聖日礼拝「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」
説  教 澤 正幸 応援教師
旧約聖書 ミカ書 6章 6〜8節
新約聖書 ルカによる福音書 20 章 20〜28節

20〜22節
そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督に支配と権力にイエスを渡そうとした。回し者らはイエスに尋ねた。「先生、私たちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

今日読んでいる場面を絵に描くとすると、そこには様々な登場人物が描かれるでしょう。主人公は主イエスです。その主イエスに質問する回し者が登場します。その回し者を遣わしたのは「機会を狙っていた彼ら」ですが、その彼らというのは、すぐ前の19節に出てきていた律法学者と祭司長たちです。祭司長や律法学者は、主イエスの言葉じりをとらえて、ユダヤを治めていたローマの総督に引き渡すつもりでした。ここで問題とされたのは、ローマの皇帝に税金を納めて良いかどうかでした。当時、この問題をめぐってユダヤの国論は二分されていました。納税に強硬に反対し、断固拒否すべきだと主張する人々は熱心党と呼ばれていました。熱心党の人々はここには登場していませんが、この問答についての重要な人々でした。その熱心党の立場に反対する納税賛成派として、サドカイ派と呼ばれる祭司長たちと、ファリサイ派の律法学者たちがいました。そして、国論を二分するこの問いに主イエスがなんと答えるか、その答えに注目し、耳を傾けて聞いている民衆がそこにはいたはずです。

西洋の画家の中に、時々、自分の描いた絵に、画家自身を描き込んでいる人がいます。この問答を書いた福音書記者のルカはおそらく自分を民衆の一人として描こうとしているのでしょう。ここで主イエスが言われた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言う言葉に、2千年の歴史の中で、様々なところで、様々な時代の人々が耳を傾けてきました。わたしたちも21世紀の東アジアに生きている民衆の一人として、主イエスのこの言葉を受け止めようとしています。

先ほど申しましたローマ皇帝への納税に反対する熱心党の人々について、シュラッターと言う聖書学者が書いている文章を紹介させていただきます。

「熱心党の人たちは、自分の熱心さで神の国を、力づくでもたらそうとする人たちでした。その人たちにとって、ローマの皇帝に税金を支払うことは、特につまずきとなりました。熱心党の人たちは、正しいユダヤ人なら、その良心の故に納税できないはずだと、単刀直入に説いていました。神の民イスラエルは、決して異邦人を支配者として尊敬することは許されない。異邦人の統治は、神がイスラエルに定めたものとは、全く正反対のものである。異邦人の統治に服従するものは、そのことによって神の支配を否定しているのであると主張しました。それ故、納税を拒否するものは多かったのです。彼らはそのために家や畑を捨てなければならなくなり、荒野や山に入って、そこで「強盗」として生きるようになりました。そうして、異邦人に暴行を働き、ついにローマの兵隊の手に落ちて、十字架で最期を遂げるのでした。このような強盗集団の増加が、神殿の崩壊を招いたあの出来事(紀元70年のユダヤ戦争)の本質的原因となりました。ユダヤ民族の離散を招いた最後の戦いは、納税を拒否する熱心党が神殿を自分たちの手に入れたときに勃発したのです。」

今日の過激派と呼ばれる人々を思い起こさせるような熱心党の動きは、当時、保守的な人々や穏健な立場に立つ人たちから批判され、警戒されていました。ローマ皇帝に税金を納めても良いと主張するサドカイ派、またはヘロデ党と呼ばれる人々は、親ローマの立場に立ち、ローマの後ろ盾によってユダヤを支配しようとする人たちでしたから、納税を積極的に肯定しました。それに対して、ファリサイ派と呼ばれる人たちはあまり大きな声では発言しない慎重な人々でしたが、民衆に、熱心党に加わってはいけない、それは危険なことだと警告していました。サドカイ派とファリサイ派は信仰的立場においては水と油のように互いに分かれていたものの、納税を拒否する熱心党に反対する点で一致していました。

このとき、主イエスのもとに回し者を派遣した律法学者と祭司長たちはいずれも皇帝への納税に賛成の人たちだったのです。彼らが、主イエスの言葉じりをとらえて、総督の支配と権力に引き渡そうとしたというのは、主イエスが皇帝に税金を納めることに反対する熱心党であることを明らかにしようとしたことを意味しています。後日、彼らが主イエスを捕らえて総督ピラトに訴え出たとき、主イエスについて次のように訴えたと書かれています。23章2節です。

「この男は我が民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また自分が王たるメシアだと言っていることがわかりました。」

回し者は主イエスに問います。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

ユダヤ人の社会では、モーセの律法がすべての規範でした。宗教上のこと、倫理道徳に関することだけでなく、いつ働くかと言った社会生活から、何を食べていいかと言った日常生活に至るまで、一つ一つモーセの律法にどう定められているかに照らして、それが正しいか、そうでないかが決められていました。

ところで、今、ここで問題になっているのは、政治的なこと、税金に関することでした。当時ユダヤはローマ帝国の植民地とされ、ユダヤ人はローマに人頭税を納めることを求められるようになりました。それは紀元6年に始まったことで、それ以前にはなかったことでした。その、いわば新しい問題である、税金をローマ皇帝に納めることが、モーセの律法に照らして合法なのか、違法なのかが問われたことになります。

しかし、ローマ皇帝に税金を納めても良いかどうかに関する規定を旧約聖書の中に求めるのは、所詮無理なことです。モーセの律法が法典化されて旧約聖書に納められたのは紀元前5〜6世紀のことで、その時代にはローマ帝国は存在していなかったからです。モーセの律法が定めている社会、それが想定している社会は、ユダヤ人の王がユダヤ人を治めている社会で、異邦人による統治、異民族支配は想定していないのです。ですから、ローマ帝国のような異民族支配のもとで、ユダヤ人がどう振舞うべきか、異民族の支配者に税金を払うべきかどうかについて、モーセの律法は何も定めていませんでした。

23〜26節
イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

かつて、わたしがヨーロッパを旅行した時、一つの国の中で複数の通貨が通用しているのを経験しました。今は当時とは変わっているかも知れませんが、その頃、ヨーロッパ共通の通貨ユーロと、オランダならオランダ、チェコならチェコの通貨が合わせて用いられていました。主イエスの時代のユダヤでも、シケルという通貨と、ここに出てくるデナリオン銀貨というローマの通貨が使われていたそうです。それらの複数の通貨を使いながら、市場での買い物をし、商売をしていました。そして、ローマに納める人頭税としては、ローマのデナリオン銀貨しか、ローマは受け取りませんでした。

主イエスが質問に対してお与えになった答えは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」でした。

当時の時代背景に照らすとき、主イエスの答えの前半「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言う答えは、主イエスは熱心党のように、納税を拒否せよとは言われないことを意味します。納税に関する主イエスの立場はサドカイ派やファリサイ派と同じ立場だと言うことです。しかし、同時に、主イエスの答えの後半「神のものは神に返しなさい」と言う答えは、先週読んだぶどう園の例えに出てくる農夫になぞらえられている、祭司長たち、律法学者たちに対する批判となっています。ぶどう園の収穫を主人に納めようとせず、最終的には跡取りである主人の息子を殺して、ぶどう園とその全財産を自分たちのものにしようとした農夫たち、すなわち、神のものを神に返そうとしない律法学者と祭司長たちに向けられているものです。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」との主イエスの答えを聞いた、律法学者や祭司長たちは、主イエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった、とあります。しかし、この言葉を、頓智問答のように、主イエスが機知と機転を利かせて窮地を免れたかのように、そして、わたしたちもそうすれば良いのだと受けとるとすれば、それは誤解です。この答えのゆえに、クリスチャンは血を流してきたからです。主イエスの死後、初代の教会は主イエスのこのお言葉に従って納税に反対しなかったために、熱心党の人々によって殺されました。また古代のクリスチャンたちは「神のものを神に返しなさい」とのお言葉を守り、皇帝を神とする皇帝礼拝を拒否したために殉教していきました。

わたしたちは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」という主イエスのお言葉の深い意味をしっかりと聞き取りたいと思います。

熱心党の人々は、なぜ納税を拒否すべきだと言ったのかをもう一度確認しておきたいと思います。

熱心党の人々は、そのお金は神のものだと主張しました。しかし、納税にはデナリオン銀貨しか使えなかったのであり、その銀貨には、ローマ皇帝の肖像と銘が刻まれているのを主イエスは指摘されました。銀貨に刻まれていた皇帝ティベリウスの肖像には、彼が神である皇帝アウグストの子であると書かれていました。主なる神以外を神としないユダヤ人にとってはこの銀貨はおぞましいものだと、納税に反対する熱心党だけでなく、穏健派のファリサイ派の人たちも思っていました。

主イエスは、皇帝のものは皇帝に返しなさいと言われます。そのお金がただのお金に過ぎないと思うか、おぞましいお金であると思うか、いずれにせよ、それは皇帝のものなのだから、皇帝に返してしまいなさいと言うのが、主イエスの御心だと思います。

熱心党の人たちが、税金は神のものだから、ローマ皇帝に納めることは罪だと言うのに対して、主イエスは、デナリオン銀貨は神のものではないと言われます。皇帝のものであるデナリオン銀貨を皇帝に返したからと言って、神が何かを失うわけでも、神から何かを奪うわけでもないと言われたのです。

皇帝のものは皇帝に返してしまいなさいというのが熱心党に対する言葉であるのに対して、神のものは神に返しなさいというのは、ファリサイ派やサドカイ派に向けられた言葉です。そして、この後半の方が前半よりもはるかに重要であり、第一にしなければならないのは神のものを神に返すことだと主イエスは言われたのだと思います。

言ってみれば、皇帝に納税を拒否する人の犯す罪が、本来皇帝のものを皇帝に返さない脱税の罪だとするなら、神に返すべきものを神に返さないことは、神のものを略奪し、横領する罪になります。脱税よりも盗みや横領の方が罪としてはずっと重いでしょう。

神に返すべき神のものとは何でしょうか。古代教会の教父テルトゥリアヌスと言う人は「神のもの」とは何かについてこう解釈しました。デナリオン銀貨には、それが皇帝のものである印に、皇帝の肖像が刻まれていたように、神のものとして創造された人間には、等しく神の似姿、神の像が刻まれている。それは、すべて神に造られた人間が神のものであることの印なのだと。神のものとは神の形に造られたわたしたち人間にほかならないとテルトゥリアヌスは解釈しました。

そうであれば、神のものを神に返すとは、わたしたち自身を神に返すと言うことになります。では、わたしたちを神のものとして、神にお返しするとはどうすることでしょうか。まず、その反対、すなわち神のものを神に返さないとはどう言うことかを考えてみましょう。それは先週読んだぶどう園のたとえで農夫になぞらえられていた、祭司長、律法学者たちがしていたことだと言われています。そのことについて、ここでも最初に引用した聖書学者シュラッターの文章を引用させていただきます。

「イスラエルは、神がお与えになったものによって、神のためには何も行わず、ただ自分自身のことのみ考えた。イスラエルは、自分たちを守るために神の助けを待った。自分たちの幸福のために神の慈しみを楽しもうとした。自分たちの罪を覆い隠すために神の律法を利用した。神の約束によって、自分自身の誉を現わした。神の恵みから自分自身のために栄誉をこしらえた。」

一度読んでも、すんなりと理解できない文章かも知れませんが、このイスラエルというところを教会と置き換えて読むと、律法学者や祭司長が陥っていた罪とは何かがわかってくるように思います。今のわたしたちも当時のファリサイ派やサドカイ派と同じように、神のものを神に返さない罪に陥っていないか、自分たち自身を顧みるべきではないかと思います。

先ほど読まれた旧約の預言者ミカの言葉に耳を傾けたいと思います。
「何をもって、わたしは主の御前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として、当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか。幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ書6章6〜8節、1456ページ)

自分たちが神からの恵みを受け取るためには、自分の長子さえ犠牲に捧げようという考えに対して、神は鋭い警告をお与えになります。神に喜ばれる捧げものはそのような犠牲ではない。神が求められるのは、ただ、へり下って神の御心を行うことなのです。わたしたちが、自分自身を神のものとして、神にお返しするとは、まず神の御言葉に聞いて、神の御心を知り、何が神に喜ばれることであるかをわきまえることから始まらなければなりません。神は、わたしたちが神に愛されていること、喜ばれていることを知って、そのことを第一の、最大の喜びとして神と共に歩むことをお求めになるのです。

わたしたちは子どもを愛します。わたしたちが子どもを愛するとき、わたしたちは子どもたちから見返りを求めるでしょうか。何の見返りも求めない、無償の愛、それが、わたしたち自身が両親から受けた愛でした。父なる神さまも同じです。神さまは、わたしたちが神さまに何かお返しをするからわたしたちを愛されるのではありません。パウロが言っている通りです。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かった頃、定められた時に、不信心なもののために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない人ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:6〜8)

神さまは主イエス・キリストを通して、わたしたちの罪を赦し、わたしたちを神さまのものとしてくださったのです。わたしたちが身も魂も、生きる時も死ぬ時も、主イエス・キリストによって神さまのものとしていただいていることを慰めとし、喜びとし、感謝すること、それが、わたしたちが自分を神さまにお返しすることなのです。

この先、どう言う時代がやってくるのかわかりませんが、どのような時代が来ようとも、わたしたちが自分たちを神のものとして喜び、感謝するものとされることを願います。神様が、ご自身に栄光と賛美を帰してくださいますように。

「天におられるわたしたちの父よ、御名が聖とされますように、御国が来ますように、御心が天になるように、地にもなりますように」と祈りましょう。

父と子と聖霊の御名によって。