ペンテコステ礼拝「ペンテコステを待つマリアの祈り」
説  教 澤 正幸 応援教師
旧約聖書 詩編 139編 7~10節
新約聖書 使徒言行録 1章 12〜14節

今日はペンテコステの日曜日です。ペンテコステの日は旧約聖書では過越の祭りから数えて50日目に祝われる五旬祭と呼ばれる、小麦の収穫を祝う収穫祭の日ですが、新約聖書では、主イエスが復活された日から50日目に起こった聖霊降臨の出来事を記念する日です。

ペンテコステの50日前の復活節の日は弟子たちにとって大きな喜びの日でした。自分たちのもとから取り去られてしまった主イエスに再びお会いすることができたからです。思いもかけない仕方で、自分たちの仲間の一人、イスカリオテのユダの裏切りにより、主イエスは自分たちの間から取り去られてしまいました。主イエスはユダによってユダヤ人の指導者たちの手に渡され、さらにローマ総督ポンテオ・ピラトのもとで裁きを受け、十字架の死へと引き渡されてゆきました。弟子たちの手の届かないところへと引き離されていった主イエスに二度とお会いすることはできないと思って悲しんでいた彼らに、復活の主が出会ってくださり、彼らの心は喜びで満たされました。

それから40日間、主イエスは弟子たちにたびたびご自身を現され、彼らと食事を共になさいましたが、40日目に彼らを離れて天に昇って行かれたのでした。弟子たちのもとを去って行かれる時、主イエスは彼らにこうお命じになりました。

「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父から約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」。

主イエスを天へと見送った後の10日間、弟子たちはこの主の命令を守って、一つところに集まって、主イエスから聞いた聖霊を受けるとの約束の実現するのを待ちました。

使徒たちが集まっていた場所は、「泊まっていた家の上の部屋」と呼ばれています。最初、そこに集まったのは十二使徒の中の、イスカリオテのユダを除く、十一人でした。十一人が祈り始めた上の部屋と呼ばれる二階座敷の広さはどれくらいだったのでしょう。10日経ったのちには、そこに集まったのは120人ほどだったと言いますから、最初、11人の弟子だけが集まっていたときは、大きな部屋はガランとしていたのかもしれません。しかし、次第にその部屋は人で一杯になって行きました。最初に婦人たちが加わります。婦人たちの中には赤子に乳を飲ませる若い婦人たちもいたとすれば、幼子もそこにはいたでしょう。さらに、主イエスの家族がそこに加わりました。母マリア、そして、主イエスの兄弟たちです。

11人の使徒を核として、その輪の周りに加わった人たちは、使徒たちが祈っていた祈りに加えられたのでした。一つの祈りがそこに集まった人たちを一つに結び合わせていたのです。彼らが熱心に祈っていたのは、主イエスの約束の実現を求める祈り、聖霊を待ち望む祈りでした。

しかし、聖霊を待ち望んで祈った弟子たちは、聖霊についてよく知らなかったでしょうし、主イエスが彼らに約束された、聖霊によって洗礼を受けるというのがどういうことなのか理解していなかっただろうと思います。弟子たちはよく分からないまま、未知の出来事の実現を待ちつつ祈っていたということです。

聖霊の「霊」という言葉は、聖書の書かれているヘブライ語でもギリシャ語でも、風とか息という意味を合わせもつ言葉です。風は、音は聞こえても、目には見えず、どこから来てどこにゆくのか、捉え難く、人の力や思いによってコントロールできません。それと同じく、神の霊も、神の御心のままに自由に吹きわたる風のようです。しかし、だからと言って神の霊は、無計画で、気まぐれなものでは決してありません。神の霊は神の人格から切り離されない、神の人格そのものです。使徒パウロは、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」と言います。神は愛です。愛であられる神の霊がわたしたちの心に注がれるとき、わたしたちの心は神の愛で満たされるのです。

このとき、弟子たちは聖霊を待って、聖霊を祈り求めて祈ったのですが、先ほど申しましたように、弟子たちにとって聖霊は未知なる存在だったと思います。その未だ知らない、出会ったこともない未知なるお方である聖霊を待って祈る彼らは、それでも聖霊によって導かれて祈っていたと言えるのではないかと思います。

そのことは、わたしたちがまだ神さまを信じるに至っていなかったときに、信仰を求めて祈ったことに似ていると思います。まだ神さまをよく知らないままに、それでも神さまと、神に呼びかけて祈るとき、その人は神さまをまだ信じていないのですが、神さまはその人を既に捕らえてくださっており、神さまによって導かれていると言えるからです。やがて、神さまを信じるようになったときに、振り返ってみると、自分がまだ神さまのことを信じていなかったときに、神さまがそのような自分を捉え、導いていてくださったことがわかるようになります。

祈り始めたときは、聖霊なるお方を知らなかった弟子たちも、やがて、約束された聖霊を受けるようになった時、聖霊を知らないままに聖霊を求めて祈っていた自分たちを、聖霊が密かに、地下水のように導いてくださっていたことを信じたと思います。

ところで、心を一つにして聖霊を待って祈る人たちの中に、このとき、たった一人、聖霊に満たされ、導かれるということがどういうことか知っている人、それを既に経験している人がいました。母マリアです。マリアは、まだガリラヤのナザレの村にいた頃、彼女のもとを訪れた天使ガブリエルから「聖霊があなたに降り、いと高きかたの力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と告げられました。マリアが神の力に覆われて、神の子イエスを胎に宿したのは聖霊によったのでした。

天使ガブリエルのみ告げを聞いたマリアが「どうしてそのようなことがありえましょうか」と言いましたように、彼女にとって聖霊によって子を宿すことは、自分の理解を遥かに超えた出来事でした。ヨセフという婚約者がいる中で、ヨセフとの間にできた子ではない子を産まなければならないことが、そもそもありえないことでしたし、それから始まって、その後に続いたすべてのことが彼女にとって理解し難いことの連続だったでしょう。マリアは「すべてのことを心に納めて、思い巡らした」と書かれているように、夫ヨセフにさえ話せないような中で、彼女は孤独に耐えて行かねばなりませんでした。しかし、そのような孤独の中でも、天使ガブリエルのみつげに「わたしは主の婢女です。お言葉通りこの身になりますように」と答えたマリアの信仰は、生涯、変わることがなかったのでした。

主イエスが神の国の福音をのべ伝え始め、公生涯にはいられてからもマリアの姿勢は変わらなかったと思います。特に主イエスが十字架の死に向かわれた最後の日々、主イエスが捕らえられとき、嘲を受けたとき、死刑判決を受けた時、十字架に死んで行かれた時、マリアの心は主イエスと一つでした。そのように、何が起きようと、どんな苦しみに主イエスが遭われようと、マリアの心は主イエスから離れることはありませんでした。マリアを主イエスと一つに結びつけていた絆、それが聖霊であると言えると思います。主イエスとマリアを結ぶ愛の絆としての聖霊の絆です。その聖霊の絆で結ばれて、マリアは主イエスが神の子であるとの信仰を貫き通したのです。十字架で死なれた時も、復活された時も、昇天なさった時も、主イエスと過ごした、主イエスの全生涯において、マリアの主イエスを信じる信仰は変わりませんでした。

このように、マリアの生涯においてマリアを主イエスと一つに結びつけていた愛の絆としての聖霊を、マリアは既に経験し、知っていたと言えるでしょう。その聖霊が、いま弟子たちに、さらに弟子たちを核にして集まって祈っている兄弟姉妹の群れに注がれようとしていました。そして、聖霊がマリアを主イエスと一つに結びつけたように、多くの人たちが聖霊によって、主イエスと愛と信仰の絆によって一つに結びつけられようとしていました。

こうして聖霊が11人の弟子の輪の中に満ち、その輪の外にいる、婦人たちに満ち、主イエスと肉においてつながっていた母や兄弟たちに満ち、さらに多くの人々に満ちて行きます。それによって肉による家族ではない、神の霊による新しい主の家族が生まれます。聖霊に導かれる神の子どもたちが、地の果てばてから父なる神の家に集められて行きます。

21世紀の東アジアに生きているわたしたちも聖霊によって、神の家族の一員とされるのです。しかし、全世界の国々、すべての民族の中から神の家族が集められてゆくときに、もし、わたしがそこに入っていないとすれば、なんと悲しく、さびしいことでしょう。また、自分は聖霊に導かれて神を父とする神の家族に加えられながら、自分のすぐそばにいる、夫や妻、子どもはそこに入っていないとしたら、それも悲しいことではないでしょうか。

聖霊の約束を待って祈った弟子たち、その群れは閉ざされたものではありませんでした。開かれた集団でした。彼らが集っていた部屋はガランとしていて、人が入れる余地がたくさん残されていました。聖霊を与えてくださるとの神様の約束は、神さまの自由な約束です。

わたしたちはいま、心を一つにして神さまに何を祈るべきでしょうか。わたしたちが聖霊を頂いたのは、わたしたちが祈り求めたからだったでしょうか。わたしたちも祈ったかもしれません。しかし、わたしたちが祈った祈りよりも、わたしたちのために祈ってくれた父や母、主にある兄弟姉妹の祈りの方が遥かに熱い祈りだったことを知っています。わたしたちが愛する者たちのために聖霊を祈り求めるなら、その祈りは聞き届けられるでしょう。それゆえに、わたしたちは目の前の親しい人々のために、さらに、あったことのない遠くにいる人々のためにも聖霊を祈り求めましょう。すべての人に聖霊を与えようと願っておられるのは、すべての人を造られ、ご自身が造られたすべての人を愛される父なる神ご自身です。このお方が、だれよりも聖霊を与えることを喜びとし、祈り求める者に聖霊を与えようと待ち構えておいでになるのです。

このとき弟子たちはどう祈ったでしょうか。弟子たちが、どう祈ったら良いか分からず迷ったなら、彼らは主イエスから祈るときはこう祈りなさいと教えていただいた祈りを祈ったでしょう。

天におられるわたしたちの父よ、

み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

み心が天に行われる通り、地にも行われますように。

主の祈りこそ、聖霊を求める祈りだと言えます。聖霊が導いてくださって、わたしたちに祈らせてくださる祈りは、まさにこの主の祈りだと言えると思います。聖霊に導かれて祈り始め、聖霊の賜物をいただくとき、わたしたちはいよいよ聖霊と共に神の極めつくすことのできない御心を信じ、愛し、願いもとめて祈るようにされるからです。

父と子と聖霊の御名によって。