聖日礼拝「人に見られる生き方、神に見られる生き方」
説 教 伊藤健一 長老
旧約聖書 ヨブ記1章 20~22節
新約聖書 ルカによる福音書 20章45節〜21章4節
主イエスがエルサレムに入城された後、ルカによる福音書20章に入りますと、主イエスは民衆の前で、祭司長や律法学者、サドカイ派の人々などさまざまな人たちから質問を投げかけられ、それらに見事に応えられてきました。復活に関する質問を返されたのを最後に、今までの質問を受ける立場から攻守入れ替わって、主イエスの方から質問をなさいます。まず、メシアはダビデの子か、というテーマが取り上げられました。これについては、前々回取り上げられました。その後、今回取り上げる二つのテーマについて、主イエスは弟子たちに教え始められました。
まず、一つ目のテーマについて、考えてみましょう。ルカ福音書の20章45節から47節をお読みします。
45民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。 46「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。 47そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
非常に短い記事ですが、まず主イエスは誰に向かってこの話をされたのかを確認しましょう。45節で、まず「民衆がみな聞いているとき」と書かれていますから、まだここに民衆がいます。原語に忠実に訳出すると、「民衆の全員が聞いているところで」となるかと思います。「民衆」と訳されている「ラオス」は、主イエスに敵対しなかった、主イエスを指示する人たちです。「民」と訳されることばでもあります。よく似たことばに、「オクロス」があります。こちらは「群衆」と訳されることが多いと思いますが、主イエスからなにかもらえることを期待して付いてきた、雑多な人々の群れです。イスカリオテのユダが主イエスを裏切る場面に一緒にいるのはこのオクロスです。45節の民衆はラオス、すなわちここまでの祭司長や律法学者、サドカイ派の人々との論争に立ち会ってその問答をじっくりと聞いてた人たちです。この人たちがいることをきちんと把握して、主イエスは弟子たちに語られました。言い換えれば、弟子たちは民衆たちが見ている中で、主イエスの教えを聞くことになったのです。民衆にとっても、弟子となるための学びの機会だったのです。
主イエスは、46節で「律法学者に気をつけなさい」と言われます。イスラエルは、神さまから律法を与えられた民です。私たちは、律法主義ということばや、パウロが「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマ3:20)と言うのを聞くとき、律法も、そして律法学者も悪いものと感じてしまうかも知れません。律法主義というのは、律法の本来の目的を忘れて外面だけを整えること、また神が命じていないことを人間の律法にしてしまうことです。しかし本来、律法は、イスラエルの民に対して恵みとして与えられた善きものです。神さまはいつもイスラエルと一緒にいる。だからその恵みに対する感謝として律法を喜びつつ守ることができる。もともと律法とはそういうもので、私たちが礼拝において十戒を告白するのも、神さまの恵みが先にあるからであって、そのことへの感謝として告白しているのではないでしょうか。だから、律法を大切に守り、それを解釈して民衆に説き明かしをする務めは、とても重い務めなのです。でも、それだけ重大な務めだからこそ、人からの尊敬を受けるうちに、自分が人に良く思われるように、そしてそれによって自分が裕福になるように、という方向に気持ちが傾き、その務めを腐敗させるような人たちが出たのだと思います。
律法学者は、長い衣を着て、その衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもをつけることになっています。これは民数記15章38節に記された規程です。民数記15章39節には、こう記されています。「それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。」房をつけた長い衣は、自分たちが選びの民であることを思い出すためのものであり、青いひもは、王子の身分を示すものでありました。しかし、腐敗した考えに染まった律法学者にとっては、同じ房やひもが自分を立派に見せ、人からの評価を得るための手段となってしまったのだと思います。だから彼らは、46節にあるように「広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」のです。この指摘は、よく知られている山上の説教のことばを思い起こさせます。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ6:16~18)。これとまったく同じことです。このような貪欲への誘惑は、教会の歴史の中で確実に起こったと言えますし、私たちの教会においても起こりうることとして心しておかなければならないことだと思います。
こうして神さまにまっすぐに向き合うことができなくなった律法学者は、「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」(47節)ことになるのです。人からどう見られるのかに心奪われた者は、その本来の生き方に思い至ることができず、貪欲と偽りに満ちた虚栄の生活を余儀なくされるのです。長い祈りをすることは悪いことではありません。ただ、長い祈りが自分の不実な目的を隠す手段として用いられていることが問題なのです。その結果、貧しく生活の手段も貧弱なやもめが犠牲となり、その家が食い物にされてしまうのです。当時の社会において、配偶者を失い、子どももいないやもめが、いかに困難な生活を強いられているか、想像に難くありません。前にレビラート婚の話をしたことを覚えていらっしゃるかと思います。夫に先立たれ、子もいない女性が、夫の弟と結婚して自分の経済的地位と社会的地位とを守り、同時にその家がイスラエルから失われないように守るという制度です。当時、女性が一人で自立して生きようと思えば、売春婦になるくらいしか方法がなかった時代のことです。こんな状況のやもめを食い物にし、自分が豊かになるために用いようとするのは、信じがたい恥ずべき行為です。彼らは人一倍厳しい裁きを受けることになるのは当然でしょう。
律法学者への厳しい裁きのことばに続き、主イエスはここから、全く対照的な賞賛のことばを、ある貧しいやもめに対して投げかけられます。21章1節から4節の御言葉を聞きましょう。
1イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。 2そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、 3言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。 4あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
このエピソードは、ルカ福音書の主要な読者であるローマ在住の異邦人たちに、ユダヤ人はすべてが前に見た律法学者のような人ばかりではなく、ここに記されている貧しいやもめのように、誠実に神を愛し礼拝する人もいるのだということを気づかせる役割をも果たしていると思います。場所は、「異邦人の庭」と呼ばれる場所から「婦人の庭」と呼ばれる場所に移ります。婦人の庭と言われますが、この場所の隅には献金箱がありました。目的別に13個の献金箱が設置されており、それぞれの箱の入口のところがラッパのかたちをしていました。男女区別なく献金ができるように、婦人の庭に献金箱は置かれていました。
金持ちたちは、献金箱に大金を献げていました。献げるときには献金箱のそばに祭司がいて、祭司が献金を受け取る仕組みになっていました。献金をするとき、その人はその金額を大きな声で宣言してから祭司に渡していたのです。ですから、知ろうと思えば、だれがいくら献金したのかは分かる仕組みになっていました。彼らは心を痛めることも、懐を痛めることもなく、平然と見栄を張りつつ大金を献げていました。それは当然です。彼らが献げた献金は、一部は貧しい人たちのための慈善活動などにも用いられたことでしょうが、大半は自分たち祭司たちを養うために、あるいは神殿を修復するために用いられたのです。言い換えれば、自分たちの許に戻ってくるのですから、一時的に手放す、という感じに過ぎなかったのですから、何と表面的な、腐敗した行動であったことでしょう。しかも、その祭司たちは、これまでの文脈で見てきたように、主イエス・キリストを陥れるために必死になっていた人たちでした。
この人たちと対照的だったのが、ここに登場する貧しいやもめです。彼女は、レプトン銅貨2枚を献げました。レプトンは、当時流通していた最少の貨幣で、レプトン銅貨2枚はローマの1デナリの64分の1ということです。1デナリが当時の日当に当たりますから、これを仮に1万円とすると、このやもめが献げた額は、およそ160円になるそうです。いかに僅かな金額か、いかに取るに足りない献げ物かが分かります。ルカは、ここでのレプトン銅貨2枚、すなわち2レプタという数字に特別な意味を込めています。なぜなら、当時の口伝律法では、慈善のための献金は2レプタ以上と決められていたからです。今回の彼女の献金は必ずしも慈善のための献金と記されていませんから、その意味では1レプトンでもよかったのでしょうが、彼女は2レプタ献げました。前に、ルカ福音書15章で、無くしたドラクメ銀貨1枚を必死になって捜す女の人のたとえを見ました。1枚の銀貨が千円くらいだということですが、この女性は大変な思いをして銀貨10枚を蓄えたのでした。だからこそ、必死になって捜し出し、見つかったらお祝いをするのです。当時女性が得られる収入は、男性と比べてはるかに見劣りするものだったのです。そんな中で必死になって貯金して蓄えた銀貨の1枚だったので、見つかったときの喜びは相当大きかったことでしょう。しかし今回のレプトン銅貨2枚という額は、それとくらべても、いかにわずかな金額かが分かると思います。
しかし主イエスは仰います。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」大きな声で金額を宣言して大金を献げていた金持ちたちより、全財産を献げたこの貧しいやもめの方が多くを献げたのだ、と主イエスは言われます。先に述べましたように、献金の大半は祭司たちの生活のために、また神殿の修復のために用いられます。貧しい人たちを養い守るためにはほとんど役立てられません。しかも祭司たちは主イエスを陥れようと必死になっている、言わばイエスの敵たちです。それでも主イエスは、この貧しいやもめの献金を賞賛されました。なぜなら、彼女はその献金の用途を考えることもなく、ただひたすら、神さまを見上げ、神さまの恵みに喜びと感謝を持って、自分の持てるものをすべて献げたからです。人間の尺度で判断すると、160円という額は、何の意味も無い、何の価値もないに等しい、ほんの僅かな献金です。しかし主イエスは、そこにどれだけの思いを込めて献金を行なっているかをご覧になるのです。しかも、この160円は、この貧しいやもめにとって全財産です。そのすべてを献げてしまったら、生活費はどうなるのか、と余計なことが気になりますが、彼女はそんなことは気にしていません。同じルカ福音書の18章18節から23節に記された金持ちの議員とは対照的です。彼も、神への感謝の気持ちを持ち合わせていました。だからイエスが言われる十戒の求めに対して、「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と言ったのです。しかし主が、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われると、それに従うことができませんでした。財産への執着を捨てきることができませんでした。しかしこの貧しいやもめは違います。彼女は神がすべての必要を与えてくださることを信じ、感謝していたのです。彼女はお金に対する執着から解放され、思い患いから完全に解き放たれていたのです。そこには神への全幅の信頼があるのです。ヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。 主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ1:21)と言いました。彼女の信仰は、このヨブの信仰と全く同じでした。ここには、私たちが倣うべき手本があると思います。
祭司たちは、人からの評価を気にし、尊敬され賞賛されることを目指してこれ見よがしな態度で振る舞い、大金を献金していました。しかしこの貧しいやもめには、人からどう見られているかを気にするそぶりはまったくありません。ただひたすら、神さまを見ているだけです。自分の生活がどうなるか、全く考えていないのです。神さまに喜んでいただくことだけを考えて行動しているのです。ここでの祭司たちとこの貧しいやもめ、この両者はまったく対照的な姿勢で生きていることが分かります。
このエピソードは、弟子たちへの教えとして記されています。そしてそこにイエスを受け入れる民衆がいるところでの教えでした。すなわち、弟子養成プログラムの一環としてのメニューだったとうことです。ここでもう一つのことを考えてみたいと思います。原始キリスト教の時代の教会では、礼拝の中で愛餐式を行なう習慣がありました。これは後に聖餐式として調えられていくことになりますが、愛餐式がそのまま聖餐式に移行したのではありません。礼拝の中で行なわれた愛餐式は、言わば食卓の交わりと言えるもので、人々が食べ物を持ち寄り、ある程度食事が進んだところでパンと葡萄酒による聖餐の交わりが行なわれたようです。そしてこの愛餐は、皆がすべてを食べ尽くすのではなく、じゅうぶんな量を残して、その残したものを生活困窮者や病人などに届けたのです。言わば、主イエスが積極的に交わっていらっしゃった人々との愛の交わりの再現です。このように、この時代の教会では、愛餐と聖餐の両方がなされていたのです。そして非常に古い時代から、聖餐式のまえに執り成しの祈りがなされ、教会員や、自分たちを迫害する皇帝のためにも祈りが献げられたのでした。しかし、愛餐式についてのルールがきちんと定められていなかったこと、またローマ帝国による迫害という困難の中で、愛餐式はすたれていったのです。しかし、この愛餐式の精神は教会の献金に引き継がれていたのです。すなわち、愛餐会において皆が食事を持ち寄り、食事を共にする中で、私たちが兄弟姉妹を思いやり、主にあって安否を尋ね、気遣う、その心が礼拝における献金という形態に、また同様に執り成しの祈りの中に受け継がれていったのです。献金は、私たちに許された愛の業の一つなのです。
今回取り上げた貧しいやもめのエピソードから、私たちは彼女の、神への全幅の信頼と全き信仰を読み取ります。そして同時に、レプトン銅貨2枚を献げた彼女の行為が、愛の行為であったことを覚えたいのです。神さまはその信仰を見てくださっています。私たちも、レプトン銅貨2枚を献げたこの貧しいやもめの信仰に倣うものになりましょう。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン。
私たちの救い主イエス・キリストの父なる神さま
私たちの生き方には、人からどう見られるかを常に意識した生き方と、それと対照的に神さまだけを見上げた生き方があります。しかし人の目を常に意識した生き方は虚しく、そこからは何ら良いものは生まれないことを思います。他方、持っていたもの全てを神さまに献げて感謝と喜びの生活を送った貧しいやもめの信仰は、愛に満ちた生き方であり、あらゆる束縛や悪しき思いから解放された生き方であることを思います。私たちが、御言葉によって常に新しくされ、十字架の主を見上げつつ、感謝と喜びに溢れた歩みを続ける者とされますよう、お導きください。主にある真の平和をこの世界にもたらしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。