聖日礼拝「終末の徴と希望」
説 教 谷村禎一 長老
旧約聖書 マラキ書 3章 1~2節
新約聖書 ルカによる福音書 21章5節〜19節
今日も共に礼拝をささげることができる恵みを感謝します。礼拝の中心は、み言葉の解き明かしである説教を聴くことです。では、私たちは何のために説教を聴くのでしょうか。それは、説教を聴いて、私たちが喜び、希望を与えられて、平安のうちに教会から送り出されるためではないでしょうか。もし、私たちが、説教によってただ叱責されて重い気持ちで教会を出てゆくなら、それは教会の礼拝といえるでしょうか。礼拝は、何よりも主イエスにあって、神様から与えられる「喜び」であると思います。
ドイツの各地では、海外に住む日本人が集まって、日本語による超教派の礼拝が守られています。そこでは、礼拝後に持たれる持ち寄りの食事会や茶話会を通して、さまざまな語らいがなされます。その交わりは、異国の地で暮らす人々にとって、大きな励ましと慰めとなっています。私たちの教会においても、兄弟姉妹と主にある親しい交わりを持つことができるのは、大きな恵みです。そしてさらに、説教と交わりに加えて、共に学び合うこともまた大切な祝福だと思います。
さて、本日、与えられた聖書箇所は、「終末の徴」と題された、少し重く感じられるテーマです。「終末」あるいは「黙示録」という言葉には、どこか暗く、不安を覚える響きがあります。しかし、このようなテーマにおいても、主イエスは私たちに励ましと希望を語ってくださっています。
先ほど読んでいただいたルカによる福音書 21章の箇所は、5節からの「神殿の崩壊を予告する」場面と、7節からの「終末の徴」についての教えという、二つのパートからなっています。同様の箇所は、マルコによる福音書13章、マタイによる福音書24章にも見られます。
5節、人々、そしておそらく弟子たちも、壮麗なエルサレム神殿に見とれていました。この神殿は「第二神殿」と呼ばれています。前に存在した「第一神殿」は、イスラエル王国のソロモンによって紀元前10世紀頃に建てられましたが、バビロン捕囚の際に破壊されました。第二神殿は、紀元前516年にペルシャのキュロス2世の命で再建され、その後、紀元前20年頃にヘロデ王が大規模な改築を行い、壮麗な姿へと変貌していきました。
しかし、イエスはその神殿に対して、厳しい視線を向けられています。神殿での商売を糾弾する「宮清め」の行為、そして先週の、貧しい未亡人の献金の場面では、律法学者や金持ちの信仰のあり方を厳しく批判されました。
そのような中で、イエスはこの神殿もやがて破壊されると預言されます。実際、紀元70年にローマ軍がエルサレムに攻め入り、神殿は崩壊しました。
神殿はユダヤ教にとって非常に神聖な場所です。しかし、私たちもここで、確認したいことがあります。それは、外見の美しさに惑わされてはいないか、ということです。立派な教会を見て「素晴らしい教会だ」と言いたくなることがあります。特にヨーロッパで建っている、高い尖塔がある教会、金箔で飾られた祭壇を見るとその思いを強くします。しかし、建物そのものが教会ではありません。ギリシャ語で教会は「エクレシア」と言いますが、それは「呼び集められた者」、つまり「キリストを信じる人々の集まり」を意味しています。見える建物ではなく、集う人々こそが教会なのです。「2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)」とあるようにです。
さて、神殿の崩壊の予言を聞いた人々は驚き、「それは終末の徴ではないか。では、それに伴って何が起こるのですか」とイエスに尋ねます。主イエスは、以下のような事柄を挙げて説明されました。これは、旧約聖書の預言にも見られる終末の徴です。
まず、イエスの名を名乗る偽メシアが現れて「時が近づいた」と言います。私たちはオウム真理教の事件を思い起こします。
9節 戦争と騒乱です。これはまさに今起こっています。
11節には地震などの自然の災害が起こることが言われています。今で言えば、コロナウイルス、大地震、地球温暖化でしょう。12節にはキリスト者への迫害のことが書かれています。
13節に「迫害は証をする機会である」とあります。突然つかまったとき、どう弁明すればよいのか、私たちは不安に思います。しかし、イエスは「弁明の準備はいらない。神が言葉と知恵を授けてくださる」と語られます。とても心強い言葉ですが、私たちは果たして正しい証ができるのか、不安になります。
太平洋戦争中、日本のキリスト者が特高警察に捕らえられ、「天皇とキリスト、どちらが偉いのか」と詰問されました。韓国のキリスト者の中には、神社参拝を拒否して殉教した方々もいます。言葉と知恵を授けられるとはいえ、私たちは正しく証ができるよう、日々祈って備えたいと思います。
弟子たちは、こうしたことが連続して起こり、政治的メシアが現れると信じていました。しかし、9節で、イエスは「それらが起きても恐れてはならない。世の終わりはすぐには来ない」と語っています。マルコ13章32節では「その日、その時は誰も知らない。天使たちも、子も知らない。ただ父だけがご存じである」とあります。
つまり、主イエスは、神殿の終わりと「世の終わり」とを重ねながらも、決して同一視されていないのです。終末はまだ来ない、だから恐れることはないと教えられました。
終末論は、未来への逃避ではなく、今をどう生きるかという問いかけです。恐怖や予言ではなく、「希望」と「目覚めていること」へと私たちを導きます。苦難や迫害の中でも、神に信頼すること。それが求められています。
18節「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」という言葉は、どのような苦難の中でも神の守りがあるという、深い慰めの表現です。19節「忍耐によってあなたがたは命を勝ち取る」——ここでいう「命」は、魂、あるいは救いとも言い換えることができるでしょう。
では、今を生きる私たちにとって、終末の徴は何でしょうか。
現代の私たちは、聖書の時代とは異なる意味での「終末の時代」を生きているかもしれません。戦争、気候変動、経済格差、移民問題——混迷するこの世界では、「救世主」を名乗る者が現れ、人々を惑わすことがあります。
米国のトランプ大統領を支持するキリト教福音派の中には、「国家であるイスラエルの再建こそが終末の始まり」と信じる人々がいます。現実のイスラエルは、パレスチナの人々を圧迫し多くの弱い人々が命を失い、さらにはイランへの攻撃にまで踏み切っています。これを神の正義と結びつけるのは、旧約聖書の誤った読み方です。神は常に戦争を肯定される方ではありません。誤った終末待望、宗教による戦争の正当化は、決して容認されません。
イラン攻撃が始まった6月13日の前日、イスラエルのネタニヤフ首相は「嘆きの壁」に行き、聖句を書いた紙切れを壁の隙間に差し込みました。「嘆きの壁」は、エルサレムのソロモンの第二神殿の西の壁の一部です。そこは、ユダヤ人が、破壊された神殿を嘆き、祈りの場になっています。人々は祈り、願いの言葉を記した紙を壁の隙間に入れるのが習慣となっています。
ネタニヤフ首相が壁に挟んだ紙には「民数記」23章24節、旧約聖書255ページの聖句「見よ、この民は雌獅子のように身を起こし、雄獅子のように立ち上がる」と書かれていました。その箇所の後半は、「獲物を食らい、殺したものの血を飲むまで身を横たえることはない」です。
その翌日の朝、イスラエルは、民数記からとった「Rising Lion立ちあがるライオン」という作戦名で、イランの核施設に対する爆撃を開始しました。このネタニヤフ首相の行為は、イスラエルのイランへの攻撃は、宗教的、政治的に意味があり、神の加護の下での正義の行動であるという意味づけをしたものです。しかし、それは、旧約の神は戦争を認める神だという誤った読み方です。このような宗教による戦争行為の正当化は誤っています。
主イエスは、世の終わりはすぐには来ないと言われました。聖書の時代ではそうだったかもしれません。しかし、現代に生きる私たちは、間違えば世の終わりが実際に来るかもしれない時代に生きています。その事実を無視することができません。
原子物理学の研究者たちが提示している「世界終末時計」がありますが、その時計は、11時45分から、終末の12時までで、今が何時何分何秒かを示しています。現在、終末時計は12時の1分29秒前を指しています。核兵器が連鎖的に使用されたら、世界が滅びる可能性が実際にあるからです。科学の力によって、人類は地球をそのような星にしてしまったのです。核保有国において、今や、2000発の弾道ミサイルに核兵器が搭載され、短時間で発射できる状態にあると言われています。想定外に、誤って核戦争が始まる可能性を、私たちは否定できません。
実際、ロシアがウクライナに対して核兵器の使用で威嚇し、北朝鮮が核兵器を開発し、今月の13日にイスラエルがイランの核施設の空爆を始めました。今の時代を生きる私たちはこの問題を避けて通ることはできません。
一つの言葉を紹介したいと思います。
「たとえ明日、世界が滅びると知っていても、今日、私はリンゴの木を植える」
この言葉は宗教改革者マルチン・ルターのもの言われていますが、実はその出典は明らかではありません。戦後、ヨーロッパで広まったものです。リンゴの木が実を結ぶまでには5年ほどかかります。明日が終末ならば、意味のない行為のように見えますが、それでも植えるのです。その姿は、信仰による「希望」と「忍耐」に満ちた生き方です。希望の根拠は私たちの中にはありません。私たちキリスト者は、日本においては少数者です。これから、さらに少数者となってゆくかもしれません。しかし、そのような状況とは関係なく、イエス・キリストが再び来られるという希望が私たちに与えられています。
私たちは、イスラエルとパレスチナの人々が兄弟姉妹として平和に暮らせる日が来ることを願います。異なる宗教を信じる人も兄弟姉妹です。核兵器が地上から完全に廃絶される日が来ることを夢見ます。
最後に、預言者イザヤの言葉を読んで、この説教を締めくくりたいと思います。
1168ページの下の段です。イザヤ書65章17~19節、25節
イザヤは、新しい天と新しい地の創造、新しいエルサレムの誕生を語ります。そこで、人々は喜び踊り、楽しみます。そこには神の平和が満ちており、獰猛であった獅子ライオンは草を食み、戦いはもはや存在しません。これこそが、私たちが望み見る、新しく創造される「終末の希望」です。
礼拝で交わす「シャローム」という挨拶が、この平和の広がりの始まりとなりますように。たとえ、終末の徴が現れたと人々が言っても、私たちは惑わされることなく、目覚めていて、忍耐し、主イエスから与えられる希望に生きる者となりましょう。