聖日礼拝「あなたの信仰があなたを救った」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩編139編 11〜16節
新約聖書 ルカによる福音書 18章 35〜43節

35節
主イエスはこの時、過越の祭りのためにエルサレムに上る巡礼団とともに、エリコに近づかれたのでした。エリコまでくれば、目的地のエルサレムまで直線距離にして20キロ、歩いても一日で行ける道のりのところまで近づいたのでした。

そのエリコの道端で物乞いをしていた盲人は、先週読んだ31節以下で、エルサレムに上って行こうとされる主イエスから、そこで起ころうとする出来事について、すなわち、主イエスが苦しみを受け、ついには殺され、三日目に復活すると告げられたことが、全く理解できなかった12人の弟子たちを象徴していると言えるのだと思います。彼らの心の目が、エリコの盲人のように閉ざされていたことが象徴されていると言えますが、それだけではなくて、この盲人の目がひらけて、目が見えるようになったことは、主イエスの受難と死をはじめ理解できなかった弟子たちが、主イエスの復活されたのち、心の目がひらけて、すべてを理解するようになる、そのことの象徴として、今日読む箇所はここに書かれているのだということです。

36〜38節
エリコの町の道端で、物乞いをしていた一人の盲人が、エリコを通ってエルサレムに向かう巡礼団の中に、主イエスがおられると聞いて、主イエスに向かって大声で叫んだのでした。盲人は人々から黙れと言われれば言われるほど、いよいよ大声で主イエスに向かって叫び続けます。

39節
この人は噂にナザレのイエスのことを聞いていたのでしょう。この人はナザレのイエスにお会いしたいと思っても、自分から主イエスに会うために出かけてゆくことはできませんでした。そのナザレのイエスが、今、自分の声の届くところに来ているのです。預言者イザヤの言葉に「主を尋ね求めよ、見出しうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」(イザヤ55:6)とありますが、盲人はナザレのイエスが通り過ぎて行かないうちに、なんとしてでも呼び止めたかったのでした。

この盲人は主イエスに向かって「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。すると、それを聞いた人々は彼を叱りつけ、黙らせようとしました。

なぜこの人が「ダビデの子、イエスよ」と叫ぶのを人々は制止しようとしたのでしょうか。

「ダビデの子」というのは、当時の人々が抱いていたメシア待望、救世主の出現を願う、その願いを表す名前です。当時のユダヤはローマ帝国の植民地となり、かつて偉大な王ダビデのもとで謳歌していた黄金時代の栄光を失っていました。そのユダヤの国に再び栄光を取り戻す、強力な政治的指導者、軍事的指導者が「ダビデの子」と呼ばれるメシアでした。

主イエスが群衆の歓呼の声の中エルサレムに入城したとき、人々は「ダビデの子にホサナ」と叫んだのでした。しかし、それを聞いたエルサレムの指導者たちは、民衆が主イエスをメシアであると信じることは、無謀な反ローマ帝国の政治運動につながりかねないこと、そうなったらユダヤの国は滅亡に至ると考えていました。それゆえ、そうなる前に、主イエスがを殺すほかないと、主イエスの殺害を計画したのでした。

40〜41節
主イエスは立ち止まられます。主イエスに通り過ぎて行かないでほしいという盲人の願いが主イエスに届きました。主イエスは立ち止まり、この人を呼ばれます。この人は主イエスに近づきました。すると主イエスは問われます。「あなたはわたしに何をしてほしいのか」。

この人にこれまで、「あなたは何をしてほしいのか」と問うてくれた人がいたでしょうか。

この人は周りの人々から命令されることはあったかもしれません。あるいは、何かを求めても、無視されるか、せいぜい後回しにされるかだったのではないかと思います。私たちも地域社会で、学校で、病院のようなところでも、人々から本当に何を求めているのかを問われることがあるでしょうか。そのように聞かれることはあまりなくて一方的に先方の言い分を押し付けられていることが多いかもしれません。教会ですら、そういうことが多いことを反省しなけければならないと思います。

しかし、主イエスは問われるのです。「あなたは、このわたしがあなたに何をしてほしいと願うのか」。

するとこの人は答えました。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。

42節
「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」。この盲人は主イエスが自分の目を見えるようにしてくださると信じたのでした。主イエスは、この人に言われます。「あなたは、わたしにあなたの目を見えるようにすることができると信じている。あなたが信じたその通りになるように!あなたの信仰があなたを救ったのだ」と。

43節
見えるようになった。この人はそれまでは見えなかったのが見えるようになったのです。

見えるようになるとは、何を見るようになったということでしょうか。それまで見えなかった、何が見えるようになったのでしょう。

「見えるようになる」という言葉は41、42、43節と三度繰り返されていますが、ギリシャ語では同じアナブレポーという言葉です。見るという動詞のブレポーにアナという前置詞がついた言葉です。このアナという前置詞には二つの意味があります。

一つは再びという意味です。その場合、アナブレポーは再び見るようになる。失われていた視力を回復するという意味になります。この盲人も子供の頃は見えていたのに、病気か事故で失明してしまったのが、もう一度見えるようになったのかもしれません。

アナにはもう一つ、上に向かってという意味もあります。その場合アナブレポーは上なる神さまを仰ぐという意味合いを持ちます。印象的なのは43節です。見えるようになった人は、天を仰いで、神をほめたたえたのでした。

今日読んでいただいた旧約聖書の詩編139編に二度、主が見ておられたという言葉がありました。(979ページ)

139編11節に「闇の中でも主はわたしを見ておられる」とあり、もう一箇所16節に「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた」とあります。いずれも、わたしの目が主を見ていないときに、主はわたしを見ておられたと言っています。わたしは、主によってみられていることを知らなかったけれども、主は見ておられたという意味です。今日の箇所に即して言えば、盲人が道端に座っていたとき、盲人は主イエスを見ていなかったけれど、主イエスは彼を見ておられたし、盲人が通り過ぎてゆく主イエスを必死で叫んだとき、その盲人を主は見ておられた、ということです。

この盲人は、主イエスによって目が見えるようにされたとき、この人がまだ盲人だったときに、主イエスがこの人を見てくださっていたことに目を開かれるようになります。見えるようになるということは逆説的ですが、自分が見えていなかったときにも、主は自分を見ておられたことに目を開かれることです。

では、目を開かれて、父なる神を仰ぎ、自分の上に注がれている父なる神の眼差しを受け止め、神さまと互いに、目と目を合わせるとき、わたしたちは何を見るのでしょうか。

そのとき、わたしたちは神さまが見ているものを見させていただくのだと思います。

旧約聖書の創世記に、神さまは天地万物を創造されたとき、それを見てよしとされたと書かれています。神さまは創造された世界が、美しく、完全であるのを見ておられました。

今はどうでしょうか。神さまはこの世界をどう見ておられるのでしょうか。それは神さまの御心を悲しませる世界でしょうか。

神さまはわたしたちをどう見ておられるのでしょうか。神さまはわたしたちを見て胸を痛めておられるのでしょうか。

わたしたちは、世界の悲惨、混乱から神さまは目を背けておられる、神さまはこの世界を見ておられないのではないかと思うことがあるかもしれません。神様の存在を信じない人たちは、神様がこの世界を見ておられることを信じないでしょう。でも、先ほど詩編139編の御言葉で聞きましたように、この世界と私たちが神さまによって見られていることを知らないときにも、神さまはこの世界とわたしたちを見続けておられるのです。昨日も、今日も、そして、今このときも。

神さまのこの世界とわたしたちを見られる眼差しは、御子イエス・キリストを通して、注がれているのだと思います。主イエスの目を通して、主イエスの眼差しを通して、父なる神はわたしたちとこの世界を見ておられるということです。

わたしたちを愛し、その極みまでの愛のゆえに、わたしたちの罪を負って十字架の上で死なれ、そしてわたしたちの罪を赦される主イエスの眼差し、その眼差しと一つに合わせられた眼差しが、父なる神からわたしたちの上に注がれています。父なる神は、主イエスを通してわたしたちを、罪赦された者、父なる神の喜びである者、楽しみであるこどもたちとして見ていてくださいます。

みなさん、主イエスは今日という日に、わたしたちにも問われます。「あなたは、わたしがあなたに何をしてほしいと願うのか、あなたは、わたしがあなたたちの目を開くことができると信じるのか、そして、そうすることを願うのか」。

主イエスには、わたしたちの目を開くことがお出来になります。神さまがわたしたちを見ているように、わたしたち自身とこの世界をわたしたちが見るようにしてくださることが主イエスにはできると信じるなら、主イエスはそのことができるようにしてくださるでしょう。そしてその信仰がわたしたちを救ったと主イエスは言ってくださるでしょう。

弟子たち、十字架の闇の中で、不信仰に陥り、躓いたペトロたちを主イエスは見ておられました、そして、復活された主イエスはペトロたちの信仰の目を開いてくださったのです。

わたしたちも信仰をもって、神さま仰いで、神さまが見ておられることを見る目をいただきましょう。そして、主イエスに従いましょう。

43節
わたしたちは主イエスに従う信仰の仲間を見て、今日という日に神さまを賛美します。また主イエスに従う自分自身のゆえに、生きる日の限り、さらにとこしえまでも神さまを賛美するのです。

父と子と聖霊の御名によって