聖日礼拝「なぜ神の国は子供たちのものなのか」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 ヨブ記 1章 21節
新約聖書 ルカによる福音書 18章 15〜17節

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

先ほどの聖書朗読で最初に読まれたヨブ記の御言葉は、よく葬儀のときに読まれます。昨年末から今年にかけて、わたしたちの教会の兄弟姉妹であった、府川和子さん、川村正次さん、脇允子さんの3人の方を主の許に送りましたが、葬儀を終えて、教会の玄関から棺が運び出されると、出棺の時を迎えます。葬儀に参列された方たちは遺体を乗せた霊柩車を見送って、それが最後のお別れになりますが、家族の方達には、その後、火葬場で最後のお別れが待っています。そこでは「神ともにいまして」の賛美歌を歌った後に、先ほどのヨブ記1章21節が読まれます。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」

新約聖書のテモテへの手紙にも「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができない」とありますが、まさに人は、裸で生まれ、裸で死んでゆきます。わたしたちは神さまのもとに行くとき、金銀財宝も、愛用の品のひとつをも携えて行くことができないのです。

今日の箇所で人々が主イエスに触れていただくために、子供たちを連れてきたとき、それを見た弟子たちが叱ったのに対して、主イエスは「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と言われたのでした。

子供と一口で言っても、何歳児か、年齢によって随分と違います。同じ子供でも小学校に上がろうとする5〜6歳の子供と、生まれたばかりの乳飲み子では大きな開きがあります。
主イエスの時代、ユダヤ人社会でも、ギリシャ・ローマの世界でも、おおよそ子供というものは、躾を受け、教育を受けて成長して初めて価値を認められるもので、一人前の大人となる前の子供は何の価値のないもの、数に数えられない存在だったと言われています。

このとき、人々はまだ言葉も話せないような「乳飲み子まで」連れて来ようとしました。マルコによる福音書では、それを見て叱った弟子たちのことを、主イエスは憤ったと書いていますが、主イエスが弟子たちの妨げようとした乳飲み子をさえ、ご自分の所に来るよう呼び寄せたのは、主イエスの父なる神が、主イエスを通して子供たちを、乳飲み子に至るまで、御自身のもとへと、神の国へと招かれるお方だからでした。子供というものが、社会的には一人前の存在として認めてもらえない価値のないものと見られたとしても、果たしてその子供の生みの親にとっては、価値のない存在でしょうか。そのように、主イエスの父なる神は、乳飲み子、幼子の小さい命を愛し、いつくしまれる、子供たちの父であられるのです。

父なる神は、ご自身の独り子を人としてこの世界に送られたとき、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶に寝かされる、乳飲み子として生まれさせられました。神は御子を、裸で生まれさせることによって、わたしたち、裸でこの世に生まれてくるすべての者の父であることを明らかにされました。主イエスは、乳飲み子、幼児を呼び寄せ、その腕に抱いて祝福されます。その主イエスは、わたしたちをご自身のこどもたちとして受け入れ祝福してくださる父なる神の愛の腕であり、御手なのです。

わたしたちがこの世を去るとき、何も持たない生まれた時の裸の姿に戻るとき、神さまは、ご自身がわたしたちの父であられること、わたしたちに必要なすべてのものを備えて、わたしたちを神の国へ迎え入れてくださる方であることをもう一度はっきりと示されるのです。

裸で生まれ、裸で死ぬまでの人生の日々における、わたしたちの神の前での本質的な姿は、生きて行く上で必要なものは、すべてこの父から与えられ、養われ、生かされてきたものであり、与えられたものではない、自分自身で得たと主張しうるものは何一つない、貧しい、裸の存在でしかなかったのです。

このように、生きるときも死ぬときも、わたしたちの父として、わたしたちにすべてを備え、神の国へ迎えてくださる神さまに、わたしたちは全幅の信頼を寄せ、心から喜び、感謝し、父なる神のもとに行きます。それが子供のように神の国を受け入れるという意味です。
主イエスは言われます。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。

来週、今日の続きの箇所を読みますが、そこには金持ちの議員が出てきます。来週の説教の題は「なぜ金持ちは神の国に入れないのか」となっています。その答えは、金持ちは子供ではないからです。金持ちは、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるのか、神の国に入るためには何をしなければならないのかと問いますが、子供はこういう質問はしないのです。子供のように神の国を受け入れる、神の国、父なる神の招きを受け入れる子供はわたしたちに大人が見習い続けなければならない模範、お手本なのです。です。

わたしたちが集う週ごとの礼拝、その礼拝への招きは、神の国への招きの前触れであると言えましょう。礼拝への招き、神の国への招きを受け入れるとき、わたしたち大人にとっての模範であると主イエスが言われる子供達が、それを受け入れる受け入れ方はどのようなものでしょうか。

まず、子供にとって、礼拝に来ることは義務ではないでしょう。そもそも、子供は自分の意思で神様のもとに来たのでさえないのです。親に連れてもらってきたのです。大きくなったとき、それが子供にとっての感謝となります。

わたしたちはそれぞれ顧みれば、自分が神さまに受け入れられたのが、子供のような存在としてであったことを知っているのではないでしょうか。自分自身、子供のように、知識もなく、信仰すら定かでなく、神さまの目に低く、貧しい裸の乳飲み子のような自分が、選ばれ、愛され、父なる神の子として受け入れられたのだからです。

神さまは子供をまねき、子供たちを神の国に受け入れられます。
それゆえ、わたしたちも神さまに倣い、神さまが子供たちを受け入れられるように、子供たちを受け入れるべきです。わたしたちの兄弟姉妹もまた、子供として父なる神に受け入れられていることを知るべきです。それゆえ、神さまが受け入れておられる子供たちを、わたしたちも受け入れましょう。

もう一度繰り返しますが、まったき信頼をもって神の国を受け入れる子供たち、父なる神の招きを純真に、喜んで受け入れる子供たちはわたしたちにとっていつまでも、最後の最後まで忘れてはならない模範なのです。

神さまは今日も主イエスを通して小さい者たち、貧しい者たちを、ご自身の愛する子供たちとしてみもとへ招かれます。
自分では歩けない幼子たちを抱っこして主イエスのもとに連れてきましょう。よちよち歩きの幼子の手を引いて、主イエスのもとに連れてきましょう。
そうして、神さまが招いていられるすべての人とともに、父なる神のもとへ、神が父としてわたしたちのために恵みと祝福を備えてくださっている神の国へと近づいてゆきましょう。

父と子と聖霊の御名によって。