聖日礼拝「そんなことがあってはなりません」
説 教 内田 聡 長老
旧約聖書 イザヤ書 5章 1節~7節
新約聖書 ルカによる福音書 20 章 9〜19節
「ぶどう園と農夫」のたとえは、イエス様が祭司長や律法学者たちとの「権威」をめぐる問答の間に、民衆に向けて語られます。ぶどう園はイスラエルの譬えです。先ほど朗読していただいたイザヤ書5章7節にも、「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。」と書かれています。
9節~10節、「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。」「ぶどう園を作り」とありますから、ある人はイスラエルをも創造した神様です。「農夫たち」とはイスラエルを託された祭司長や律法学者たち、さらにその民衆でしょう。「ぶどう園の収穫」とは神様への賛美でしょうか。イスラエルが神様との契約を守り、御心に沿って歩んでいるものと、神様は僕を送りました。
しかし実情は違います。先ほどのイザヤ書5章7節は、「主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに 見よ、流血(ミスパハ) 正義(ツェダカ)を待っておられたのに 見よ、叫喚(ツェアカ)」と続きます。ぶどう園では正義に基づいた裁きがなされていないのです。「収穫を納めさせるために」、ぶどう園の農夫たちを矯正するのが、送られた僕でしょう。神の霊を受けた預言者のことです。
10節後半、「ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。」 それでも神様は僕を送ります。二人目の僕は侮辱され、三人目の僕は傷を負いました。旧約聖書の中には、エレミヤを始めとした預言者がイスラエルに受け入れられない事例は少なくありません。これは、その譬え話です。
13節、「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』」 ここで旧約聖書には登場しない者が現れます。「わたしの愛する息子」です。息子は僕、即ち預言者ではありません。息子は神の子であるイエス様ご自身です。お気づきですか? ここから、この譬え話はイスラエルの預言となるのです。
14節~15節、「農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。」 農夫たちは息子を拒みます。この譬え話を聞く民衆も、祭司長や律法学者も神の子であるイエス様を拒みました。貸し与えられているだけのぶどう園、イスラエルを「我々のもの」にするためです。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。」 その農夫たちを、持ち主であるぶどう園の主人が裁きます。
16節、「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」 彼らはこれを聞いて「そんなことがあってはなりません」と言った。」 ほかの人たちを異邦人と解釈するなら、この福音書を書いたルカが所属している教会の状況表しているのかもしれません。そもそもルカによる福音書はキリスト教を弁証するために異邦人の高官、テロフィオに捧げられたものでした。この譬え話の後に起こったイエス・キリストの十字架と死と復活、さらに使徒パウロによる異邦人への伝道など、10~16節はイスラエルの運命とキリスト教の成立を預言しています。
「そんなことがあってはなりません」と民衆は叫びます。「ぶどう園と農夫」のたとえは、マタイによる福音書にも、マルコによる福音書にもあるのですが、民衆の主観的な願いを書いたのはルカによる福音書だけです。「そんなことがあってはなりません」 では、「どんなことがあってはならない」のか?この点から、三通りの民衆をイメージしてみます。
一つ目の民衆はナショナリストです。あってはならないのは「ぶどう園をほかの人たちに与える」こと。ぶどう園、即ちイスラエルは、ユダヤ人の父祖アブラハムが神様と契約した土地だからです。創世記15章18節に、こう書かれています。「その日、主はアブラハムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、」 この契約にはアブラハムが二つに裂いて捧げた動物の間を、炉と燃える松明が通り過ぎるという徴が伴いました。神聖なものです。にもかかわらずイスラエルは、様々な異邦人に支配されてきました。それはモーセと神様が交わした契約に忠実でなかったからですが、罰としてユダヤ人は十分に苦しんできました。イスラエルの土地は、ユダヤ人が神様から選ばれた民族である根拠です。その土地を「ほかの人たちに与える」、「そんなことがあってはなりません」」 父から受け継いだ利権を保ち、同じ血筋の者たちを守るべき。このように考える民衆がナショナリストです。国家主義者とか民族主義者などとも呼ばれます。
このように言うと、現代のファシストのように聞こえますが、誇るべき父を持つ成功した家族であれば受け入れ易い考えでしょう。また現在の自分が何者でなくても、同じ国、同じ民族に産まれるだけで、心を高ぶらせることができるのは魅力的なことです。
二つ目の民衆はポピュリストです。あってはならないのは「戻って来て、この農夫たちを殺す」こと。ここまで、ぶどう園の主人を神様として語ってきましたが、神様であれば民衆と共にあるはずです。「長い旅に出た。」という9節の言葉は合点がいきません。むしろ、ぶどう園の主人を言葉どおり受け止め、外国にいる豊かな地主として読むべきかもしれません。小作人である農夫たちの目から見ると、地主である主人はぶどう園の収穫を奪い取る者です。主人は常日頃ぶどう園を顧みることはなく、収穫の時だけ僕を送って、農夫たちの労働の実を奪い取って行きます。わずかばかりの分配を得たとして、それが何でしょう。ぶどう園に気を配り、汗を流して働くのは農夫たちなのです。僕に対する抵抗の結果、遂に息子が送られて来ました。相続権を持つ息子を殺して、主人のいないぶどう園になれば、農夫たちが代わって管理することができます。 「戻って来て、この農夫たちを殺す」、「そんなことがあってはなりません」」 この譬え話を階級闘争とし、この民衆をコミュニストとすることもできます。しかし東西冷戦が終わった今では、ポピュリストの方が合っているように思えます。
ポピュリストは社会のエリートたちを妬む大衆主義者です。現在の自分が何者でなくても、自分の感性を信じて良いのだ。エリートの理屈には、もう騙されない。大衆を主役とする考えは、インターネットで人々がつながり、情報を共有する現代で受け入れ易いものでしょう。
かつてのファシストとコミュニストは激しく対立しましたが、現代のナショナリストとポヒュリストは結合します。今、欧米で起こっている政治的右派の躍進、さらに日本のネトウヨなどは、現代の民衆の姿を示しているのかもしれません。
この民衆たちに、イエス様は問います。(聖書に戻りましょう、) 17節、「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』」
引用されているのは詩編118編22節の御言葉です。ルカと並行するマタイとマルコの福音書では、「これは主のなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』 まで書かれています。それが神様の業であることから、この聖句はイエス・キリストの統治、メシアが世を一つにまとめ安定をもたらす預言として解釈されてきました。
よく分からないのは、それに続くイエス様の言葉です。18節、「その石の上に落ちる者は だれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 この石がイエス・キリストであるとして、石の上に落ちる者が打ち砕かれ、石が落ちた者が押しつぶされるとは、どういう意味でしょう。
私たち改革派の始祖ジャン・カルヴゥンの註解書には、この石、即ちイエス・キリストを、民衆の高慢を計る基準のように捉えているところがありました。石の上に落ちる者とは、イエス様が自分たちより下にいると思う高慢です。石が落ちてくる者とは、イエス様より上にあろうとする高慢です。では、イエス様の基準点とは何か。
イエス様の基準点は、「捨てられたもの」です。17節の「家を建てる者の捨てた石」、「隅の親石」が、イエス様ご自身を意味することは、すでに確認しました。「家を建てる者の捨てた石」、この「捨てた」というギリシャ語は、「吟味して、否認して、捨てた。」という意味があります。譬え話の息子も「ぶどう園の外に放り出して、」即ち捨てられて殺されますが、この時も農夫たちは「互いに論じ合って」事を起こしています。「捨てられたもの」は、捨てる者の共同体に属していません。
「捨てられたもの」それはイエス様が「神の国」を伝える中で関わり、癒された者たちです。ナショナリストであれ、ポピュリストであれ、民衆の目には入っていません。彼らを、罪人として共同体から排除する、即ち捨てますが、無関心であることも含めて罪があるのは誰でしょう。「捨てられたもの」を眺める蔑みと憐みの視線に気づかないのではありません。それでも「憐みたまえ。」と言わねばならない絶望に、イエス様は彼らと同じ立場で希望を与えます。神の子のへりくだりはここまで深いのです。ここを基準点とした時に、高慢でない者はどこにいるでしょう。
この「捨てられたもの」を基準として、イエス様は新しい家を建て「隅の親石」となります。その家が教会であることは言うまでもありません。エフェソの信徒への手紙では、「そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」と書かれています。またペテロ第一の手紙には「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」と勧められています。三つ目の民衆は、この教会から産まれます。この民衆はクリスチャン、わたしたちキリスト者です。クリスチャンは何者でもない自分ではありません。イエス様から呼びかけられた者、イエス様に応えた者です。
わたしたちはイエス・キリストを知っています。譬え話の息子がイエス様だと分かります。
「「息子をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった。」 それが神様の御計画であったとしても、クリスチャンは叫びます。「そんなことがあってはなりません」 そして、これまでの自分を悔い改め、「捨てられたもの」がない「神の国」を生きようと歩き始めるのです。
一つ目の民衆はナショナリスト、二つ目の民衆はポピュリスト、そして三つ目の民衆がクリスチャンです。実のところルカは、この民衆という言葉を意識して使い分けているように思えます。イエス様がエルサレムに入城する前、神の国を伝える対象には、群衆、ギリシャ語でοχλος (オクロス)という言葉が用いられていました。しかし、エルサレムに入城してからは、民衆、ギリシャ語でλαος (ラオス)という言葉が用いられるからです。群衆、οχλος (オクロス)は、「人だかり」という意味が第一義で、興味本位で群がる者どもという語感があります。一方、民衆、λαος (ラオス)は「国民」という意味が第一義で、一定の規律や統制のある組織という語感があります。λαος (ラオス)は「イスラエルの民」や「キリスト者の群れ」として用いられることもあるのです。ルカは、エルザレム入城を境としたイエス様の最後の7日間に、新しい民衆の萌しを見ていたのかもしれません。
事実、「ぶどう園と農夫」のたとえ という記事は、9節の「イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。」から始まり、19節の「イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。」で終わります。ルカと並行するマタイとマルコの福音書に、このような枠組みはありません。
この民衆がクリスチャンと呼ばれるようになるのは、復活したイエス様が召天した後、使徒パウロとバルナバがアンティオキアで伝道してからです。この時のクリスチャンとは「キリストにつく連中」といった、多少の侮蔑を込めたあだ名でした。今は、誇りを込めてクリスチャンと自称します。
しかし、誇るべき父を持つ成功したクリスチャンホームが、ナショナリズム陥る可能性はあります。社会のエリートを妬む不幸なクリスチャンが、民主化運動に共鳴してポピュリズムに陥る可能性もあります。「そんなことがあってはなりません」という叫びは、まずクリスチャンである自分自身に向けねばなりません。それからイエス・キリストに与って、世界に向けて告白するのです。「そんなことがあってはなりません」それは、今、ここに「捨てられたもの」がいるという現実を、改革するためです。
福岡城南教会は、今、試練の中にいます。無牧師教会とは、捨てられた教会のように見えるかもしれません。もしそうであるなら、捨てられた石であるイエス・キリストは近くにおられます。教会の隅の親石であるイエス・キリストを覚えて、わたしたちは果たすべき務めに応えて参りましょう。父と子と聖霊の御名によって。アーメン。
お祈りします。
父なる神様、御子を世に遣わし、十字架と復活によって人と和解し御子の聖霊によって、新しい民が起されていることに感謝します。御子は世に捨てられた者と共にあり、絶望を希望に変えられました。わたしたちも、この希望に堅く立ち、世に遣わされて行きますように。「そんなことがあってはなりません」と、語るべき時に語れますように。この祈りをイエス・キリストの御名によって受け入れたまえ。 アーメン。