聖日礼拝 「わたしたちの感謝」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇 130編 1〜8節
新約聖書 ルカによる福音書 17章 1〜10節

今年、最後の礼拝を迎えました。一年を振り返って、心を痛めることも少なくなかったと思いますが、その中でも顧みて感謝せずにおれないことをも指折り数えることができるのではないでしょうか。今朝は、私たちの感謝について、特に神さまに対する感謝とは何か、聖書のみことばから聞きたいと思います。そして、主に対する感謝の思いを持って、新しい年に向かいたいと思います。

今日読んでいるルカによる福音書17章1〜10節には、主イエスのお言葉が3つ連ねられ、その後に一つの喩え話が続いています。
3つのお言葉とは、「兄弟を躓かせてはならない」という警告と、「兄弟の罪を赦しなさい」という命令と、第三は弟子たちが自分たちの信仰を増してくださいと願ったのに対して、主イエスが言われた「信仰は、からし種一粒ほどの信仰さえあれば、それで十分だ」というお言葉です。
これらの3つのお言葉と、それに続いて書かれている、主人と僕の喩え話とは、どうつながっているかと言えば、それは9節に「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか」とあります。その「命じられたことを果たす」ということと主イエスの3つの言葉が結びつきます。
主イエスが弟子たちに言われた、兄弟を躓かせてはならない、あなた方に罪を犯す兄弟の罪を赦さなければならない、からし種一粒ほどの信仰を大事にしなさいということを、弟子たちがみな命じられた通り果たしたなら、主イエスは、弟子たちにありがとうと言って感謝するだろうか。
答えは否です。弟子たちが命じられたことをみな守ったからといって、主イエスが弟子たちに感謝することはないだろうと言われるのです。

どうしてでしょうか。なぜ主イエスは弟子たちに感謝することはないと言われるのでしょうか。3つの言葉について一つずつ考えて見たいと思います。

「つまずきは避けられない」。つまずき、兄弟を躓かせるとはどういうことか、特に「小さい者」を躓かせるということはどういうことか、悲しいことですが、私たちは教会においてそれをしばしば見聞きさせられます。小さい者、まさに小さい子供に向かって、ここはあなたのような子供の来るところではないから帰りなさいと言って、子供を教会から遠ざけることは、子供を躓かせることです。子供だけでなく、貧しい人、障害を抱えている人、外国人の人に向かって、ここにはあなたのような人がいる場所はないと言って、教会に来ることを拒むことや、追い返すことはその人たちを躓かせることです。
主イエスがあの99匹の羊と群れから迷い出る一匹の羊の話をされたのは、「これらの小さい者の一人がつまずかせてはならない」と言われた時のことでした。それがどんな小さなきっかけであろうと、羊が群を離れてゆこうとするなら、その羊はつまずきを通して、単に群れを離れるのでなく、羊飼いのもとから去ることになり、自分の命を養い守ってくれる羊飼いから離れることは、羊にとって死を意味することなのです。
「つまずきは避けられない」。確かに、小さい羊、貧しい羊、弱い羊はつまずきに耐える力も、それを跳ね返す力もないので、躓かせられるようなことがあると、躓きを避けることができないのです。この「避けられない」という言葉は、原語では受け入れられない、あってはならないという意味もあります。羊を死に追いやるようなつまずきを与えることはあってはならないのです。それがあってはならない最大の理由は、兄弟が躓かせられることを父なる神がだれより真剣に悲しみ、一人でも躓かせられるなら、その兄弟を救おうとされるからなのです。

主イエスが次に命じられたのは「兄弟の罪を赦す」ことです。4節の言葉を読むと、遠藤周作の「沈黙」という小説に出てくる「キチジロー」というモデルのことを思い出します。「キチジロー」は「転び」を繰り返しながら、その度に神父の前にやってきて、何度も、何度も、罪の赦しを願い求めます。わたしたちは「キチジロー」のような人物に出会ったら、いくらなんでも嫌気がさして、こんな人間は信じられないと言って、匙を投げたくなるのではないかと思います。
確かに、人間は信じてもらえなくなったらおしまいです。私が忘れることのできないのは、かつて本で読んだ、吉展ちゃん事件の犯人が取り調べの刑事に死ぬ前に言い残した言葉です。
主イエスが十字架につけられたとき、一緒に磔になった犯罪人の一人は、最後の最後、「イエスよ、みくににおいでになるときに、わたしを思い出してください」と言いました。
父なる神は罪人が一人も滅びることを望まれないのです。悔い改めて、赦しを得ることを望まれるのです。父なる神が望まれることを、わたしたちは厳粛な思いをもって、自分自身の願いとすべきではないでしょうか。罪を悔い改める友に対して、神さまはあなたを赦してくださる、それは確かです。私はあなたを赦します。私があなたを赦す以上に、もっと確かに神様はあなたを赦してくださいます。わたしがあなたの罪を赦すのは、その証です。しっかりしてください。神様はあなたの罪を赦してくださいますと言いたいと思うのです。

この二つの言葉に続いて、弟子たちが自分たちの信仰を増してくださいと言ったと書かれている理由は、今見た、兄弟を躓かせないこと、兄弟の罪を赦すことの二つのことだけを取っても、弟子たちにしても、私たちにしても、とうてい、その戒めを十分に守り行う自信がないからではないでしょうか。もっと、わたしたちの信仰を増し加えてくださいと願わざるを得なかったからではないかと思います。

弟子たちのその願いに対して、主イエスは弟子たちの信仰はからし種一粒で十分だと言われました。これはどういう意味でしょうか。

信仰とは何なのか。信仰とは私たちの信心の力のことでしょうか、信念の強さ、確信の強さが信仰の力であり、確信のなさが信仰の弱さなのでしょうか。そうではありません。聖書が教える信仰とは、人間の信心や確信のことでなありません。信仰とは、人間にはできない、しかし、神さまにはできないことはないと信じることです。
天使ガブリエルがマリアにあなたは聖霊によって男の子を産むだろうと告げたとき、天使は「神にできないことは何一つない」と言いました。それに対して、マリアが、「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と答えました。それがマリアの信仰でした。
主イエスは桑の木を引き合いに出して信仰について語られます。パレスチナの桑の木は岩地のようなところに頑強に根を張っているそうです。そのように、わたしたちの中には、神の言葉に聞き従うことのできない不信仰と疑いが、桑の木の根のように根を張っていて、その根が抜け出して、海に根を下ろすことが不可能なように、わたしたちが信仰に生きることは本来不可能なのです。しかし、自分の力では不可能なことである、神に聞き従うことを、神は実現させることがおできになります。その信仰はからし種一粒ほどで十分なのです。

最後の喩えに出てくる家の僕は昼間、畑や牧場で汗を流しながら厳しい労働に従事しますが、その仕事を終えて、夕方、家に帰ってからも主人のために食事を用意する家事が待っています。朝起きてから夜休むまでずっと働き詰めで、心身ともにくたびれているに違いありません。だからと言って、僕は、主人から「一日中よく働いてくれた。お疲れ様、さあ、あなたのためにわたしが食事を用意しておいたから、食べなさい」という言葉を期待することはできないのです。これが世の中の現実だからです。

しかし、ルカによる福音書には主イエスによって語られたもう一つ、別のたとえが記されています。ルカによる福音書12章35〜37節。(132ページ)

これは驚くべきことです。このようなことは、この世界ではありえないからです。しかし。このあり得ないことを神さまは主イエスを通してなさいました。そのようなありえないことを、驚きつつ、信じ、受け入れることが私たちの信仰なのです。

しかし、その信仰のあり方について、私たちが注意しなければならないこと、よく考えなければならないことがあります。
それは、私たちの心の中に、主のなさることに対する反発の思いが起こるということです。主イエスがペトロの足を洗おうとされた時、ペトロは主イエスに、自分の足を絶対洗わないでくださいと言って断ろうとしました。主人が用意した食事につくことを結構です、辞退しますと言って断り、主人が立って給仕する席から立ってそこを離れるということです。
あるいは、席を立つようなことはしないけれども、それゆえ、甘んじて受けるけれど、本当は辞退したいと思うことです。なぜなら。自分がそれに値しないことは、よくわかっているし、何より少しも主人の期待に沿うことができないでいるのが、申し訳ない、心苦しいとと思いながら中途半端な姿勢に終始してしまうということです。

そのような信仰のあり方に対して、今日のみ言葉から私たちが最終的に耳を傾けて聞くべき主のみ心は何でしょうか。
9節、10節.
わたしたちにとって主の戒めに従って生きることは、そもそも自分の力でできることではありません。しかし、自分にはできないけれど、兄弟を躓かせず、兄弟の罪を赦すこと、それは私たちにとって最も願わしいことなのです。何より、一匹の迷いでた羊を追い求め、一人の罪人の死をも喜ばれない神様の愛のみ心に沿って、私たちもまた生きられることほど喜ばしいこと、感謝なことはないのです。
私たちは神さまから褒められ、報いをいただくことを期待しているのではありません。人から評価されたいのでもありません。そのように生きられることがわたしたちの感謝だからなのです。
信仰とはブドウの木である主イエスに接ぎ木され、主イエスの命によって生かされ、主イエスの恵みと愛によって、人々を愛し、人々に仕えることです。
たとえ、からし種一粒の信仰であっても、その信仰によってしっかりと主イエスにつながり、主イエスのうちにとどまり続けるなら、神さまは、私たちを通して兄弟を躓かせず、兄弟の罪を赦す豊かな愛の実を結ばせてくださり、神の栄光を輝かせてくださるでしょう。

神様が主イエスを信じる信仰によって、私たちをご自身のしもべとしてくださることが、私たちの感謝なのです。

父と子と聖霊の御名によって。