聖日礼拝「実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 出エジプト記 17章 1〜7節
新約聖書 ルカによる福音書 17章 20〜37節

ファリサイ派の人々が、主イエスに神の国はいつ来るのかと尋ねました。神の国とは、神が王として支配している神の王国のことであり、神が王として治めている治世のことです。それはどこで、いつ実現するのか、そうファリサイ派の人々が主イエスに問うたのです。

神の国はいつ来るのかという問いは、救い主、メシアはいつ来るのかというのと同じ問いです。メシアがこの世に来るとき、メシアは王となって人々を救い、世界を支配する、そのような国が神の国だからです。

神の国はいつ来るのかと尋ねたファリサイ派の人々は、自分たちなりに熱心に神の国を待ち望んでいた人々だったと思います。ファリサイ派の人々が律法を忠実に守ろうとしたのは、すべての人が神の戒めに従って生きるようになる時、地上に神の国が来ると考えていたからでした。しかし、ファイサイ派の人々が生きていた時代、ユダヤの国を支配していたのはローマ皇帝であり、その支配のもとで律法の戒めを守らない人々が数多くいたのでした。ファリサイ派の人々は、メシアはまだきていないし、ローマ皇帝によって支配されている今のユダヤの国は神の国とは到底言えない、そう考えていたので、主イエスに、神の国はいつ来るのかと尋ねたのでしょう。

その問いに対して、主イエスは「実に、神の国はあなたがたの間にある」とお答えになりました。「神の国はあなたがたの間にある」。その「あなたがた」というのが、主イエスを信じ、主イエスに従う弟子たちを指して、「あなたがた」と言われたのであれば、わたしたちはすんなりと主イエスの言葉を受け入れられるかもしれません。

しかし、ここで主イエスが「あなたがた」と言われたのは、弟子たちではなかったのです。ファリサイ派の人々、主イエスのなさることにしばしば反発し、主イエスの言われる言葉を受け入れず、主イエスを信じようとはしなかったファリサイ派の人々に対して、主イエスは「あなたがたの間に神の国がある」と言われたのでした。これは驚きというほかないと思います。

このように言われたファリサイ派の人々自身、主イエスからこのような答えを聞こうとは思いもしなかったのではないかと思います。自分たちの間に神の国が来ているなどと思わなかったファリサイ派の人々の間に、神の国が来ていると主イエスが言われたというのはどういうことでしょうか。

先ほど読まれた出エジプト記で、荒野を旅していたイスラエルの人々は、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言ってモーセと争ったと書かれていました。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民を待っていたのは、乳と蜜の流れる約束の地ではありませんでした。そこは食べるものも、飲む水もない荒れ野でした。人間は空腹、飢えには耐えられても、渇きには耐えられないといいます。飲み水がなかったイスラエルの民は狂ったように水を与えよと言ってモーセに迫りました。それは、神への試みになりました。彼らは言います。「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」。

 

しかし、イスラエルが荒野を旅した40年間を通して、主は彼らの只中におられたのでした。昼は雲の柱が、夜は火の柱がイスラエルを離れることがなかったのは、主が彼らと共におられるしるしでした。イスラエルの民が飢え、渇いた、荒野での試練の日々、主なる神はイスラエルと共におられたのでした。

今日の箇所に旧約聖書の創世記の記事が2箇所引用されています。ノアの洪水とソドムとゴモラの滅亡の箇所です。ここに登場するノアの時代の人々も、ロトの時代の人々も、神がその時代の人々の間に生きて、支配されていること、神の国がその人々の間にあるとは思わなかった人々でした。その点、荒野で試みを受けたイスラエルの人々と同じでした。

ノアの時代の人々は、洪水が起こる前まで、食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていました。ソドムとゴモラの人々も同じように、町の上に火と硫黄が降り注ぐまで、食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていました。いずれの時代の人々も、そのような日常生活の中に、神がおられるとは思わず、それらの日々が神の支配のもとにあるとは考えもしなかったのでしょう。人々が、それらの日々は神がやがて来るべき洪水に向けて忍耐されていた日々だとは思いもしなかった時に、ノアは黙々と方舟を造っていました。雲ひとつない青空の下で、ノアは人々の嘲を受けつつ山の上に方舟を築いたのです。ロトもまた、神の審判がソドムとゴモラの上に下ることを知らされても信じようとはしなかった人々を離れて、そこを出たのでした。

「神の国は見える形ではこない。『ここにある』『あそこにある』といえるものではない。」

ファリサイ派の人々は、ノアの時代の人々、ロトの時代の人々、また荒れ野のイスラエルと同じように、今という時代、今日という日が、やがて現れる救いと裁きに向かって、神がその御支配のもとに働いていることを知らないのです。神の国は見える形ではこない、そうです、からし種やパン種は目には見えないのです。しかし、神の国がはっきりと目に見える形であらわされる日が来るでしょう。そのとき、神の国の支配がすでに、目に見えない形で始まっていることを信じなかった人々にとっては、神の国の到来は裁きとなり滅びとなるでしょう。しかし、それを望みのうちに信じていたものたちにとっては、神の国の実現は、限りない喜びと感謝をもたらし、神の栄光が賛美される日となるでしょう。

みなさん、わたしたち信仰者も、「神の国は見える形ではこない。『ここにある』『あそこにある』といえるものではない。それはあなたがたの間にある」ということを理解しないことがしばしばあるように思います。

わたしたちは、順境にあるときは、神が共にいてくださると考えますが、逆境の時には神は自分達と共にはいてくださらないと考えないでしょうか。すべてが恵まれていた、良き時代のことは感謝しますが、うまく行かない試練の日々には、あの時は良かったと言って、あの時は主が共にてくださったと懐かしがり、それに比べて、今は、主が共にいてくださらないと言って呟かないでしょうか。また、上手く行っている祝福された他の教会などを見て、あそこの教会には主が共にいてくださるのに、上手くいっていないわたしたちの教会には主が共におられないのではないかと言ったりしないでしょうか。

主イエスが「神の国は見える形ではこない」と言われたのは、また、「『ここにある』『あそこにある』といえるものではない。」と言われたのは、神がわたしたちと共におられるのが、わたしたち人間の思いや願い通りに、すべてが上手く行っている順境の時だけではないからです。主は逆境の時にも、わたしたちにとって試練の時にも、わたしたちの只中におられるからです。神の国は、順境にある時だけでなく、逆境の時、試練のただ中にわたしたちが置かれている時にも、わたしたちの間に確かな形であるからです。

25節 主イエスは神の子であられましたが、人の子としてマリアから生まれ、わたしたちの兄弟となられました。わたしたちの兄弟として、わたしたちが受けるすべての苦難と試練を同じように受けて、わたしたちの間におられました。主イエスは人の子として、十字架の苦しみを受け、死んで、葬られました。それは、わたしたちに人間が受ける十字架の苦しみにおいて、自分の罪のゆえに神から裁かれるその裁きにおいて、神が私たちと共にいてくださるためなのです。わたしたちが死んで行くとき、墓に葬られるとき、わたしたちは一人、そこに置き去りにされるのではなく、人の子イエスにおいて、神はわたしたちの神でとして、私たちと共にいてくださるためなのです。神の国の御支配は、人の子イエスを通して、わたしたちの苦難においても、死においても、黄泉においてもわたしたちの間にあります。

わたしたちは今なお、様々な試練と苦難を受けていますが、落胆してはならないと主イエスは言われます。小さなからし種のように、また目に見えないパン種のようにしてわたしたちの間にある神の国は、やがて神の救いの光に満たされた輝きと栄光をわたしたちにもたらしてくださるからです。それゆえに、兄弟姉妹、わたしたちは後ろを振り向かずに、ひたすら前を向いて主イエスが栄光のうちにおいでになる日に向けて前進してゆくべきです。

主イエスは今日、私たちにも言われます。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」

父と子と聖霊の御名によって。