聖日礼拝「あなたの信仰があなたを救った」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 レビ記13章 38〜46節
新約聖書 ルカによる福音書 17章 11〜19節

11節
ここに「イエスはエルサレムへ上る途中」と書かれていますが、主イエスがこの旅に出発されたときのことが、ルカによる福音書9章に書かれています。そこを開いて見ていただきたいのですが、新約聖書の124ページです。
主イエスが、エルサレムに向かう決意を固めたというのは、今、わたしたちはレントと呼ばれる主イエスの受難を覚える日々を過ごしていますが、このエルサレムへの旅は最終的にご自身の死にいたる旅立ちであることを主イエスがはっきりと自覚し、そこで十字架での死を遂げる覚悟を固めて、主イエスが出発されたという意味です。そのとき、サマリアを通ってエルサレムに行こうとなさる主イエスをサマリア人は歓迎しませんでした。
サマリアとユダヤはもともとイスラエルの12部族を構成する一つの民でした。しかし、ダビデ、ソロモンと続いたダビデ王朝が三代目のレハブアムのときに王国は北のイスラエルと南のユダに分裂し、先に北のイスラエルがアッシリアによって滅ぼされてからは、そこに様々な民族が移り住むようになった結果、サマリアには異教の影響が入って、宗教的な混淆が起こるようになりました。こうして、かつては兄弟であり、今も隣同士の民でありながらも、サマリア人とユダヤ人は互いに疎遠であり、憎み合うようになったのです。その分断と対立が一番はっきりと目に見える形で現れるのが、過越の祭の時でした。モーセに導かれてエジプトを出たこと記念する過越の祭りを守るとき、サマリア人はゲリジム山の神殿で、ユダヤ人はエルサレムの神殿で、別々に過越の祭りを祝ったからです。このとき、過越の祭りをエルサレムで守ろうとしてサマリアを通って行かれる主イエスをサマリアの人々が歓迎しなかったのは、主イエスがあくまでユダヤ人であって、自分たちとは関係のない存在とみなさざるを得なかったからです。
12〜14節
先ほど旧約聖書のレビ記で重い皮膚病についての律法の規定を読みました。非常に生々しい記事を読まれてショックを受けられた方があったかもしれません。自分自身がその重い皮膚病、昔は癩病と呼ばれ、近年はハンセン氏病と呼ばれている病気にかかり、隔離され、社会的差別を受けてきた方たちは、この記述を読まれたらどれほど心を痛められることでしょう。
旧約聖書の時代、そこに書かれていたように皮膚病を発症すると、祭司がそれを調べることになっていました。そして、それが感染する重い皮膚病であると判定されたら隔離されたのです。今でこそ、ハンセン氏病は治る病気になりましたが、長い間、この病気は不治の病として恐れられてきました。村はずれのところに離れて暮らしていた10人の患者が、主イエスに声を張り上げた、とあるのは、この人たちが村に入ることを許されない隔離された人々だったからです。
すると主イエスは彼らに、祭司たちのところに行って、体を見せるようにと言いました。それを聞いた彼らは祭司たちのところに出かけてゆきました。そして、行く途中で彼らの病気は癒されたのでした。
主イエスから祭司たちのところへ行きなさいと言われて、10人のライ病人が歩き出したとき、彼らは癩病のままでした。それでも彼らは歩き出したのでした。そして歩いているうちに癒されたのです。
彼らは主イエスから祭司のところへ行きなさいと言われたとき、自分たちは癒されるのだと信じていたのでしょう。どうせ治るはずがないと、自分たちの癒しを信じなかったら祭司のところへ出かけなかったはずだからです。
今日の箇所の最後で、主イエスは戻ってきたサマリア人に対して「あなたの信仰があなたを救った」と言われたと書かれています。主イエスがこう語りかけられたのはサマリア人に対してだけでしたが、他の九人も自分が癒されると信じて祭司のところに向かって歩き出し、その途中で癒されたのでしょうから、その意味では彼らもまた、彼らの信仰が彼らを救ったと言えるでしょう。
15〜18節
癒されたのは10人全員でした。しかし、主イエスのもとに戻ってきたのは一人だけでした。どうしてこの人だけが帰ってきたのでしょう。この人がサマリア人であったことが、戻ってきたことに関係があるのでしょうか。
10人の患者たちは、重い皮膚病を発症して、隔離されたときはユダヤ人、サマリア人の隔てはなく、一緒でした。しかし、今、病気が治って社会復帰が許されたとき、ユダヤ人はユダヤ人社会に戻り、サマリア人はサマリア人社会に戻ることになった結果、病気の時は一緒だった10人が、治ったら別々になってしまったのでしょうか。
19節
「あなたの信仰があなたを救った」。10人全員が主イエスの言葉を信じて、その信仰通りに癒され、救われたと言えると思います。それでも、主イエスから「あなたの信仰があなたを救った」と言っていただいたのは、サマリア人、一人だけでした。他の9人も信じて救われたはずですが、主イエスからそうは言われませんでした。それは、サマリア人が信じる信仰と、他の9人の信仰の間に、同じく信じて救われたと言えても、違いがあるのだと思います。どう違うのでしょうか。
説教の初めに、サマリア人たちは主イエスがエルサレムを目指して行かれるのを歓迎しなかったということを見ました。エルサレムにゆかれる主イエスは、そこで十字架につけられて殺され、しかし、三日目に復活することを目指して進んで行こうとされました。そうして、主イエスのエルサレムでの十字架の死と復活によって、救いがもたらされるとしても、所詮、それはエルサレムでの出来事であって、サマリアのゲリジム山ではない、ユダヤ人の救いのためであって、サマリア人の救いのためではないのではないでしょうか。
サマリア人たちがそう思ったとしても不思議ではないでしょう。しかし、このとき、癩病を癒されたサマリア人は、本来、ユダヤ人の囲いの外にいて、自分には救いが及ばない、自分は救いとは無関係なものとして排除されたとしても不思議でないのに、そんな自分にも同じように救いがもたらされていることに深く驚き、感謝せずにおれなかったのではないでしょうか、彼だけが戻ってきて、神様に賛美と感謝を捧げたのは、ユダヤ人ではないサマリア人である自分が救われたことに対する大きな感謝があったからだと思うのです。
神さまの憐みは、このサマリア人の重い皮膚病が癒されず、隔離され、苦しみと絶望の中に置かれていたときに、すでにこの人の上に注がれていました。先週の説教でも、目が見えるようになった人の信仰について、目が見えるようになったときに、逆説的に、目が見えなかったときにも、神の目が自分の上に注がれていたことに目を開かれるようになったということを申しました。
重い皮膚病の人は、その病気が治ったことが救いだったのではなく、重い皮膚病を抱えたままのとき、すでに神の愛と憐れみが与えられていたことが救いでした。つまり、今なお、病気を抱えたままでであろうと、目が見えないままであろうと、神がわたしたちを愛してくださっていることを信じる信仰が、わたしたちの救いなのです。
聖書には主イエスが盲人の目を開かれる奇跡をされたことや、癩病人を癒されたことが書かれています。聖書に書かれているような奇跡を今のわたしたちは見ることができません。しかし、それにも関わらず、多くの癩病人の人たちが、病気が癒されないまま信じて、信仰によって救われて生き、信仰をもって死んでゆかれました。また、同じようにたくさんの盲人の方達が、目が見えるようにならないまま、神様を信じて救われています。
サマリア人の人は、癩病が癒されてもなお、様々な差別や偏見を受けて苦しむことが続くかもしれませんでした。しかし、その差別や偏見にも関わらず、神の憐れみが確かであることを信じる信仰がサマリア人を救います。その苦しみ、差別、偏見がなくなって初めて救われるのではないのです。それを抱えたままで今、すでに自分は救われているという信仰です。主イエスがサマリア人に対して、あなたの信仰があなたを救ったと言われるとき、サマリア人を救う信仰とは、そのような信仰のことだと思います。

私たちの信仰も同じです。重い皮膚病の人が、その病気が治ったことが救いだったのではなく、重い皮膚病を抱えたままのとき、すでに神の愛と憐れみが与えられていたことが救いでした。そのように、今なお、病気を抱えたままでであろうと、目が見えないままであろうと、神がわたしたちを愛してくださっていることを信じる信仰が、わたしたちの救いなのです。

それゆえに、主イエスが、サマリア人に言われた通り、わたしたちも今日、立ち上がって生きて行きましょう。
「さあ、立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

父と子と聖霊の御名によって