聖日礼拝「すべての人は、神によって生きる」
説  教 伊藤健一 長老
旧約聖書 ダニエル書 2章 2節
新約聖書 ルカによる福音書 20 章 27〜40節

主イエスが子ロバに乗り、群衆の歓呼の中でエルサレム入城を果たされた、棕櫚の聖日以降のできごとの記事が続いています。ルカによる福音書20章に入りますと、主イエスは、祭司長や律法学者たちから、何の権威でこのようなことをしているのか、と、権威についての論争を仕掛けられます。しかしヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも人からのものだったか、と逆に質問を返され、保身のために彼らは「わかりません」と答えました。その記事に続いて、イエスはぶどう園と農夫の譬を語られますが、このたとえを聞いた祭司長、律法学者たちは、それが自分たちを指して語られていることに気づき、主イエスへの憎悪を強くするのでした。

続いて、ファリサイ派やヘロデ党の人たちが、皇帝へ税金を納めるのは律法に適っているかという政治的な問いを、主イエスへ投げかけます。主イエスを熱心党グループの一員と思わせ、彼を困難な立場に置こうとしました。しかし主イエスは、その問いを宗教的な問題に引き戻し、彼らの陰謀をくじくことに成功したのでした。

これまでのエピソードには、いずれもマタイにもマルコにも並行記事が記されています。ここまで、イエスに論争を挑んだのは、祭司長たち、律法学者たち、ファリサイ派の人たち、ヘロデ党の人たちでした。今日取り上げる箇所も、マタイとマルコに並行記事がありますが、ここで登場するのは、サドカイ派の人たちです。ルカは、今回のこの記事においてだけ、主イエスに論争を挑んだ人たちの出自をサドカイ派と、はっきりと記しています。ルカは、基本的に異邦人を対象に福音書を書いていますから、彼らがどういう神学的な、あるいは政治的な立場の人たちか、ということを記していません。しかし、今回はサドカイ派、さらにそれがどういう人たちか、ということまで明記しています。復活がテーマとなる神学論争について記すとなると、その立場の特徴を明確にしておかなければならないからです。

この問題は、ルカの読者であるギリシア・ローマに住んでいる異邦人たちには、大きな関心事でもありました。もとより、誰しも、「死」をいつかは迎えなければなりません。当時も、その死の有り様についての様々な考え方がありました。ギリシア哲学は、霊肉二元論の立場を取り、霊魂は不滅であり善であるが、肉体は悪であると考えました。肉体の復活はなく、死をもって霊魂は肉体から解放されると考えていました。そして、サドカイ派とファリサイ派の間の復活論争が主イエスを巻き込む形で提示されたのですから、ルカの読者たちは、興味津々でこの記事を読んだことと思います。27節をお読みします。

27さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。

サドカイ派は、おもに大祭司や祭司長たちからなり、紀元1世紀のユダヤでは大きな権力を持っていました。サンヘドリンと呼ばれる議会において、総議席70のうちの過半数を彼らが占めていました。しかし、紀元70年にユダヤ戦争で神殿が崩壊すると、彼らは消滅してしまうことになるのです。彼らの特徴は、復活を信じていないということでした。この点が、彼らとファリサイ派の根本的対立点の一つでした。何故そうなったのか。

復活の希望を語るメッセージは、捕囚期後に現れました。先ほどお読みいただいたダニエル書12章には、こうあります。1節から3節を読んでみましょう。

1その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く 国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう お前の民、あの書に記された人々は。2多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。3目覚めた人々は大空の光のように輝き 多くの者の救いとなった人々は とこしえに星と輝く。

これらの文書やその教えがユダヤ社会に定着していくまでには、長い時間がかかったと思われます。ファリサイ派は、これらの文書を受け入れ、権威あるものとして扱うわけですが、サドカイ派はそうではなかったのです。サドカイ派の人々は、トーラーと呼ばれる律法、すなわち、モーセが書いたという伝承に基づきモーセ五書と呼ばれている、創世記から申命記までの書物のみを生活の規範として受け入れ、それ以外のものは、教訓を学ぶためには役立つが、その程度のものに過ぎないと考えていました。他方、ファリサイ派の人々は、もちろんモーセ五書は受け入れていますが、それ以外にも預言書や詩編など、後代の文書も受け入れていました。したがって、この二つのグループの間で、神学論争が起きるのは至極当然だったのです。紀元1世紀のユダヤでは、民衆はファリサイ派を支持する人が多かったので、サンヘドリンの多数派であったサドカイ派の人々も、実際にはファリサイ派の人々の意見を無視することはできなかったようです。

そのサドカイ派の人々は、次のような事例をあげて、主イエスに論争を挑みます。28節から33節までを読みましょう。

28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。 30次男、 31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。 32最後にその女も死にました。 33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」

ここで提示されているケースは、実例ではありません。そうではなく、論争のために整えられた、相手を困らせるための質問なのです。サドカイ派の人々は、自信たっぷりにこの質問を投げかけたのです。いつもはファリサイ派の人々を悩ませるために用いられる質問だったのですが、今回は同じ質問が、主イエスを困らせるための質問となりました。この質問は、彼らが権威を置いている律法の書の中のある規程に基づいています。申命記25章5、6節には、このような規程が書かれています。

5兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、 6彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。

もし復活があるのであれば、この例の場合、女性は誰の夫となるのか。もしその規程に固執するならば、解決不可能な事態が生じてしまう。だから復活などないのだ。サドカイ派は、そう主張しているのです。これは、レビラート婚と呼ばれている制度です。こうすることで、夫を亡くし、なおかつ子どももいない、寡婦となってしまった女性の経済的地位と社会的地位とを守り、同時にその家がイスラエルから失われないように守ることが目的となっています。すなわち、この制度は、地上での生涯において、当時の社会で弱い立場にある女性が尊厳を持って生きていけるように定められたものなのです。復活後の夫婦関係を規定しようとする律法ではありません。

女性を守るためとは言え、自分の意図しない結婚には承服できないと考えた人のことが創世記38章にでてきます。ユダの長男エルが主の前に悪であったので、主が彼を殺された。すると、このレビラート婚の仕組みに従うと、弟のオナンがエルの妻と結婚しなければならないのですが、彼はそれをいやがり、子種を地に流した。これは主の御心に反する悪しき行為であったので、オナンも死ぬことになったというエピソードです。

サドカイ派の人々は、このレビラート婚の制度をもとに作り上げた極端な事例をもとに、得意げに主イエスに論争を挑みました。この問いは、そこに同席していたファリサイ派の人々に対する挑戦でもあったのです。ファリサイ派の人々と同様に、主イエスもその論争に応答することができずに敗北し、彼に付いていた群衆たちも彼を離れていくだろう、というのがサドカイ派の人々のもくろみでした。おそらく、ファリサイ派の人々との論争において、ファリサイ派の人々は説得力のある反論をすることができなかったのでしょう。そのようにして、サドカイ派が議論に勝利することが多かったのかも知れません。

この挑戦に対する主イエスの回答を見る前に、一つ確認しておきましょう。サドカイ派もファリサイ派も、いったい復活をどの様なものと捉えていたのでしょうか。これを考えるとき、参照したいのがエゼキエル書40章以降の箇所です。ここには、崩壊した都の神殿が輝かしい姿でそびえ立っている姿が、幻として示されています。サドカイ派もファリサイ派も、復活後の世界を、豪華絢爛たる、この地上の世界をグレードアップした、理想的な世界と考えていたのではないでしょうか。そしてそこは、この地上の世界の秩序が完璧な姿で整えられた、理想郷のような世界として考えていたのではないでしょうか。だから、復活後の世界においても、この地上の世界と同様に、人はめとったり嫁いだりするのだという前提で議論をしているのではないでしょうか。

しかし、復活後の世界は、地上の世界のグレードアップではないのです。ルカ福音書にはない言葉ですが、マタイ福音書の並行記事では、主イエスはまず、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」(22:29)と断言してから、この問いかけへの回答を展開して行かれるのです。

主イエスの回答を見てみましょう。34節から36節をお読みします。

34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、 35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。

復活の体は、地上の体の延長線にあるのではありません。体は質的に全く新しいものとされ、永遠に継続するものとなったのです。信仰において義とされた人々は、もはや死ぬことのない不滅の体になったのですから、新たに子どもをもうけるために、めとったり嫁いだりする必要はなくなりました。地上で夫婦だった者がそれを認識できないとか、疎遠な者になったとかいうことではありません。ですが、全く新しい関係に変えられたということなのです。

現代の、多様な結婚観、あるいはジェンダー観に照らし合わせてみると、結婚の目的は子どもを産むことではないはずだ、子どもを産むことを前提にしない結婚生活もあるのではないか、などと反論をしたくなります。ジェンダーの組み合わせによっては、子どもを産むことができない夫婦も出てくることでしょう。しかし、ここでの議論の主眼点は、結婚と出産ではありません。そうではなく、復活の体は、地上の体とは全く異なる、永遠に存続するものになる、したがって私たちは天使のような存在となり、本当の意味で神の子とされるのだということが、ここでの主眼点であることを覚えたいと思うのです。このとき、第1コリント28章29節にある「神がすべてにおいてすべてとなられる」ということが実現するのです。

主イエスは、サドカイ派の人々に対して、次のようにはっきりと断言なさいました。37節、38節の御言葉を聞きましょう。

37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。 38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

主イエスは、復活が約束されていることをサドカイ派の人々に納得させるために、預言書や詩編などからではなく、彼らが絶対的な権威を認めている律法の書を引いて説明されます。彼らにとって絶対的な存在であるモーセの言葉に注目するように促されます。モーセは主を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んでいます。主イエスは、モーセが主をこのように呼んだのは、主が生きている者の神であることを認めているからなのだ、と言われるのです。無論、彼らは、一旦は地上の生涯を終えて、死んで葬られました。しかし、サドカイ派が言うように、これで終わりなのではないのです。もしそうなら、モーセは主を、「アブラハムの神であった方、イサクの神であった方、ヤコブの神であった方」とでも呼んでいたことでしょう。彼らは地上の生涯は終えましたが、生きているのです。彼らは、時が来たら復活するのです。そのことをモーセはこのように神を呼ぶことによって主張しているのです。神は生きている者の神であられるからです。

この問答を終えるに当たり、主イエスは、「すべての人は、神によって生きているからである」という言葉で締めくくられました。この言葉は、並行するマタイやマルコにはない言葉です。最新の聖書協会共同訳では、「人はみな神に生きるものだからである」と訳されています。ギリシア語の文法から考えると、神との関係性において、あるいは神のために、などと訳すこともできると思います。私たちの存在は、神によって与えられたものであり、それゆえ私たちは神のために生きるものであるということです。

問答が締めくくられた後の律法学者の反応を見ましょう。39節、40節です。

39そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。 40彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

ファリサイ派の律法学者たちの中には、自分たちが出す答えと主イエスの答えのあまりの違いに言葉を失い、賞賛の言葉を述べる人もいたようです。ひょっとしたら、彼らは、これからはこのように答えれば良いのか、という学習をしたのかも知れません。しかし、本当に主イエスの答えを理解したのならば、自分たちの考え方、生き方も変えられて行かざるを得ないのではないかと思われます。そしてサドカイ派の人々は、これ以上どうすることもできなかったのです。あれほど権力を持ち合わせ、自尊心の塊のような人たちだったのに、木っ端みじんにされてしまったのです。紀元70年のエルサレム神殿の崩壊と共に消滅していったサドカイ派の人々のためにも、またこの論争をそばで見ていたファリサイ派の人々のためにも、主イエスは十字架に着かれたのです。そして私たちのためにも十字架に着かれたのです。改めて、私たちは、自分たちが神によって生きていること、神のために生きていることを覚え、感謝と讃美を献げる日々を過ごしていきましょう。

父と子と聖霊の御名によって。アーメン。

祈祷
私たちの救い主イエス・キリストの父なる神さま復活を信じることができないサドカイ派の人々との議論の中で、主は御言葉を引きながら、あなたが生ける者の神であること、したがって、先祖たちも、私たちも、あなたにあって生きる者であり、復活の約束の中に入れられている者であることを改めて覚え、感謝申し上げます。あなたは最後まで諦めずに私たちを守り、導いてくださる愛の神です。そのことを私たちは、私たちの心に注がれている聖霊を通して知らされております。この世にあって、時に神さまの姿を見失い、独りよがりな考え方にとらわれることがありますが、御言葉によって常に新しくされ、十字架の主を見上げつつ、感謝と喜びに溢れた歩みを続ける者とされますよう、お導きください。主にある真の平和をこの世界にもたらしてください。

主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン