聖日礼拝「人の子は失われたものを捜して救うために来た」
説 教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 イザヤ書55章6〜11節
新約聖書 ルカによる福音書 19章 1〜10節
1節
今日の話の舞台、エリコの町は、エルサレムに向かう重要な通商路が通っていて、主イエスの時代、ユダヤを支配していたローマ帝国はエリコに関所を設けて、そこを通る人々から様々な税金を徴収していました。今日の箇所に登場する徴税人の頭、ザアカイは、ローマから税金の取りたての業務を、最高額で落札して請負っていた人でした。
エリコから、主イエスの旅の目的地エルサレムまでは、直線距離にしてわずか20キロほどで、ルカによる福音書はこのすぐ後の19章28節以下に、主イエスがエルサレムに入城してゆく様を記しています。
主イエスがエルサレムを目前にしていたここエリコで盲人を癒されたことをルカによる福音書はマタイによる福音書、マルコによる福音書とともに記していますが、盲人の癒しに加えて徴税人ザアカイのことを記しているのはルカだけです。
ルカによってエリコで起きた出来事として並べて記されている、盲人の癒しと、徴税人のザアカイの救いの物語には重なり合うところが多いように思えます。
2〜4節
ザアカイは主イエスのことを噂に聞いていたようです。いつかイエスにあって見たい。そう思っていた主イエスが今エリコの町を通って行こうとするのです。
エリコの盲人も同じでした。噂に聞いた主イエスがエリコの町を通られると聞いて、なんとかしてそのお方にお会いしたいと願いましたが、彼は目が見えないために、主イエスのところに近づけませんでした。目の見えないことが盲人にとって、主イエスに近づくことを妨げる障碍でした。ザアカイの場合は背が低かったことが、主イエスを見ることを出来なくさせる障碍でした。
盲人はひたすら大声で叫ぶことで目の見えないという障碍を乗り越えようとしました。それに対して、ザアカイは走って先廻りし、イチジク桑の木に登りました。
5節
大声で叫ぶ盲人の声を聞いた主イエスは立ち止まられました。そして、盲人をお呼びになりました。ザアカイの場合は、主イエスが彼の登っているイチジク桑の木のところまで来られて、その木の下で立ち止まられたのでした。立ち止った主イエスは「上を見上げ」ました。
ここで大変印象的なことは、主イエスが「上を見上げる」という言葉は、先週読みましたエリコの盲人の目が開かれる箇所で、盲人の目が「見えるようになる」という時に使われたのと同じ言葉、原語ではアナブレポーという動詞なのです。
エリコの盲人の目が見えるようになった、その「アナブレポー」には、自分の目に主イエスの姿が見えていなかったとき、目の見えない自分を主イエスは見ておられたということ、そのことに目が開かれるということがありました。
それは、ザアカイについても言えることだと思います。ザアカイは主イエスを見たいと願っていました。背が低い彼は主イエスを見たいばかりに木に登ります。その彼を主イエスは見ておられるのです。
ザアカイは主イエスのことを噂に聞いただけで深くは知りませんでした。しかし、そのザアカイを、主イエスは知っておられたのです。どうして彼の名前がザアカイだと主イエスは知っておいでになったのでしょう。自分は主イエスをよく知らないのに、その自分を主イエスは知っておられるのです。
ここに書かれているザアカイの物語を読んだ、いわゆる「小人」の人がいました。その人はザアカイが自分と同じ「小人」だったのではないかと思ったそうです。自分は生まれてからずっと「小人」だということで、いつも上から見下され、からかわれ、ジロジロと見られ辛い思いをして生きてきた、ひょっとしたらザアカイも小人だったために、いわれのない偏見と差別を受けてきたのかもしれまいと思ったというのです。そうかも知れません。ザアカイは周りの人々から受けた仕打ちに対する恨みから、反社会的になり、ユダヤ人たちからもっとも忌み嫌われる徴税人になった、そして、人々からだましとるような仕方で税を徴収したことがあったとすれば、それは人々から受けた悪意に対する仕返しだったのかも知れません。
主イエスは、そんなザアカイの心の内まですべてご存知であることをザアカイは知ったのです。
エリコの盲人は目が見えるようされたとき、神を仰ぎ、神をほめたたえました。そのとき、彼はアナブレポー、「上を見上げ」ました。ザアカイのときは主イエスがアナブレポー、上を見上げるのです。
信仰とは、主イエスが上を見る、その主イエスと共に上を見ることだと言えるように思います。
主イエスの目は、父なる神がわたしたちとこの世界を見られる、その眼差しで、わたしたちとこの世界を見られます。父なる神がこの世界とわたしたちの隣人をご覧になる目を、主イエスを通してわたしたちがいただくことが、わたしたちに信仰の目が開かれることだと言えると思います。
ザアカイを見上げられる主イエスの眼差しを、自分の眼差しとするようになることが、ザアカイの救いになります。神の子でありながら、それこそ上から目線で人を見下さすことをなさらない主イエス、背の低いザアカイよりももっと低くなって、そこから神さまを見上げ、神さまの愛の眼差しをもって、隣人と世界を見られる主イエスの眼差しを自分の眼差しとしていただくことがザアカイの救いなのです。
主イエスはザアカイに言われます。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」
ぜひ、あなたの家に泊まりたい、他の聖書はここを「あなたの家に泊まることにしている」と訳していました。その翻訳でも原文のニュアンスが十分に伝わらないように思います。原文では、わたしは泊まらなければならない、英語で言えば、マスト、という言葉が使われています。主イエスは、今日、ザアカイの家に泊まらなければならないと言われたのです。
一体なぜ主イエスはザアカイの家に泊まらなければならないのでしょうか。
この「ねばならない」、マスト、必ずそうなるという同じ言葉が、主イエスの受難と復活についてルカが記すとき、繰り返し用いられています。人の子は必ず、祭司長、律法学者から捨てられ、殺されなければならない、そして、三日目に復活することになっている。
6、7節
ザアカイは大喜びして、自分の家に主イエスを客として迎え入れます。しかし、それを見た人々は一斉に主イエスを非難しました。
ザアカイの家の客になる、そこで彼と食事を共にする。それはあるまじきことだと言って呟き、主イエスを批判したのでした。
ザアカイはローマ人と接触していました。ローマ人と一緒に酒を飲んだり肉を食べたりすることもあったでしょう。ユダヤ人にとって、それはタブーでした。ローマ人はユダヤ人にとって食べてはならない豚肉のような、汚れた物を食べる人達だからです。ユダヤ人が守る、聖なる神の民としての律法など、全く無視して生活するローマ人と交際すれば、ユダヤ人は自分を汚すことになります。
ザアカイは日頃ローマ人と交際している、ユダヤ人社会のアウトロー、ユダヤ人が付き合ってはいけない人です。そういうザアカイの家の客となるということは、主イエスもザアカイと同じように汚れた存在になるということでした。
しかし、そんなザアカイの家に、主イエスは、今日、泊まらなければ「ならない」と言われました。なぜでしょうか。
主イエスは最後に10節で「人の子は、失われたものを捜して救うために来た」と言われました。「失われたもの」というのは、ザアカイのことです。失われたものは原文では滅びるとか、捨てられるという意味があります。またルカによる福音書15章に出てきた、いなくなった羊、見失った硬貨、いなくなった放蕩息子の例えで、いずれも「失われていた」もので、主イエスが、また父なる神が捜し出して、救おうとされたものでした。
主イエスは自分がザアカイの家に泊まれば、ザアカイと同じように、自分自身も捨てられたものにならざるを得ないことを知っておいでです。しかし、失われているザアカイを救うために、主イエスは捨てられなければならなかったのです。ザアカイが失われ、捨てられたものであるがゆえに、そのザアカイを救うために主イエス捨てられなければならなかったのです。
8〜9節
神さまがこの家に来てくださった。それに勝る喜びがあるでしょうか。ザアカイには家族がいたでしょう。徴税人ザアカイが社会から排斥されていたということは、彼の妻と子供たちも、周りの人たちから同じ目で見られていたことでしょう。しかし、ザアカイの上に注がれている神さまの目は、ザアカイだけでなく、ザアカイの家族の上にも注がれている眼差しなのです。救いがザアカイの家に来ました。
主イエスの眼差し、それと同じ眼差しで天を仰ぎ、父なる神様を見ること、そして、主イエスと同じ眼差しで、わたしたちとわたしたちの隣人を見ておられる父なる神の眼差しで、わたしたちが、自分自身と隣人と世界を見ること、これが救いです。
父と子と聖霊の御名によって。