聖日礼拝「真の王であるイエス・キリスト」
説  教 内田 聡 長老
旧約聖書 ゼカリア書 9章 9節~10節
新約聖書 ルカによる福音書 19章 28〜36節

イースターの一週前、今日は棕櫚の主日と言われます。イエス・キリストがエルサレムに入城したことを記念するもので、ヨハネによる福音書の12章12節~13節には「大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。」と書かれています。棕櫚の主日の棕櫚とは、この「なつめやし」のことです。

そして棕櫚の主日から受難週が始まります。弟子たちの足を洗い、最後の晩餐を共にした木曜日、十字架に掛けられて死んだ金曜日、陰府に降った土曜日、イエス様の最後の三日間を覚える一週間です。その週の始まりが群衆の歓喜に包まれていることに違和感はありませんか?

本日、共に聞く御言葉はイエス・キリストがエルサレムに入城する直前の出来事です。

28節「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。

ニサンの月の14日、ちょうど今頃のことですが、神殿があるエルサレムで、過越の祭りを祝うことはユダヤ人の義務でした。しかし「先に立って進み」とあるように、エルサレムの入城にはイエス様の強い決意か読み取れます。少し前の18章31節には「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」とあって、受難と死と復活が予告されています。弟子たちには理解できませんでしたが、神の秘められた計画を 御心に従順なイエス様はご存知だったのでしょう。

29節~30節「そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。 「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。

神の都エルサレムの神殿や街並みを見渡せる山のふもとに近づいた時、イエス様は象徴的な行為を望まれます。ろばの子に乗ってエルサレムに入城することです。それは先ほど朗読していただいたゼカリア書、9章9節の預言が実現することでした。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」と書かれています。では、「王であるイエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入城する。」 そのことはわたしたちにとって、どんな意味があるのでしょう。

故郷のガリラヤから神の都エルサレムに至る中で、イエス様は言葉と業で「神の国」を示し、弟子たちは大きな群れになっていました。ろばには乗らず、過越の祭りの巡礼者としてエルサレムに入城したなら、騒動は起こらず、受難は避けられたかもしれません。たとえ洗礼者ヨハネのように斬首されても、預言者として、義の教師として、イエス様は弟子たちの記憶に残ったでしょう。但し、そのようなイエス様、歴史上のナザレのイエスは人が選択する倫理、生き方の模範に過ぎません。ナザレのイエスを受け入れない人にとっては「他人事」です。

イエス様は子ろばに乗ってエルサレムに入城することを望まれました。それは自らが王であることを示す黙示的な行動です。黙示とは覆いを外すこと、イエス様はご自身が「神の国」の王であることを顕かに示されるのです。この王が統治する国民は全ての人です。王と国民には人格的な関係がありますが、王は国民が自分で選択する対象ではありません。王は人が選択する倫理を導く真理です。イエス・キリストは真理の王、真の王なのです。真の王、「神の国」の王であるイエス様が、神の都エルサレムに入城する時、その国民は傍観者にはなれません。イエス・キリストの出来事は、全ての人にとって「わたくし事」になるのです。

では真の王は何をなさろうとするのでしょう? 先週の説教で聞いた「ムナ」のたとえは、それを暗示しています。説教の冒頭で読んだ28節の「このように話してから」は「ムナ」のたとえを受けています。マタイによる福音書の「タラントン」のたとえと違って、ルカは「ムナ」のたとえをイエス様のエルサレム入城の前に置きました。更にたとえを話す理由として、「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたから」 を付け加えます。内容も王と家来と国民の話になっています。これは「神の国」のたとえですが、ルカには群衆の誤解を示す意図があったと思います。群衆が期待していた「神の国」は、ローマ帝国からの解放と、「ユダヤ人の王」による統治でした。 この「ユダヤ人の王」をメシアとして待ち望んでいたのです。 真の王ではありません。

「ムナ」のたとえの登場人物は、王の位を受ける主人、僕と呼ばれる家来、そして国民です。この国民はマタイによる福音書にありません。彼らは主人を憎み、「我々はこの人を王にいただきたくない。」と言います。位を受けて帰ってきた王は、家来に応答を求め、働きに応じて報います。王に背いた国民は敵と看做され、王の前で打ち殺されます。

お気づきでしょうか。 この「ムナ」のたとえは、真の王による裁きとしても読めるのです。

今日から受難週が始まります。イエス様の受難、木曜日から土曜日を覚え、悔い改め、身を慎んで過ごします。では受難の前、今日から水曜日まで、イエス様は何をなさったのでしょう。それは真の王による裁きであったと思います。エルサレム神殿の宮清めから、支配者たちとの問答、世の終わりの予告など、イエス様は「権威」をもって語られました。

それが「裁き」となるのです。

エルサレムに入城するイエス様の乗り物は、「だれも乗ったことのない子ろば」です。子ろばは戦争の道具にはなりません。ゼカリア書9章10節の預言をお聞きください。「わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ 大河から地の果てまでに及ぶ。」 9節の「雌ろばの子」に乗って来る王は、「諸国の民に平和」を告げるのです。真の王は平和の君です。その到来の時には、神ご自身が、戦車と軍馬と戦いの弓を絶ちます。地上の王が、神の裁きを代行するのではありません。今、ガザで起きている虐殺は正当化されません。地上の王の「権力」ではなく、真の王の「権威」が、神の裁きとして全ての人を裁く。イエス様はこの預言を実現されます。

では「権力」によらない「権威」による裁きとは如何なるものでしょうか。エルサレム入城から十字架の死に至るまで、ペテロが切り落とした敵の耳を癒される以外、イエス様は神の力ある業・奇跡をなさいませんでした。真の王の「権力」を封じられたのです。その「権力」を持たない全ての人と等しくなられたのです。しかし、ユダヤ人の最高法院でも、領主ヘロデの前でも、総督ピラトの前でも、イエス様には「権威」がありました。誰一人もイエス様に罪を見つけることができません。これが真の王の「権威」による裁きです。

この裁きに耐えられない支配者たちは、「ユダヤ人の王」を口実としイエス様を殺そうとします。異邦人に裁かれる「ユダヤ人の王」に失望した群衆は、イエス様を「十字架に付けろ、十字架につけろ」と叫び続けます。人の目にはイエス様が裁かれているように映るかもしれません。しかし神の目に裁かれるべきなのは全ての人です。

イエス・キリストは全ての人を裁く王であるのに、全ての人に代わって裁かれ、全ての人を救う王でした。イエス様の十字架に掲げられた罪状書き「ユダヤ人の王」は、全ての人の思い違いを表しています。イエス様は真の王、イエス・キリストです。

本日の聖書箇所に戻りましょう。今、まさに真の王であるイエス・キリストがエルサレムへ入城されようとしています。そのために遣わされた二人の弟子たちは、簡単にろばの子を確保しました。イエス様が言った通りです。誰も乗ったことのない子ろばが都合よく見つかり、「主がお入り用なのです。」と言うだけで子ろばが差し出されました。

この事態を皆さんはどのように考えますか。イエス様の噂を聞いた子ろばの持ち主が喜んで捧げたのでしょうか。持ち主は複数です。一頭の子ろばを共同で所有するほど貧しいのでしょう。貧しい人々に寄り添うイエス様に、「ユダヤ人の王」を期待していたのでしょうか。そうかもしれませんが、そうではありません。

この出来事は神の力ある業・奇跡であったと思います。イエス様が語っていた「人の子について預言者が書いたことはみな実現する。」ため、子ろばは神によって備えられていたのです。「天が地を高く超えているように わたしの思いは あなたたちの思いを 高く越えている。」 旧約聖書の御言葉にある通りです。

注目したいのは二人の弟子たちの行動です。35節「そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。」 子ろばの上に自分の服をかけ鞍を作ることは、ゼカリア書に預言されていません。これは神の奇跡を体験した人間の応答です。新共同訳聖書では自分の服と訳されていますが、他の訳は自分の上着と訳されていました。鞍を作った二人の弟子たちが下着のままで立っている姿が想像できます。その姿に触発され、他の弟子たちも自分の上着を道に敷き始めたのでしょう。王の足元に上着を敷くというのは、列王記に前例となる記事がありました。

子ろば神の創りしもの、上着は人が作りしもの。人の所有物が捧げられ鞍となり、敷物となり、真の王であるイエス・キリストのエルサレムへ入城に奉仕しました。全能である神が、鞍や敷物を備えることは容易です。しかし神は、あえて人の応答を求めるのです。全能の神は人を意のままに操ろうとする専制君主ではありません。「わたしのもとに立ち帰れ。」と呼びかける人格的な神です。神に応答する人は真の自分を取り戻し、人の「権力」から解放され、神の「権威」に従って歩み始めます。

神の都エルサレムへの入城にあたって、イエス様が先に立って進み、神の力ある業・奇跡に二人の弟子が応答し、その応答が他の弟子に及んで、群衆の讃美となりました。38節の「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」とは、イエス様が産まれる時、天の大軍が賛美した言葉と同じ内容です。天にあっても地にあっても、イエス・キリストは真の王なのです。

受難週の始まり、棕櫚の主日が群衆の歓喜に包まれていることに、もはや違和感はありません。神は人の思い違いを用いても、真の王であるイエス・キリストを讃えさせます。

この讃美は、イースターから始まる新しい礼拝の先取りでした。そのつながりで今日の礼拝があります。わたしたちは思い違うことなく、真の王であるイエス・キリストを讃えます。

4月から福岡城南教会は無牧師教会となりました。しかし真の王であるイエス・キリストは変わらずにおられます。これからは「神の国」の国民であるわたしたちが、それぞれに真の王の問いかけを聞き、果たすべき務めに応えて参りましょう。

お祈りします。

父なる神様、この世界を憐れんで下さい。
地上の王たちは、国民の欲望を叶えるため
剥き出しの暴力を振るっています。
それに抗う勢力も、自らの利権を守るため
安全な所から正義を唱えています。
置き去りにされた人々を顧みてください。
真の王であるイエス・キリストの権威に与り
わたしたちが、今、苦しむ人。今、嘆く人に
主にある希望を伝えることができますように。この祈りをイエス・キリストの御名によって受け入れたまえ。
アーメン。