聖日礼拝「なぜ金持ちは神の国に入れないのか」
説 教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇 115篇 1〜11節
新約聖書 ルカによる福音書 18章 18〜30節
今日読んでいるこの話はとても衝撃的ではないでしょうか。
新約聖書のすべての福音書がこの話を記しています。マタイ、マルコ、ルカで少しずつ違いがありますが、共通しているのはこの人が金持ち、それも半端ではない資産を持っていたということです。
金持ちは神の国に入れない、そう主イエスの口からきっぱり言われ、金持ちは悲しみ、人々は驚きます。
悲しむ金持ちを見て主イエスはどう思われたのでしょうか。
主イエスのこの人に対する思いをマルコが記しています。そこを開いて読んでみたいと思います。81ページ、マルコ10章21節です。
説教の後で歌う197番の「ああ主のひとみ」という賛美歌の第1節はこのマルコ10章21節「イエスは彼を見つめ、慈しまれた」から来ています。
賛美歌197番の1節では、「きよきみまえを、さり行きし」と謳われていますが、ルカには、立ち去ったとは書かれていないことに注目しておきたいと思います。
この賛美歌の次の節には、ペトロのことが歌われていることにも注目したいのです。主イエスの言葉を聞いて、自分の持ち物を捨てて主イエスに従えないことを悲しむ金持ちとは対照的に、ペトロは自分たちはすべてを捨てて主イエスに従ってきたと言ったのでした。悲しみに打ちひしがれる金持ちを尻目に見ながら、それこそ、ペトロは胸を張ってこう言ったのでしょう。しかし、そのペトロが、最後の夜、主イエスを三度知らないと言って、号泣したのでした。主イエスに従えないことを深く悲しんだ金持ちと同じように、ペトロも深く悲しみに沈むことになりました。そのときに、主イエスは、悲しむ金持ちに注がれたのと同じ慈しみの眼差しをペトロにも向けられたと、この賛美歌は歌っています。
金持ちの人は、大変な金持ちで、それを捨てることができずに悲しみます。金持ちであることが、この人にとっては主イエスに従うことの妨げになったのでした。それに対してペトロは、持ち物を捨てることはできました。しかし、最後の最後、自分の命惜しさに、主イエスを捨てたのでした。
「財産のある者が、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」。ラクダが針の穴を通ることは不可能です。それくらい、この金持ちにとっては、莫大な財産を捨てることは困難なことでした。しかし、ペトロが、たとい他の弟子たちが主イエスを知らないと言おうとも、わたしだけは、捕らえられて獄に入れられようとも、たとえ命を失うことがあっても、あなたを知らないなどとは決して申しませんと言いながら、主イエスを三度知らないと言いました。一度だけならまだしも、三度も知らないと言って、取り返しのつかない罪をおかしたのです。
「それでは、だれが救われるのだろうか」そう言って驚き怪しむ人々に対して主イエスは言われます。「人間にはできないことも、神にはできる」
「人間にはできない」。金持ちにとって財産を捨てて主イエスの従うことは不可能でした。それと同じくらい、ペトロにとって、自分を捨てることは不可能でした。
この金持ちはマタイとマルコでは悲しみながら立ち去ったと記しますが、ルカにはそれがないのです。つまり、この人は主イエスの前から立ち去ったとしても、それですべて終わったのでしょうか。ペトロは、最後の最後、主イエスを知らないと言ってしまい、自分を捨てることができず、悲しんで泣くようになりました。しかし、あの自分に絶望せざるを得なかったペトロは絶望と悲しみで終わったのではありませんでした。ペトロは、その悲しみと絶望、挫折の中から立ち上がって、主イエスに従うようになりました。
「人間にはできないことも、神にはできる」。この金持ちの人も、悲しみました、自分には無理だと思って絶望したでしょう。しかし、この人にとっても、悲しみと絶望が最後なのではないのです。人間には確かに不可能でした。しかし、その不可能なことが神様にはおできになるのです。
この金持ちの人もやがて死を迎える日が来るでしょう。この世を去っていく日に、この人にもはっきりすることがあります。自分がまた何一つ持たない、この世に生まれてきたときと同じ姿でこの世をさらねばならないということです。何一つ携えてゆけない、裸のものを、ちょうど裸で生まれてくる赤ちゃんのために両親がすべてを用意するようにして、父なる神様が神の国に迎え入れてくださるということです。子供のように、そうです、何一つ持たずに生まれてくる乳飲み子のような仕方、それ以外の仕方で神の国に入ることはできないのです。
ルカはこの人は議員だったと記しています。わたしたちの国の国会、国権の最高機関である国会にあたるのがユダヤの最高法院でした、その70人のメンバーのひとり、まさに、ユダヤ人の指導者、先頭に立つ人です。この人は、主イエスを「善い先生」と呼びます。「善い」これは素晴らしい、称賛に値するという意味の言葉です。この人自身、「善い者」となることを追い求めてきたのでしょう。そして、さらにもっと高みを目指して、自分を引き揚げてくれる善い教師である主イエスに教えを乞うたのだと思います。
自分を高め、努力を積み重ねて、ついに永遠の命に達したい、これがこの金持ちの考えです。
この人が主イエスの言葉に聞き従えなかったのは、お金に執着したからでしょうか。
私はそうではないと思います。彼が悲しむ理由はお金を愛していたからではない。そうではなくて、財産を失って無一物になったら、自分が目指している目標が達成できなくなると考えたからだと思うのです。自分の健康、財産、地位、それらの土台があって、初めて自分の目標が目指せる。もし、その土台が取り去られたら、土台が崩れてしまったら、もうダメだ、絶望するしかないと思うからだと思うのです。
それに対して主イエスは言われます。神の国は幼子、乳飲み子、裸で何一つ持たず、無力で何も出来ないものが、ただ神を信頼し、神の愛と憐みに信頼しきって、自分自身を委ねる以外の仕方でしか、神の国に入ることはできないと。
昨年のクリスマスの洗礼式の日の説教で申し上げたことを、今日もう一度思い起こしたいと思います。
洗礼は、父と子と聖霊の名によって行われます。父・子・聖霊の名によるとは、この洗礼を執行するのは神ご自身であって、牧師ではないということを意味します。
洗礼が神の名によるとは、この洗礼に対する全責任は神がとられるということです。
神がわたしたちの父となってくださることは父なる神の私たち一人ひとりに対する約束です。
主イエスがわたしたちの救い主となってくださること、私の罪を赦し、復活の命、永遠の命を与えてくださる、これは主イエスの一人ひとりに対しての真実な、決して破られることのない、取り消されることのない約束です。
聖霊がわたしたちの慰め主となってくださること、順境にあっても逆境にあっても、絶えず私のうちに宿ってくださることは、聖霊が確かにご自身の責任として引き受けてくださるとことです。
わたしたちはその神様の約束に信頼して自分自身を委ねるのです。小児洗礼の場合は、親の信仰によって、自分自身が委ねられたのです。
それができたのは自分の力によったのではなく、神様の恵みによったのです。
まさに驚くべき恵みです。
父と子と聖霊の御名によって