聖日礼拝「弟子たちに理解できなかったことは何か」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 イザヤ書53章11〜12節
新約聖書 ルカによる福音書 18章 31〜34節

31〜33節
主イエスが弟子たちを呼び寄せて、エルサレムで主イエスを待ち受けている最後について、打ち明けられたのはこれが三度目でした。

最初は、ペトロが信仰告白をした直後のことでした。ペトロが主イエスこそ神からのメシア・キリスト、救い主ですと告白すると、主イエスは弟子たちを戒めて、このことをだれにも話してはならないと命じ、続けてこう言われました。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。

するとペトロは、主イエスを脇へお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って主を諌めようとしたのでした。主イエスは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人のことを持っている」とペトロを厳しく叱責されました。しかし、ペトロは叱責されて引き下がったものの、主の口から語られたことが理解できませんでしたし、到底受け入れることなどできなかったのです。

主イエスの口から初めてご自身の身に起ころうとしている受難と死を聞いたその日から、弟子たちには理解できない、そのことが重く彼らの心の底に沈殿したまま、月日が経って行きました。それが何かの間違いであって欲しいと弟子たちは心密かに願ったのではないかと思います。

けれども、主イエスが二度目にご自身の受難を予告されるに及んで、弟子たちの心は悲しみに満ち、彼らは心も口も閉ざしてゆきました。主イエスの口から再度、受難の予告が繰り返されたことで、これが何かの間違いではないと知った弟子たちは、黙りこくります。そして、そのことに触れることが怖くて、主イエスに尋ねようとしませんでした。

そして、とうとう主イエスがエルサレムに上る日が目前に迫り、日本語では三度目の正直と申しますが、もはや変えられることのない定めとして、主イエスがエルサレムで苦しみを受け、殺され、三日目に復活するということが告げられたのでした。

34節
弟子たちには主イエスの言われることが何一つ分からなかったと言われています。何故これから上ってゆくエルサレムでそんなことが起こるのかがわかりませんでした。主イエスのような、この世に二人といない、正しいお方が、素晴らしい教師が、なんで犯罪人のように辱められ、殺されなければならないのか、まったく理解できないし、ましてや受け入れることなどできませんでした。それは理不尽であり、不条理であり、そもそも無意味なこととしか思えませんでした。

しかし、皆さん、この34節の意味は何かと言えば、この弟子たちには理不尽であり、不条理であり、無意味であるとしか思えなかったこと、それゆえ何一つ分からなかったと書かれているのは、確かにこの時は、弟子たちには理解できなかったけれども、後になって弟子たちにはわかるようになったという意味なのです。
ルカだけではなく、マタイもマルコも、3つの福音書がすべて、三度繰り返し、主イエスの口から受難と死が予告され、弟子たちが当惑し、悲しみ、不安になったと書かれているのは、この時には弟子たちに隠されていた主イエスの受難の意味が、後から弟子たちに明らかになるようなったということなのです。理解できなかったことが、理解できるようになる日が来るということ、そして実際に来たということを言っているのです。

この時には弟子たちに隠されていたこと、しかし、後になって明らかにされたこととは何でしょうか。それは主イエスの受難と死の意味です。

27節で主イエスが「人間にはできないことも、神にはできる」と言っておられますが、弟子たちには人間的に、自分の力で理解できなかった主イエスの受難と死の意味を、神さまによって分からせていただくようになったのです。今日読んでいる記事のすぐ後に、来週読む、エリコの盲人の目が開かれるという記事が書かれています。盲人に見えない自分の目を開くことができるでしょうか。しかし、盲人にできないことを神がしてくださいました。それと同じように、弟子たちは自分の力では主イエスの受難と死を理解することができませんでした。それを神様が見ない目を開くようにして、分からせてくださったのです。

先週、説教で取り上げた箇所で、金持ちの人が、主イエスから「持っているものをすべて売り払い、貧しい人に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」と言われるのを聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら去って行ったとき、ペトロはそれを見て、胸を張るようにして、自分たちはすべての物を捨てて主イエスに従って来ました、と言ったことを読みました。ペトロは金持ちの人を見下すように、あの人には信仰が足らないのだ、だから主に従う決断ができない。こういう人は救われないと批判したのだと思います。

しかし、そう言って主イエスに従えなかった金持ちを批判したペトロが、自分自身もまた主イエスに従うことができない信仰の失格者となってしまったのでした。ペトロは自分の罪と弱さのゆえに、自分の命惜しさの故に、自分を捨てて主イエスに従うことができず、自分の命を救おうとして主イエスを捨てたのでした。主イエスを知らないと三度言ったことで、ペトロはもはや取り返しのつかない、絶望の淵に落ち込んでしまいました。ペトロは自分が主イエスに従うことができない失格者であることを、言い逃れのできない仕方で認めさせられるようになったのです。あの財産を捨てられず、主イエスに従えなかった金持ちを批判する資格はペトロにはありませんでした。救われることができないのはペトロ自身でした。

主イエスを三度知らないと言ったペトロは自分の誇りとするものを完全に失いました。すべてを捨てて主イエスに従って来た経歴も虚しくなりました。およそ自分の正しさ、主イエスから、また神さまから認めていただけるものが何一つなくなった時、プラスに数えるものなどなく、ゼロになった、いや、かえってマイナスでしかなくなった時、そのとき初めてペトロは、何故、主イエスが異邦人に引き渡され、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾を吐きかけられ、鞭打たれ、ついに殺されてゆかれるのかがわかるようにされたのだと思うのです。

主イエスが十字架につけられて死んでゆかれた時、一緒に十字架につけられた犯罪人の一人が、このお方は何も悪いことをなさったのではない、それなのに、自分と同じ死を死んでゆこうとしておられる、それは、犯罪人である自分、何一つ誇るものがなく、罪人として死んでゆく自分を、神の国に連れてゆくためにほかならない、そう信じたように、ペトロをはじめとする弟子たちも、自分たちが主イエスを捨てて、自分自身が神さまから捨てられるべき罪人であることを認めた時、初めて、その神様と人から捨てられるほかない自分たちを救うために、主イエスが神さまと人から捨てられてゆかれることがわかるようにされたのだと思います。

弟子たちには何が理解できなかったのか。
弟子たちにはそのことがこの時にはまだ理解できなかったのだと思うのです。しかし、それを理解できなかった弟子たちの心の目を、神さまが主イエスを通して開いてくださいました。
主イエスの十字架の苦しみと死の中に、犯罪人を天国へと連れてゆく救いが、また、大きな罪の淵に沈んだ弟子たちを救う復活の宝が隠されているということが分かるようにしていただいたのです。

それがわかるようにしていただいたのは、弟子たちが自分でそれを悟るようになったとか、理解力がましたことでわかるようになったというのではまったくなかったのです。

いよいよエルサレムに上ろうとされる主イエスは弟子たちを呼び寄せられました。今彼らに語っても弟子たちがすぐには理解しないことを主イエスは知っておられました。理解できないまま最後まで主イエスに従って来ようとする弟子たちを、主イエスはご自身のうちに引き受けてくださるのです。そして、無理解な弟子たちが、最終的に理解するに至る日を、ご自身が備えてくださるのです。主イエスのうちに私たちの救いのすべてがあります。主イエスの苦難と十字架の死のうちに、私たちの罪の贖いと赦しがあり、主イエスの復活のうちに、私たちの永遠の命があります。わたしたちのすべてを知っておられる主イエスに従いましょう。

父と子と聖霊の御名によって