決するかもしれませんが、それでも神を信仰することをダニエル書は語ります。ライオンのいる洞窟や燃え盛る溶鉱炉へ投げ入れられても、信仰を捨てなかったダニエルと仲間の話を日曜学校で聞かれた方も多いことでしょう。
先ほど朗読していただいた7章からは、終わりの時の幻として「将来に起こるであろうこと」がダニエルに黙示されます。意味不明の幻は、天使が当時の状況に即して解釈し、将来への希望となりました。その希望は終わりの時として目標となり、バビロン捕囚という現実に向き合う姿勢をつくります。
旧約聖書が語る「終末論」は、現実からの逃避ではありません。現実を批判するから苦難に合いますが、将来への希望があるから忍耐できます。その日常が人生の不条理や社会の理不尽であっても、「今を生きる」のです。

さて、迫害の中で信仰を保つことがダニエル書のテーマでしたが、同じような慰めと励ましは新約聖書の手紙の中に多く見られます。ヨハネの黙示録もアジア州の7つの教会に宛てた手紙でした。ローマ帝国から公認されるまで初代教会の信仰者は迫害の中にあったからです。
しかしルカによる福音書の21章5節以降の弟子たちは迫害の中にいません。むしろ神の国の到来に期待しています。つまらない日常や耐えられない日常とは違う高揚感の中にいます。イエス様の十字架の死と弟子たちの離散はこれから起こる出来事です。
この記事をイエス様の思いやりと考えることもできます。自ら被る受難を顧みず、弟子たちの迫害を予見し、その信仰を保つための慰めと励ましであると。 しかし、それだけではありません。イエス・キリストの「終末論」は、他の文書が語る慰めと励ましの基となるからです。
イエス・キリストは、この記事の後22章から始まる受難と十字架と復活により、ご自身の中で終わりの時を完成します。この終わりの時は神と人を隔てる罪が除去される時、神と人の和解の時です。この出来事がわたしたちに迫る時、聖霊によって信仰が起されます。わたしたちの中の古い人が死に、新しい人が生まれるのです。その瞬間は、個人にとって終わりの時です。その出来事は洗礼や信仰告白として教会で公にされます。
とは言うものの、わたしたちの体が実際に死に絶えるのではありません。依然として、わたしたちは生きています。古い人の体のまま新しい人として生きています。使徒パウロは、そのような信仰者をコリントの信徒への手紙二の4章16節~17節に書いています。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」
人生の不条理や社会の理不尽は未だに無くなっていません。しかしイエス・キリストがご自身の中で完成した終わりの時は、イエス・キリストが完成するだろう世界の終わりの時を先取りしています。そのイエス・キリストに与る信仰によって、人生の不条理や社会の理不尽は「一時の軽い艱難」と思えるのです。「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、」解放の時として待ち望めるのです。その「永遠の栄光」を目指し、「日々新たにされて」、この日常を生きるのです。それが「主を待ち望み、今を生きる」ということでしょう。
イエス・キリストへの信仰がない神の国の異邦人にとって、世界の終わりは不安と恐怖の時です。それを待ち望むことは現実逃避と思われるでしょう。それを審きとするならば危険思想と看做されるでしょう。イエス・キリストに基づいた「終末論」を知らないからです。それを知る信仰者は異邦人の滅びを見過ごすのでしょうか。いいえ、一人でも神に立ち返るよう、自らの信仰を告白します。それがイエス・キリストによって新しく創造された者、神の国に住む者の生き方です。
再び来たり給うイエス・キリストはヨハネの黙示録で言われます。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めてあり、終わりである。」と。信仰者の創造と終末は繋がっています。この体の滅び、死は既に克服されています。しかし、世界の完成は未だ至っていません。世界の終わりは来ていません。それを人間が引き寄せることもできません。だから、「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近い」という主の言葉に慰められ励まされつつ、人生の不条理や社会の理不尽を生きて行きましょう。それは最初の弟子たちから続く、イエス様の永遠の愛と希望です。父と子と聖霊の御名によって。

お祈りします。

父なる神様、この世の人々を憐れんでください。
生まれながらの境遇や病気、突然の災害に放り出され、
人生の意味が分からず、さ迷っています。
お互いの不当な要求や不公平な待遇、矛盾したルールで
社会は無秩序となり、暴力が支配しています。
この世の人々がイエス・キリストに出会い、信仰を与えられ
主を目標とした生き方へと、悔い改めますように。
すでに信仰を与えられたわたしたちが、日々の歩みの中で、
主を忘れて高慢になったり、怠惰になったりしませんように。
イエス・キリストの再臨を待つ希望に満たされ、
喜んで今を生きる、福音の証人にならせて下ださい。
この祈りをイエス・キリストの御名によって受け入れたまえ。 アーメン。