聖日礼拝
「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」
説 教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇 130編 1〜8節
新約聖書 ルカによる福音書 17章 11〜19節
先ほど読まれたルカによる福音書17章11〜19節をもとに中世に描かれた教会の祭壇画があるそうです。左側に10人の重い皮膚病を患う人たちが、村はずれに立って主イエスに向かって声を張り上げて叫んでいる姿が描かれ、右側には、一人だけ主イエスのもとに戻ってきたサマリア人が、主イエスの足元にひれ伏している姿が描かれ、絵の描かれた二枚の板が蝶番で一つにつなぎ合わされている祭壇画です。
ルカによる福音書17章11〜19節に書かれていることは、祭壇画の左右一対の絵によって言い尽くされていると言えます。左側には10人が、右側には一人が描かれています。10人は同じ病気、不治の病と恐れられ、社会や親しい家族からも隔離される、昔は「癩病」と呼ばれていた重い皮膚病を患っていました。この10人は揃って、主イエスに向かって声を張り上げて「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫びます。そして、10人全員が、主イエスから「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われて、そのお言葉に聞き従いました。そして、不治の病と言われた病気が奇跡的に癒されるという経験をします。そこまでは10人とも同じでしたが、そこから9人と一人に分かれてゆきました。10人のうち、9人は奇跡的な癒しを主イエスからいただくことで終わってしまいましたが、10人のうち一人だけが、祭司のところに行く途中で自分の癒されたことを知ると、祭司のところへは行かないで、来た道を引き返し、主イエスのところへと戻って行って行きました。彼は道すがら、大声で神を賛美します。先ほど主イエスに向かって「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と大声を張り上げたのは10人でしたが、神に向かって大声で賛美の声を上げたのはこの一人だけでした。不治の病を癒されるという奇跡を経験したのは10人でしたが、主イエスから「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言っていただいたのは一人だけでした。そのように言っていただいたのはユダヤ人ではなく、サマリア人でした。
対照的な絵が描かれている二枚の板は蝶番で繋がれており、真ん中に一線が画されています。その二枚の絵を分ける線と、11節以下に記されている、主イエスが辿られた道を重ねてみたいと思います。
「イエスはエルサレムに上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると重い皮膚病を患っている10人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げた」。
サマリア地方とガリラヤ地方、その境界線を通って主イエスはユダヤのエルサレムに向かって上って行かれます。
主イエスがたどる道の両側、サマリア地方とガリラヤ地方の間には様々な対立と分断がありました。主イエスはそのように民族で対立し、地域同士で争い合う、そのような世界の真ん中を通って行かれます。
ところが、村はずれに立って主イエスに「憐れんでください」と呼びかけた人たちは、同じ重い皮膚病だったために、それぞれサマリア人社会からもガリラヤ人やユダヤ人の社会からも、締め出され、互いに隔離された者たち同士として、一つになっていました。
今なお人類は様々な分断と対立を抱えています。けれども、パンデミックのような病気はその互いに対立し合い、分断されている人々の境界線を越えてゆきます。地球温暖化がもたらす自然災害もそうです。政治的、経済的に互いに対立し合う人々の両方に等しく及びます。あるいは核兵器のもたらす脅威も、民族が違っても、文化、風習が違っても、分断や違いを越えて人々を、同じように脅かしています。
また先ほど詩編130編で詩人が「主よ、あなたが罪を、すベて、心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう」とうたっていましたが、わたしたちは、主なる神の前に立つ時、誰一人、罪のない者として立てない者たちであり罪を抱える者たちです。10人が声を一つにして「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んだように、わたしたちも、全員が主に向かって罪の赦しを祈るほかない者たちです。
祭壇画の左側の絵で描かれているのは、人間はすべて、同じように罪を抱えており、悲惨のなかにあること、その悲惨の中から主に呼ばわる者たちであるということです。しかし、左側の絵では人間は一つであるのに、なぜ、右側の絵では人間は一つになっていないのか、それが今日読んでいるルカによる福音書17章11〜19節が問いかけていることなのです。
左側と右側の違いは、見間違うことがないくらいはっきりしているように思われます。その違いを指摘される17節から19節の主イエスのお言葉は黒白をはっきりとつけるお言葉で、そこには灰色のゾーン、曖昧さの入る余地はないように見えます。最終的に、主イエスから「あなたの信仰があなたを救った」と言っていただいたのは一人だけ、外国人であるサマリア人だけでした。
9人のユダヤ人とサマリア人では何が違ったのでしょうか。「あなたの信仰があなたを救った」。9人のユダヤ人には信仰がなかったということでしょうか。信仰が主イエスのみ言葉に聞き従うことであるなら、主イエスのみ言葉に聞き従ったという点では、9人のユダヤ人とサマリア人は同じでした。それゆえ、信仰をもっていたのは、10人全員だったと言えます。
9人のユダヤ人とサマリア人の大きな違いは、サマリア人だけが戻ってきたことです。神を賛美しながら、戻ってくると、主イエスにひれ伏して感謝しました。しかし9人のユダヤ人は戻ってきませんでした。戻ってこなかった9人のユダヤ人には感謝がなかったのでしょうか。
わたしは、9人のユダヤ人に感謝がなかったわけではないと思います。9人には癒されるはずのない病気が奇跡的に癒されたことに対する感謝があっただろうと思います。9人は回復された健康を心から感謝したでしょう。社会復帰を許され、家族のもとに戻れたことをどれほど感謝したことでしょうか。それは見落としてはならないことだと思います。
奇跡的な恵みをいただくこと、その幸福を感謝することは、今でも多くの人々の間で経験されることがあるのではないでしょうか。しかし、それが神さまへの賛美につながらない場合が少なくないのです。それは、信仰者と呼ばれる人の間でもありうることを、今日の聖書は教えているのだと思います。
ルカによる福音書17章11〜19節を読んで、主イエスのもとに戻ってこなかった9人の人たちの問題は、彼らに感謝がないことだと思うなら、必ずしもそうではないということを、今申しました。それなら、9人には信仰がなかったことが問題だったのではないかと思うなら、それも、そうとは言えない、彼らにも御言葉に聞き従うという信仰はあるからです。だとすれば、9人のユダヤ人とサマリア人の違いはどこにあるのでしょうか。どこから、その違いが出てきたのか、その違いと、その一人がユダヤ人ではなくサマリア人であることとの間には、何か関係があるのでしょうか。
9人の人とサマリア人の違いは、感謝の有無ではなくて、感謝の中身が違うのだと思います。先ほども見ましたが、9人は病気を癒されたことを感謝し、恐ろしい不治の病を癒された奇跡と幸福を感謝したに違いありません。でも癒してくださった主イエスに感謝したでしょうか。
9人は自分が救われたことを喜びましたが、自分を救ってくださった主イエスを喜びませんでした。自分を愛しますが、主イエスを愛さないのです。
主イエスを通して、自分を愛してくださっている神さまを知り、神を賛美するようになったのはサマリア人だけでした。神を父として信じ、愛するようになったのはサマリア人だけだったのです。
そのサマリア人に主イエスは言われました。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
サマリア人は主イエスを喜び愛し、主イエスの父なる神を信じ、父なる神を賛美します。それがサマリア人の信仰です。それがサマリア人を救ったと主イエスは言われます。
サマリア人はこの信仰のゆえに、これから先、自分に何が起ころうとも、立ち上がって勇気と希望を抱いて生きて行くことができるからです。
もう一度病気になろうとも、今度はその病気が癒されることができなかったとしても、そして、ついには死んでゆかなければならなかったとしても、それでも、立ち上がって勇気と希望を抱いて生きて行くことができるのです。
神さまがあなたを愛される全能の父であってくださり、主イエスが、生きるときも死ぬときも、順境にあっても逆境にあっても、あなたの真実で変わることのない救い主であられることを信じて生きて行けるのだ。だから、勇気を出しなさい、しっかりしなさい。
このような救いと信仰に導かれたことと、この人がサマリア人だったことには関係があったと思います。
「悲しみよ」という水野源三という詩人の歌があります。
悲しみよ、悲しみよ 本当にありがとう お前が来なかったら つよくなかったなら
私は今どうなっていたか
悲しみよ、悲しみよ お前が私を この世にはない大きな喜びが
かわらない平安がある 主イエス様のみもとに つれて来てくれたのだ
サマリア人は、自分が救われることなど、とうていありえない、そのことを人一倍強く思っていたのだと思います。水野源三さんも、悲しみを人一倍強く味わっていたから、主イエスのことを本当に感謝することができたのだと思うのです。
サマリア人は、主イエスから、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言っていただけるようにされたゆえに、自分がこれまで味わった病気も、苦しみも、悲しみすら感謝だったと言えるようにされたのだと思います。
父と子と聖霊の御名によって。