聖日礼拝「宮を清める王なるイエス」
説 教 伊藤健一 長老
旧約聖書 マラキ書 3章 1~3節
新約聖書 ルカによる福音書 19章 45〜48節
ルカによる福音書19章の28節以降、主イエスがエルサレム入城を果たされた棕櫚の聖日のできごとの記事が続いています。ここまでの展開を思い出してみましょう。主イエスはまず、二人の弟子を先に派遣して子ロバを用意させ、それに乗ってエルサレムへ入城されます。この出来事は、ゼカリヤ書に記された、メシア到来の待望の記事と符合します。9章9節には「高ぶることなく、ろばに乗ってくる、雌ロバの子であるろばに乗って」と書かれています。14章4節には、「その日、主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる」とあり、14章9節には「主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の王となられ、その御名は唯一の御名となる」と記されています。主イエスのエルサレム入城の場面は、この記述通りのことでした。イエスは、このようにして御自身がメシアであることを明確に主張されています。これに群衆は大いに歓喜したわけです。ここで弟子たちは、その讃美の中ではっきりと、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と声高らかに歌い、はっきりとメシア、イエスを王と呼んで讃美しています。
しかし、主イエスを王と呼んで讃美している弟子たちとは対照的に、エルサレムに近づいた主イエスは涙を流し、エルサレムの崩壊を予言されます。歴史的には紀元70年、ユダヤ戦争において、ユダヤ人たちはローマ帝国軍に敗北し、エルサレム神殿は崩壊し、ユダヤ民族はちりぢりに離散する結果となります。ルカはこのことを頭にとどめつつ、この記事を記しています。弟子たちや群衆は、王としてイスラエルを回復し支配してくださるメシアを待望し、その栄光の姿が見られるとの希望に燃えていたことは、容易に想像できます。しかし彼らは、主イエスを通して与えられる神との平和、神との真の和解に目を向けることができませんでした。もしそれができていたら、歴史は違ったものになったかも知れません。主イエスはイスラエルを政治的に復興させる王ではなく、自らを通して世界を神と和解させてくださる王なのです。私たちが信じ告白する神の一人子イエス・キリストは、世界の救い主、平和の王である方なのです。そのことを、主イエスは、エルサレムに入場されたその日に、行動によってお示しになります。それが、本日与えられている聖書箇所に記されている出来事、すなわち宮清めのできごとなのです。ルカは、主イエスのエルサレム入場の日のできごとを、この記事で締めくくっています。
45節、46節の御言葉をお読みします。
45それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、46彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。
この記事を見ると、日本の神社におけるお祭りを連想する方もいらっしゃるかも知れません。いろいろな大祭と呼ばれるお祭りや、あるいは初詣などで神社を訪れる人たちのために、出店が参道に数多く並んでいる光景はお馴染みです。本殿に参拝をした後は、こうした出店でいろいろなものを買って食べるのが楽しみ、という人たちは多いでしょうし、中には、参拝などせず、ただ縁日の出店のように、賑やかな参道に沿って歩いて出店からいろいろなものを買って歩いたら、後はそのまま帰るという人も多いかも知れません。主イエスの叱責は、このようにお祭りの時に神社を参拝している日本人の姿にもあてはまるような言葉のようにも聞こえます。
しかし、この記事において、神殿の中で主イエスの怒りを買っている「商売をしていた人々」という人たちは、守銭奴とも言えるほど冨に執着した人たちで、神殿に礼拝のために来た人々をかもにする悪徳商人であったことは確かです。日本の神社の参道で、生活のために出店を営業している人たちとはまったく異なる人たちと言って良いと思います。だから主イエスは、この場面で、暴力的なやり方で彼らを排除しようとされたのです。神殿の中で商売をしていた人たちの悪徳ぶりについては、後ほどその背景も含めて、再度確認したいと思います。
ところで、皆さんにはこういう経験はありませんか。聖書通読をしようと思い立って始めて、旧約聖書の最初から読み始めると、創世記は順調に読み進めることができます。特にヨセフ物語などは途中で止めることができなくなるほど引き込まれていきます。そんな感じで、出エジプト記の前半くらいまでは順調なのですが、後半に入って幕屋の材料やその組み立て方がこと細かく説明されるところに入ると読み進めることが苦痛になり、次のレビ記に入って献げ物の動物や穀物に関する細かな規定が記されているところに来ると、もはや何がいわれているのかわからなくなり、それ以上読み続ける気力が無くなってしまう。何のためにこうしたことが記されているのか、目的や意義が理解しにくくなっていく。そこを乗り越えていくと、また話の展開が早い部分にさしかかるので、続けていくことができますが、こうしたことは、私たち皆が共通に持っている体験かも知れません。
もちろん、聖書は無意味にこれらの記述を行なっているわけではないのです。そこには重要な意義があります。礼拝の場である幕屋はどのようであり、どの様な材料でどのように組み立てるべきなのか、そしてそこで行なわれる儀式においてはどの様なものをどのように献げれば良いのか。言い換えれば、礼拝の場とはどのようなものでなければならないのか、そして礼拝ではどのようなことをすればよいのか、それらはイスラエルの民が生きていくために最も大切なことです。だからこそ、聖書はその情報を余すことなく事細かに記述しているのです。それは後の世代に伝えていく上でもとても重要な情報であるのは言うまでもありません。
レビ記に入った途端、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、和解の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物、等々、献げ物に関する事細かな規程が出てきます。どんな動物を献げなければならないのか、何歳の動物か、雄か雌か、等々の細かな決まりが記されています。それぞれに意味や目的があるのですが、共通して大切なことは、その献げ物は、傷のない物でなければならないということです。神さまに献げる物ですから、傷ものを献げてはならないのです。マラキ書に書かれているように、目のつぶれた動物、足が傷ついた動物、病気である動物などを献げることは厳に戒めなければならない行為なのです。
そうすると、神殿の近くに住んでいる人たちは、自分で献げ物となる動物や穀物を用意して持ち込むことができるでしょうが、エルサレムの外、神殿から遠い人にとっては、そうしたものを自ら用意して、遠路はるばるエルサレムを目指すというのは、非常に大きな負担となります。長距離を移動する際に、動物が傷を負うかも知れません。そうなると、たいへんな思いをして持ち込んだ献げ物用の動物が、傷物として献げられなくなってしまう可能性があります。そうした危険を避けようと思えば、エルサレム神殿の近くで献げ物用の動物などを購入する方が賢明です。ですが、ここに落とし穴がありました。
献げ物用の動物は、神殿の外では適正な価格で購入することができました。しかし、神殿の中には献げ物用の動物の検査官がいました。先ほど述べましたように、検査官は、献げ物が傷のない物でなければならないため、傷の有無を検査するためにいたのです。しかしこの検査官が本当に校正にその職務を行なったのなら良いのですが、持ち込んだ動物や、神殿の外で購入した動物が不適当であると恣意的に判定するなら、それは合法的な詐欺行為、ぼったくり行為であると言わなければなりません。すなわち、結局のところ神殿の中で購入した動物以外はすべて不適当とされるのであれば、神殿内で買う以外の選択肢はないことになったのです。そして神殿の中では法外に高額な値段で販売されていました。時には市価の10倍以上の値段で売買されることもあったようです。また、ルカは記していませんが、マタイやマルコによると、主イエスは両替人の机もひっくり返したと書かれています。当時、神殿税はエルサレムで過越祭のときに納めるのが普通になっていたようですが、これは神殿のシケルか、ガリラヤのシケルで納めなければならなかったので、それ以外の通貨を使っていた人々は両替をしなければなりませんでした。神殿で両替をしてもらうときに何が起こるか、言うまでもありません。こうなると礼拝に集まる人々にとって、礼拝それ自身が大きな負担となります。これでは神さまへの礼拝を喜びと感謝を持って行なうことなどできなくなってしまいます。宗教指導者である大祭司の一族が、礼拝のために神殿に向かう礼拝者を徹底的に苦しめる構造を造り上げ、このようにして金儲けをしていたのです。礼拝が行なわれる場所、「祈りの家」でなければならない場所が、このような不正が横行する場所になっていたのですから、主イエスが激怒されたのも当然です。主イエスはここで暴力的な方法によって、この世の冨の奴隷となっていた人を解放されたのでした。
先ほど読んでいただいたマラキ書3章1節にはこう記されています。「あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる」。ここに記されている「主」と「契約の使者」は同じ人物、すなわちイエス・キリストを指しています。救い主イエス・キリストに関するこの預言は、罪の赦しと救い、そして裁きについて述べています。2節には、「彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。」とあり、3節では、金や銀を精錬してその純度を高めるように、また漂白するために灰汁を用いて汚れをきれいにするように、レビの子、すなわちイスラエルを清めると記されています。ここで言われている精錬や灰汁による漂白は、私たち自身の努力によってはできません。神さまが遣わしてくださる使者、すなわちメシアである主イエスに信頼する以外に方法はないのです。この務めを担ってくださるのがメシアなのです。
当然主イエスはこのことを熟知されていたことでしょう。主イエスは神さまが自分に託しておられていることが何かを十分に把握しておられましたから、この大切な役目を果たす上で障害となるものを、暴力的とも映るやり方で排除しなければならなかったのです。主イエスは、宮清めの行為をなさるにあたり、神殿で行なわれなければならない献げ物に関する規程や、礼拝における律法の定めについて何ら批判をされていないのは、その意味で当然のことです。主イエスが示されたことは、「わたしの家は、全ての民の祈りの家と呼ばれる」というイザヤ書56章7節の御言葉を全ての民に再度徹底させたということでした。私たちにとっても、教会は祈りの家です。ですが、そこに大祭司たちが陥ってしまった誘惑があることには、常に留意しなければならないことを思わされます。
ルカによる福音書19章47、48節の御言葉をお読みします。
47毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、48どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
神殿の中で、その粛正のために主イエスは激しい行為をなさいました。敵を作る行為です。主イエスを殺そうと考える人が起こってもおかしくない状況を、主御自身が起こされたということです。しかし同時に、主イエスは、このような中で自分の身の安全を図ろうとするのでなく、危険の中でも臆することなく境内の中で教え続けておられました。この主イエスの行動は、平和の王に相応しい行動です。私たちは、かつて戦時中に礼拝の中で宮城遙拝を行ない、主の御言葉を正しく説教していくことができなかった歴史を持っています。ここでの主の御業から学ぶべきことは多いと思います。
最後に、もう一度、本日の聖書箇所全体について黙想してみましょう。現代に生きる私たちは、過越祭をその本来の方法でまもることはありません。また、神殿を訪れて動物を献げるということもありません。しかし私たちが父なる神と呼んでいる方は、この礼拝の守り方を定められた方です。なぜその義務を現代の私たちは果たしていないのか。それは、主イエス・キリストが真の贖罪の献げ物として十字架について下さり、死んで陰府まで下り、そして復活してくださった、この出来事のゆえです。この一度限りの業によって、それまで幾度もくり返さなければならなかった犠牲を献げる行為を続ける必要は無くなり、神さまと私たちの関係が正しいものとされたのでした。先週の復活節は、そのことを覚える大切な日でした。私たちは先週、礼拝および礼拝後の愛餐会において、主の御復活を祝い、感謝を献げました。私たちがイエス・キリストの福音を聞いて悔い改めるとき、私たちは神さまの前に義と認められ、罪を赦され救われます。これこそが、主イエス・キリストが人となってこの世に来てくださり、十字架の贖いの御業によって成し遂げてくださった恵みの御業です。この方につながることによって初めて、私たちは精錬され、灰汁によって漂白されたものとなることができるのです。その恵みにあずかった私たちは、罪人を清め、永遠の祝福を与えられた恵みの神さまをほめたたえ、栄光を主に帰していく者となることができたのです。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン。
私たちの救い主イエス・キリストの父なる神さま
あなたは取るに足りない、無価値な私たちを滅びるがままにしておかず、逆に私たちのために愛する御子を差し出し、あまつさえ十字架にかけて死に渡し、そのことを信ずる信仰によって私たちを新たに造りかえ、義と認め、御自身と和解させ、平和を与えてくださいました。あなたは最後まで諦めずに私たちを建て直してくださる愛の神です。そのことを私たちは、私たちの心に注がれている聖霊を通して証ししていただいています。この世にあって、時に神さまの姿を見失い、独りよがりな考え方にとらわれることがありますが、御言葉によって常に新しくされ、十字架の主を見上げつつ、感謝と喜びに溢れた歩みを続ける者とされますよう、お導きください。主にある真の平和をこの世界にもたらしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン