聖日礼拝「貧しい人に福音が告げ知らされる」
説 教 澤 正幸 応援教師
旧約聖書 イザヤ書 61章1節
新約聖書 ルカ 20章 1〜8節
1節
主イエスは棕梠の日曜日にエルサレムに入場されて以来、毎日、神殿の境内で民衆を教えておられました。民衆は皆、主イエスの教えに夢中になって聞き入っていたと、19章48節に書かれていますが、民衆が夢中になって耳を傾けて聴いていたのは、福音でした。夢中になって、を他の聖書は熱中してとか、心酔してと訳しますが、原語はぶら下がるようにしてという意味の言葉です。主イエスの口を通して神からの福音、良き知らせ、救いの知らせが告げられるのを、未収は喜んで聴いていたのです。神が貧しいものたちの父となってくださり、涙を流し悲しむものを慰めてくださり、へりくだるものたちの罪を赦してくださるという知らせを民衆は聞きました。これが、このとき、主イエスを通して民衆が聞いた福音でした。
このとき、神殿の境内には、神から遣わされて福音を告げ知らせるその福音に耳を傾ける民衆がいましたが、それ以外の第三者がいました。祭司長、律法学者、長老たちです。彼らは民衆に神の言葉を語り教えておられた主イエスのところに近づいてきて、こう言います。
2節
というのは、普段、神殿の礼拝で神の言葉を教えていたのは、この人たち、祭司長、律法学者、長老たちでした。その自分たち以外のものである主イエスが、自分たちに代わって教えるのを、黙って見過ごす訳には行かない、自分たちは主イエスに神殿で説教することを許可した覚えはない、それで、彼らは主イエスに向かって、いったい、あなたはだれの許可を得てここで教えているのかと問うたのです。
マタイによる福音書に山上の説教が記されていますが、その最後はこう締め括られています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお語りになったからである」。主イエスの教えが律法学者たちの教えと違っていたので、群衆は非常に驚いたというのです。その違いは、主イエスが権威あるものとして教えられたからでした。権威あるものとして教えるとはどういうことでしょうか。
英語では権威をオーソリティと言いますが、その語源はオーサー、著者、あるいは本人、張本人という言葉です。つまり、主イエスの教えの権威は、主イエスが神の言葉を語られるとき、本人である神ご自身が主イエスを通して語られたことにあったのです。ルカによる福音書の10章16節にこう書かれています。「私を拒むものは、私を遣わされた方、すなわち、主イエスの父なる神を拒むのである。」主イエスの語る言葉に権威があったのは、その言葉が主イエスを通して語っておられる神ご自身の言葉だったからです。
主イエスは、彼らからの問いかけに対して、直接、お答えにはなりません。答えを与える代わりに、彼らの質問に、質問をもって答えられます。
3、4節
すると彼らは自分たちの間で、互いに議論をし始めます。
5、6節
その結果、彼らは主イエスにこう答えます。
7節
すると主イエスも答えられます。
8節
主イエスと祭司長、律法学者、長老たちの間で、権威についてのこの問答が交わされた場所は、神殿でした。そこは祈りの家、礼拝の場でした。礼拝の場に現臨なさるのはどなたでしょうか。生ける神ご自身です。神が御言葉と聖霊を通して礼拝に現臨なさるのです。民衆は主イエスを通して語られる神からの語りかけを聞くことによって、神さまを礼拝していました。しかし、祭司長、律法学者、長老たちは、そこで主イエスを通して語られている神の福音を聞いていなかったのでした。
主イエスが、彼らの問いかけに対して、問いをもって答えられたのは、彼らがまず、第一にすべきことは神の言葉に聞くことであることに気づかせようとなさったからだと思います。
彼らは、洗礼者ヨハネを通して神さまが自分たちに語りかけておられたのに、それに正面から向き合おうとしていませんでした。彼らはそのことを神様の前で正直に認めるべきでした。彼らは、正直に神に向かい合おうとはしないで、もっぱら自らの保身を図ることに終始しています。
さらに、主イエスが彼らに問うておられることがもう一つあると思います。それは、彼ら自身、自分たちには、神から神殿の礼拝を司る権威を授かっていると考えているなら、その権威についても、神の前でもう一度問わなければならないということです。主イエスに向かって、神はあなたに神殿で説教することを許可したのかと問う前に、神から自分たちに委ねられている権威について、神の前で自分自身を問うべきだということです。
彼らは主イエスに神殿で説教することを許すか、禁止するか、それは自分たちに委ねられた権威をもって、決めることができると思っていました。しかし、神さまは本当に祭司長、律法学者、長老たちに、主イエスの説教を禁止しなければならないと言われたのでしょうか。祭司長、律法学者、長老たちの権威は自分たちのものではなく、神からのものです。神から権威を授かっていると主張しながらも、自分たち自身おそれを持って生ける神に聞き従うことをしなかった祭司長、律法学者、長老たちは、自分たちに委ねられている権威を濫用することにより、自らに裁きを招かざるを得ませんでした。やがて、紀元70年に、エルサレム神殿がローマ軍によって壊滅させられる日が訪れようとしていましたが、その日を待たなくても、もうこのときすでに、生ける神に聞き従がおうとしなかったエルサレム神殿の指導者たちの権威は畑に立つカカシのような無内容、かつ空虚で実体のない権威でしかなく、神の前で崩壊していたというほかありませんでした。
わたしたちは、今日の御言葉から、わたしたちが聞くべき大事なこととして二つのことを聞き取りたいと思います。
今日の御言葉から、わたしたちが聞くべき第一のこと、それは、わたしたちは自分がだれなのかを弁えることです。
すべての権威の源は神さまです。その神さまの前で、王の王、主の主のみ前で私たちは小さな、貧しいものたちです。そのような私たちの間で、権威とは何かを問うということは難しいことではないと思います。それはとても単純なこと、易しいことだと言えます。それは、その権威が本当に神様から来ているかどうかを知ることにかかっています。
主イエスは言われました。ルカによる福音書9章48節「私の名のためにこの子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れるものは、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。あなた方の中で最も小さいものこそ、最も偉いものである。」
最も小さい者が最も偉いのは、最も小さい者こそ、小さい者を受け入れてくださる神様の偉大さ、神様の栄光を表すからだと思います。神さまは小さい者に、何者をも恐れない、勇気と自由を与えてくださいます。それこそが神さまが与えてくださる権威、神様からの権威です。
今日の御言葉から、わたしたちが聞くべき第二のこと、それは、主イエスがエルサレム神殿において権威を持っていた祭司長、律法学者、長老たちに対してなさったことです。主イエスは、彼らに対してその権威を問い返されました。わたしたちも主イエスに倣ってこの世において神から権威を委ねられているものたちに対して、神の前で彼らの権威を問いかえすべきだということです。
国家という政治的権威であれ、教会における霊的指導者である、牧師、長老に委ねられている権威であれ、わたしたちはそれに盲従してはならないということです。彼らに対して、その権威が神からのものであるかどうかを繰り返し問うべきだということです。
先の戦争で、とりわけ日本で唯一地上戦を経験した沖縄の民衆が学んだ歴史的教訓の一つは、日本の軍隊が民衆の命を守らなかったということでした。国民が軍隊を支持し、昔であれば徴兵制度によって、軍隊に行って戦争に従事するのは、軍隊がいざというときに国民の生命、財産、平和を守ってくれると信じていたからでした。しかし、実際には軍隊は民衆を守ってはくれなかったのでした。そういう軍隊、そういう国家に人々に服従を要求する権威があるでしょうか。
すべての権威は神からきます。それゆえ、信仰者であるわたしたちがすべきことは、権威を委ねられている国家が、そこで奉仕している公務員、裁判官たちが、その良心において神を畏れているかどうかを問うということです。彼らが、公僕としての自覚を持っているかどうか、神から委ねられた職務に忠実にひたすら人々に奉仕しようとしているのか、彼らが自らの胸に手を当てることを求めることだと思います。わたしたちはおよそ神から権威を委ねられている者に対しては、彼らが神に服従する限りにおいて服従すべきであり、彼らが神に服従していない場合は、彼らの権威に服従すべきではありません。
そのことは、国家に先立って、わたしたち主イエスの教会の中からまず始めるべきことです。牧師、長老、またその会議である、小会、中会、大会についてその権威を、目を覚まして神様の前で問いましょう。主イエスの父なる神は、今も礼拝の主であられます。礼拝が、教会を指導する立場に召されている人も、そうではない人も、そうです、すべての信仰者が、主イエスの口を通して語られる神の救いについての良き知らせである福音に夢中になって聞き従う場となりますように。
貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである。今飢えている人々は、幸いである。あなた方は満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなた方は笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、罵られ、汚名を着せられるとき、あなた方は幸いである。その日には喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。
父と子と聖霊の御名によって