聖日礼拝 「主は我が牧者なり」
説 教 川越 弘 牧師
旧約聖書 詩編23編 1〜6 節
新約聖書 ペテロの手紙(1) 4章 12〜13 節
詩篇23篇は、旧約聖書の中で真珠や宝石のように輝かしい信仰の歌として歌われてしてきました。これまで、この詩篇は世界の信仰者にどれだけ信仰の慰めと励ましと生きる力を与えてきたことでしょうか。
ダビデは、晩年になってこの詩篇23編を歌ったのでありましょう。この詩は、ダビデの生涯全体を語っていると思います。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる」。(詩篇23編1-3節前半)
ダビデの少年時代は羊飼いでした(サムエル記上16:17、17:34)。彼は羊のことに熟知していました。羊飼いは羊のために愛を尽くして世話をします。羊を食物と水のある所に連れていき、盗賊や野生動物や悪天候から迷い出る羊を保護します。羊は聴力が優れているので、羊飼いの声を聞き分けられるようです。声だけではなく人や他の羊の顔も見分けて何年も記憶でき、顔の表情から心理状態も識別できるという研究もあるようです。
主イエスは「わたしは良い羊飼いである」と言われました。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」からです。「良い羊飼い」は愛と公平をもって羊を養い育てるからです(エゼキエル書34章16節)。「主は私たちの羊飼い。…主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」と、ダビデは告白します。
「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」。(3節後半、4節)
この3節後半と4節の歌は、ダビデの生涯の中で最も苦しく辛い晩年の出来事の中から歌っております。「死の陰の谷を行くときも災いを恐れない。あなたの鞭、あなたの杖がわたしを力づける」と歌いますが、この時どういう出来事があったのでしょうか。
ダビデには8人の妻があり、母親の違う子供たちの間に確執がありました。ある時、アブサロム(三人目の妻の息子)は、アムノン(一番目の妻の息子)がアブサロムの妹タマルに暴力をもって辱めたことに激怒してアムノンを殺害します。それ以来、父親のダビデはアブサロムに冷たい態度をとるのです。それゆえに父親に不満を持っていたアブサロムは、父親ダビデの王権を略奪しようとするのです。そしてこれまでダビデに不満を持っていたダビデの部下(元サウル王の部下)と一緒に、アブサロムはダビデを夜襲(テロ行為)して殺戮しようとするのです(サムエル記下13-15章)。突然の攻撃であったため、ダビデは王の宮殿から逃れます。「ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら登って行った。同行した兵士たちも皆それぞれの頭を覆い、泣きながら登って行った」(サムエル記下15章30節)のです。「死の陰の谷を行くとき」とは、この出来事を指しております。
その間、サウル王の部下のシムイがこの時とばかり、ダビデに石を投げながら日ごろの恨みを叫びます。「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した者よ。ならず者。サウロの家の血を流して王位を奪ったお前に、主は報復する。お前は災難を受けているのだ。お前が流血の罪を犯した男だ」。これに激怒したダビデの部下が「なぜあの死んだ犬に主君、王を呪わせておかれるのですか。首を切り落としてやる」と王に言います。ダビデはとがめて「主の御命令で呪っているのだ。主が私の苦しみを御覧になり、彼の呪いに変えて幸いを返してくださるであろう」(サムエル記下16章7-22節)と説得します。
ダビデはこの出来事を想い起して「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」と歌うのです。ダビデのバテシバへの姦淫の罪、8人以上の妻、自分の子供達に対する偏った対応の仕方が原因して、息子アブサロムの反逆を迎え、彼が父親ダビデの王権を略奪し、父の妾に淫乱を犯して神と父を冒涜したこと(サムエル記下16:22)を、ダビデは神の「鞭」としたのです。この神の「鞭」が、ダビデを正しい道に導く「杖」であるというのです。アブサロムによって宮殿から追放され、「ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら登って行った」この苦難こそ、彼の受ける「鞭」であり神の「杖」なのだ、それが「わたしを正しい道に導く」ように支えると告白するのです。
この危機的な中で、ダビデの友人が食事を持ってきて(サムエル記下16章1,2節、17章27-29節)ダビデとその一行を力づけて、励まします。そのことを想い起してダビデは歌います。
「わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、 生涯、そこにとどまるであろう」。(5,6節)
こうして詩篇23篇が生まれたのです。この時は、ダビデにとって生涯の中で一番辛い苦しい時でした。やがて、アブサロム軍は敗北しダビデは勝利します。ダビデは息子アブサロムの無事を求めるのですが、殺されたことを聞いて身を震わせて泣き出します。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ」と、泣き崩れたのです(サムエル記下19章1節)。
このような悲劇をダビデは経験したのですが、それでも、自分の生涯を「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」と告白するのです。
詩編40編6節の前半に、ダビデは「わたしの神、主よ、あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。」と歌っています。ダビデは、全ての出来事は神の愛の配剤と摂理という「不思議な業」によって起こる、と語るのです。
神の父の慈しみと恵みに包まれた神の裁きの厳しさ、この神の摂理の原因は時として隠されています。神は、私たちに隠された中で光の中を歩ませようにしておられるのです。神に背いて罪を犯したダビデを、神は罰するという義(正しさ)と裁きという苦しみの道をお与えになられたのは、ダビデの信仰と忍耐を教育し、邪悪な感情を矯正し、気ままさを抑制し、神の恩寵の前での自己否定を求められたからです。神はおごり高ぶる者を打ち砕いて、不敬虔な者のはかりごとを粉砕されるお方です。苦しみは呪いではありません。呪いの運命を背負うことではありません。神の光の道を歩ませる「鞭」です。神に従う者を支える「杖」であるのです。
ペテロは「愛する者たち、あなた方を試みるためにあなた方の間にもえさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみに預かれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるために喜び踊るものとなるためである」(第一ペテロ4章12、13節)と、語っております。私たちの一つ一つの事柄・出来事・出会いは、神の真実な愛の配慮に包まれているのです。そのために、幸福と不幸・順境と逆境の区別を越えて、全てを主に委ねることです。どのような涙の災いに遭っても、災いになる事は何一つありません。全てが神の栄光と私たちの幸いのために向けておられるからです。
これから私たちは、何を経験するか分かりません。しかし、どんなことがあっても、神は「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と、告白するようにしてくださっているのです。これまで以上に最も厳しい暗闇を経験しても、最も危険な恐怖の道を歩いたとしても、その出来事は神の栄光に導かれる「鞭」の時であり、「杖」による支えの時であることを、共に覚えて行こうではありませんか。ここから、私たちは「主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる」ということを、感謝をもって告白するのです。