聖日礼拝「自分の語った言葉で裁かれる」
説 教 澤 正幸 応援教師
旧約聖書 詩編18編 26〜27節
新約聖書 ルカ19章 11〜27節
11〜13節
今日わたしたちが読む「ムナ」のたとえとほぼ同じ喩えが、マタイによる福音書の25章に出て参ります。そこでは僕達が主人から預かるのは「タラント」と言われていることから「タラント」の喩えと呼ばれ、そちらの方がよく知られていて馴染み深いかもしれません。
ルカによる福音書では、このたとえは、主イエスが『エルサレムに近づいておられ』るときに、エルサレム入城を目前にして、主イエスがお語りになった喩えであると言われています。
4月に入って、わたしたちはレントの最後の日々を送っています。来週の日曜日は棕梠の日曜日です。主イエスがエルサレムに入城なさったことを覚えるその聖日から、主イエスの十字架の死を覚える受難週が始まります。
わたしたちは今日、エルサレムに近づかれる主イエスが、なぜ、この「ムナ」のたとえをお語りになられたのかを、聖書の御言葉から聞いてゆきたいと思います。
また、わたしたちの教会は4月から無牧師になりました。この教会に新しい牧師が遣わされる日まで、祈りつつ待つ日々に入ったということです。この「ムナ」のたとえは、王の位を受けて、王として即位して戻ってくるまでの間、王が不在の期間を僕達が過ごす話です。わたしたちの教会も、それと似たような日々を過ごそうとしています。この「ムナ」のたとえの焦点は、僕達が、王の戻ってくるまで、どう過ごして、即位した王を迎えるかにあります。わたしたちは、これから迎える無牧師の期間、一人一人がどのように過ごして、新しい牧師を迎えるのかを、今日の御言葉を通して主から聴きたいと思います。
14節
主イエスがエルサレムに入って行かれたとき、エルサレムで主イエスを何が待っていたでしょうか。
それはお天気に例えれば、突き抜けるような青空、太陽が燦々と降り注ぐような晴天と、ひどい土砂降り、雷鳴が轟くような悪天候、その両方が待っていたと言えるのではないか、光と闇、歓迎と敵対、その両方がエルサレムで主イエスを待ち受けていたということです。日曜日には群衆のホサナ、ホサナという主イエスを迎えた歓呼の叫びは、週の終わりの金曜日には、十字架につけよ、十字架につけよとの怒号に変わりました。主イエスは、弟子たちにこれまで三度ご自身の受難を予告しておられましたが、予告された通り、エルサレムの宗教的指導者達、長老、祭司長、律法学者たちによって、捨てられ、殺されました。
「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせた。ローマ総督ピラトが、ユダヤ人たちに「見よ、あなたたちの王だ」と言ったとき、祭司長たちは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えたのでした。
15〜17節
主人と呼ばれている王は10人の僕に1ムナずつ渡しました。1ムナというのは100日分の賃金だそうです。ちなみに1タラントはその60倍の6000日分の賃金です。タラントとムナでは桁が違います。またタラントのたとえでは僕が預かる額に、5タラント、2タラント、1タラントと差があり、5タラントに至っては今日で言えば億単位という巨額になりますが、ムナのたとえでは僕が受け取ったのは一律で、そう大きな額とは言えません。
いずれにせよ、それを元手に商売をするように言われます。商売がうまくいって儲けることもあれば、商売に失敗して元手を失うかもしれないし、最悪の場合は借金まで作るかもしれません。
僕が主人から渡されるお金、これは一体何のことでしょうか。それは、主イエスが遠い国へ旅立つにあたって、弟子たちに託されたものをたとえておられると言えるでしょう。
では、弟子たちが主イエスからいただいている恵、託されているものとは何でしょうか。
いろいろと考えることができるように思います。神の言葉としての救いのおとずれである福音。あるいは信仰、愛、永遠の命。
それでは、それらを用いて商売をするというのは、具体的に弟子たちが何をすることでしょうか。
神の言葉、福音なら、託された御言葉を人々にのべ伝えること、伝道して多くの人々にそれを伝えることになるでしょう。
最初の僕は預かったお金が10倍になりました。そのとき、主人から「お前はごく小さな事に忠実だった」と言われています。先ほど申しましたように、マタイによる福音書のタラントに比べて、ムナはそれほど大きなお金とは思われません。主イエスは弟子たちに託しておられるものはごく小さいと言われるのです。その小さいことに忠実であった僕に主が与えてくれる報いはなんでしょうか。それは主の僕としてさらに新しい務めをいただくことでした。
18、19節
ここで一つ注目させられたのは18節です。原文を直訳すると「あなたの1ムナが5ムナを作った」と書かれているのです。僕の才覚や能力が利益をもたらしたとは一言も書かれていないということです。
20〜23節
この僕は主人から預かったお金をそのまま主人に返します。この僕はそもそもこんなお金は預かりたくなかった、これをお返ししますから、もうこれであなたとの関係は終わりにさせてください、預かっていたものを返してほっとしています、それがこの僕の正直な思い、本音なのでしょう。この僕は主人が怖いのです。恐ろしいのです。
この人が主人に対して言っている言葉は果たして正しいのでしょうか。この主人は本当に厳しくて、恐ろしい人なのでしょうか。預けた1ムナで商売して、失敗して元手を失ったら、利子をつけてそれを返せと迫ったでしょうか。
実は、この主人は気前がよく、寛大で、憐みに富む人で、失敗しても責任を追及したりしない人だとしたら、この僕は主人をひどく誤解している事にならないでしょうか。
このたとえの主人が主イエスであるなら、僕は主人を全く誤解しているとしか言いようがありません。主イエスは憐れみ深く恵みに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦すお方だからです。
しかし、ここで、主人はこの僕のひどい誤解をとこうとはしません。そして、こう言われるのです。「悪い僕だ、その言葉のゆえにお前を裁こう」。主人は僕に「あなたがわたしについて語っている、その言葉通りにあなたを裁く」と言ったのです。
先週の説教で、主イエスが、癩病を癒されたサマリア人に「立って行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と言われたのを聞きました。主イエスはその「あなたの信仰があなたを救った」という同じ言葉をエリコの盲人にも徴税人のザアカイにも言われました。この人たちは、主イエスが自分たちを救うことがおできになると信じました。主イエスは、この人たちに対して、そうだ、あなた方がそう信じている、そのあなたがたの信仰の通りにあなたがたの身になりますように、と言われたのだと思います。
ムナは何か。先ほどは神の言葉、福音ではないかと申しました。ここでは信仰というムナのことを考えたいと思います。
三番目の僕は信仰というムナを使わなかったのだと思います。神さまは主イエスによって必ずわたしを救ってくださる、助けてくださると信じるのが信仰というムナを使うことです、反対に、どうせ無理でしょう、主イエスにわたしを救うことなどできっこないと、信じないこと、それがムナを使わないということです。
そして、主イエスには救うことはできない、神様を信じたって無駄だ、何も期待できないと僕が言うとき、主はあなたの言葉の通り、あなたを裁くと言われるのです。それは神さまの正しさです。
この信仰というムナ、それはもともと主イエスがお持ちになるものです。主イエスの信仰、それは、十字架において一番深く、はっきりと示されています。父なる神が主イエスを死から救うことがおできになるという信仰です。それは幼子の信仰とも呼べる信頼です。
その信仰が弟子たちに、わたしたちに託されています。
24〜26節
ムナは何か。主イエスが弟子たちに託されるもの、弟子たちが主イエスからいただく恵みの賜物とは何か。先ほどは、福音や信仰というムナについて考えましたが、最後に主イエスから受ける愛のこと、命のことを考えたいと思います。
先に17章の33節を読んだとき、そこに「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」と言う主イエスのお言葉を聞きました。
自分の命というムナにこの言葉を当てはめて考えてみたいと思います。あるいは、主イエスがご自分を命のパンであると言われたことをも重ね合わせてみたいと思います。
神から与えられている命というムナを自分のためだけに使って、人に裂き与えることをしないなら、ちょうど一粒の麦が地に落ちて死なないなら一粒のままであると言われたようになるでしょう。しかし、自分という命のパンを、隣人を生かすために裂き与えるなら、一粒の麦が地に落ちて多くの実を結ぶと言われたようになるでしょう。荒れ野で5千人の人を養ったのは、弟子たちの捧げたたった5つのパンでした。
命というムナも、信仰がそうだったように、まずわたしたちのために十字架で肉を裂かれた主イエスがすべての人を養う命のパンです。わたしたちは、主イエスがわたしたちを命のパンとして養ってくださるように、自分の命というムナを使って多くの人を生かすのです。
わたしたちの教会に神様がやがて牧師を遣わしてくださる日が来るでしょう。その牧師は、福音のために、主の教会のために自分を捨てて、わたしたちを愛するために、そうです、自分に託されたムナを捧げてここに来ようとされるでしょう。
そのとき、わたしたちの教会は、また、一人一人は、自分たちに託されているムナを喜んで用いたいと願っている主のしもべとして、その牧師を迎えたいと思います。
13節
「わたしが帰って来るまで、これで商売しなさい」は原文では不思議な文章になっています。ある聖書の翻訳は「わたしの留守中」となっていましたが、原文ではそれとは正反対のことが言われていたからです。「わたしがいない間」ではなくて、「わたしが来たりつつある間」となっています。先ほど、「あなたの1ムナが5ムナを作った」という箇所を指摘しましたが、わたしたちの間で福音宣教が前進し、信仰が生まれ、愛が生まれるのは、人間のわざによるのではなくて、主が生きて働いておられるからなのです。
わたしたちが生かされるのは、主イエスがわたしたちを生かしてくださるからです。主イエスが生きて、聖霊によって、わたしたちの間に来たりつつあるからです。
わたしたちの間に来てくださる主イエスを信じて、いな、その主イエスが父なる神をまっすぐに、ひたすら信じたように、わたしたちも神さまを信じて、神さまをほめたたえて生きてゆきましょう。
父と子と聖霊の御名によって。