聖日礼拝「神の右の座に高く挙げられた方」
説 教 内田 聡 長老
旧約聖書 詩篇 110篇 1章〜7節
新約聖書 ルカによる福音書 20 章 41〜44節
世間話から説教を始めてしまいましたが、キリスト教会では救世主、メシア、キリストは同じ事柄を意味します。日本語とヘブライ語とギリシャ語の違いがあるだけです。しかしメシアとキリストの間には、それだけでは済まされない何かがあるような気がするのです。
本日の聖句41節、「イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』 と言うのか。」 ここで「メシア」と書かれている言葉は、昔の口語訳聖書では「キリスト」でした。私は聖書マニアの気質があって、文語訳から聖書協会共同訳まで7冊の日本語訳を持っています。さらに新約聖書だけなら英語、フランス語、ギリシャ語の3冊があります。この10冊を読み比べると「メシア」と書かれたものは4冊で、「キリスト」と書かれたものは6冊でした。原典であるギリシャ語は「キリスト」ですから、原典に忠実であるなら「キリスト」と訳すべきです。
では、どうして「メシア」と意訳するのか? それはイエス様がキリストと呼ばれる前の出来事だからです。少し前の説教で聞いた、「エリコの近くで盲人をいやす」という記事では、貧しい盲人が「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」と叫びました。「ダビテの子」という呼びかけは、人々が待ち望んでいた「メシア」を意味しています。 この経験もあって、イエス様は人々の指導者である律法学者たちに問うているのです。
「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」
律法学者たちの根拠はイザヤ書の預言でした。旧約聖書の1,078頁をご覧ください。旧約聖書の1,078頁、イザヤ書11章1節から、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊が留まる。」 「エッサイの株から」のエッサイとはダビデの父です。預言者イザヤはダビデ王が統治した時代の後、王国が南北に分裂した時代に生きました。「平和の王」と題された1節~10節はタビテ王のことを書いているのではありません。かつてのダビデが油注がれた時、主の霊が留まったように、「エッサイの株から」、即ちタビデの子孫から生まれる者 「若枝」に主の霊が留まるということです。この者は 4節、「弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人々を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。」 彼の業が力ではなく言葉であることに注目しましょう。彼は地上に平和をもたらします。この預言が成就する日 10節、「その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う そのとどまるところは栄光にかがやく。」再びエッサイが出て来ました。「エッサイの根」、即ちタビデの子孫から生まれる者が、旗印となり、国々は集い、栄光に輝くのです。ユダヤ人は彼をメシアとして待ち望んでいます。だから「人々は、『メシアはダビデの子だ』 と言う」のです。本日の聖句には書かれていませんが、律法学者たちの心を忖度してみました。
聖書に精通すると自負する律法学者たちに、イエス様は聖書の中にある詩編110編に基づいて問います。 本日の聖句に戻りましょう。 42節、「タビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、私の主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。」イエス様は「私の主」に注目し、話し手がダビダならば、「私の主」はダビデの主であるメシアではないかと指摘します。44節、「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
ルカによる福音書では、イエス様の問いに対する反応が書かれていませんが、並行するマタイによる福音書では、「これにはだれ一人、一言も言い返すことは出来ず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。」、とあります。言い返せなかった者は聖書に精通すると自負するファリサイ派です。一方、マルコによる福音書では「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。」 とありました。聖書を知る者と聖書に聴く者。 反応は対照的ですね。
実のところ、イエス様が引用した詩編110篇は「ユダヤ人の王の即位式を歌ったもの」というのが、当時の一般的な理解であったと思われます。「私の主」を「わが主君」と訳す旧約聖書もありました。「わが主君」とは、エルサレムで王位に就こうとしている君主のことです。「君主の権力は神から与えられたもの、国民に対して政治的な王であるだけでなく宗教的な祭司でもあり、神が君主を助けて周辺の諸国を制圧する」 これが詩編110篇の内容となります。いわゆる祝い唄ですね。
律法学者は聖書の常識を知らないイエス様に面食らったかもしれません。対立するサドカイ派を論破したイエス様を見て、「先生、立派なお答えです」と共感していた者も、冷めてしまったことでしょう。またしても律法学者たちの心を忖度してしまいました。彼らの背景を語ることで、イエス様の発言のスキャンダラスな様子が伝わったでしょうか。
さてイエス様の問いかけは、メシアが何者であるかを考えさせます。「ダビデがメシアを主と呼んでいる」ということは、タビデよりも前にある方です。神様が「「わたしの右の座に着きなさい。」と呼びかけるのですから、メシアは神様とは異なる方でしょう。「メシアはユダヤ人を異邦人から解放する平和の君」というユダヤ人の理解では収まりません。
イエス様が問いかけるメシアは、イエス・キリストご自身を意味します。神が創造した人ダビデの子ではなく、父なる神から生まれた神の子です。本日の聖句、「タビデの子についての問答」は、イエス様の本来の姿を黙示することにもなるのです。それは当時のユダヤ人には想像することさえ許されない冒涜的な出来事でした。
事実、この「わたしの右の座に着きなさい。」という御言葉が、イエス様の命取りになりました。新約聖書の156頁をご覧ください。新約聖書の156頁、ルカによる福音書22章66節から「最高法院で裁判を受ける」という記事です。民の長老会、祭司長たちや律法学者たちから「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と問われたイエス様の言葉。67節の半ばから読みます。 「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」 言っても信じない、尋ねても答えないとは、本日の聖句のことを指しているのでしょうか。何にせよ、「人の子は全能の神の右に座る。」という言葉が最高法院の人々を激怒させます。「では、お前は神の子か」 「イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」」 図らずも、最高法院の人々はイエス様の本来の姿、「神の子」を告白してしまいました。今のわたしたちにとって最も重要な信仰告白が神への冒涜とされ、イエス様を十字架につける原因となるのは皮肉なことです。
「わたしの右の座に着きなさい。」という御言葉が正しく理解されるのは、ペンテコステで聖霊が降ったペテロの説教に於いてです。新約聖書の216頁をご覧ください。本日は聖書をたびたび開きますが、これが最後です。 新約聖書の216頁、使徒言行録の2章25節からです。ペテロの説教は前頁から続く長いものですが、この25節、「ダビテは、イエスについてこう言っています。」からは、本日の聖句と関連するのではないかと思います。
29節、「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。」 まず、ダビデが地上の存在であることが確認されます。その上で、30節、「ダビテは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。」」
ダビデ王は預言者であったという、ペテロの新しい理解が示されます。預言者であるダビデはイエス様がキリストとして来ることを知っているので、「わたしの主」と呼ぶのです。 34節、「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身はこう言っています。『主は、私の主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。」 この御言葉はイエス・キリストの高挙を示すものです。高挙とは、神によって引き上げられること、高く挙げられること、を意味します。本日の説教題にある漢字を使って表します。
ダビテは地上の存在でした。その墓は地上にあります。しかしイエス様は天上の存在でした。今、神の右の座に着いておられます。教会の暦で3日前の5月29日が昇天日でした。4月20日のイ―スターから40日間、復活したイエス・キリストは地上にいましたが、本来の居場所である天上に帰られた、天に上げられたのです。
先ほど、イエス・キリストの高挙という神学用語を使いました。これがイエス様の昇天を指すのは間違いないのですが、イエス・キリストの十字架の高挙という用い方もされます。
人は神の子を十字架につけましたが、神は人の子を十字架に高く挙げたということです。
この高く挙げるという行為は、荒野で蛇に噛まれた民衆を救うためにモーセが青銅の蛇を旗竿の先に掲げた、という出来事を思い出させます。それは神がモーセに命じたことでした。「主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」」民数記21章8節の御言葉です。
イエス様は人の子として、わたしたちと同じ人間として、十字架に高く挙げられました。ここに救いがあります。神の子であるイエス様は、わたしたちと同じ人間として地上に来られ、十字架につけられるまで卑しくなられました。人の目から見れば、十字架につけられた者は呪われた者です。十字架は人間の罪に対する神の審きだからです。
しかし、イエス様が神の子であるがゆえに、その卑しさは父への従順となります。同時に、イエス様が人の子であるがゆえに、父なる神への従順は全ての人にも及びます。 わたしたちはイエス・キリストによって、天上へと高く挙げられる道が拓かれたのです。十字架に挙げられた方は、新しい命を与える方です。十字架は人間の罪を滅ぼし神の栄光で輝いています。
わたしたち改革派の教師、カール・バルトの神学を学ぶ中で、この高挙という教理を知った時、私の胸は高鳴りました。日本キリスト教会信仰の告白、「人となりて人類の罪のため十字架にかかり、全き犠牲(いけにえ)をささげて贖いを成就し、」は、罪の意識を増し加えるだけでした。「復活して永遠の生命の保証をあたへ、救いの完うせらるる日まで我らのために執成し給ふ。」も、イエス・キリストの権威に圧倒されるだけでした。「私は罪深い者です。もったいのうございます。」という感情です。しかし直ぐ、心の声が聞こえて来ます。「イエス・キリストはあなたために十字架で死んだ。あなたはイエス・キリストのために何をするか。」 求められているのは、新しい犠牲(いけにえ)、自己犠牲、殉教でしょうか?
神の子の卑下と人の子の高挙。イエス・キリストの十字架で成就した、この聖なる交換が神と人との和解です。人の功績が入る余地はありません。それは神の子であり人の子であるイエス・キリストによってのみ成立しました。これがわたしたちの救いの根拠です。
確かにイエス様はメシアでしょう。しかし、神の右の座に高く挙げられた方はイエス様以外に存在しません。このメシアをヘブライ語からギリシャ語への訳という以上の意味を込めてキリストと呼びたいと思います。ユダヤ人か待ち望んだメシアは、彼らを解放した後で必ず死にます。かのダビデ王も死にました。しかし、キリストは今も生きていて神の右の座に着き、世界を統治しておられます。これがわたしたちの平和の根拠です。
わたしたちが天上に高く挙げられる道はイエス・キリストによって既に拓かれています。必要なことは信仰によってイエス・キリストに与ることです。与るとは、イエス・キリストに関わること、イエス・キリストを受け取ること、イエス・キリストに似た新しい人間に創造されることです。罪に囚われた古い人間は放棄しましょう。これはわたしたちだけでは成し遂げられません。聖霊の助けを必要とします。来週のペンテコステはそれを覚える日です。
イエス・キリストを目標として生きましょう。卑しさと素直さは恥ではありません。自らの高慢から堕落することもあるでしょう。自らの怠慢から悲惨になるかもしれません。しかし わたしたちの救いは既に完了しています。立ち返る道はいつも用意されています。安んじて行きましょう。
自己犠牲や殉教は結果であって目標ではありません。自らを神に捧げるという生き方が困難な方は、イエス・キリストにゆだねてみてはどうでしょう。イエス様ご自身の最後の言葉も、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」でした。この方が、神の右の座に高く挙げられたのです。わたしたちもイエス・キリストに倣いましょう。 父と子と聖霊の御名によって。
お祈りします。
父なる神様、御子イエス・キリストを讃美します。聖霊によってみごもられ、わたしたちと等しくなられた方。わたしたちの罪を贖うため、十字架につけられた方。復活して、わたしたちに永遠の命を保証された方。神様の右に挙げられ、わたしたちを神様に執成される方。神様の一方的な愛の業、わたしたちの恵を感謝します。日々の歩みの中で、イエス・キリストを忘れて高慢になったり、怠惰になったりしませんように。世にある人々がイエス・キリストに出会い、聖霊が与える信仰によって、イエス・キリストを目標とした生き方へと、悔い改めますように。
この祈りをイエス・キリストの御名によって受け入れたまえ。 アーメン。