聖日礼拝
「二人の主人に兼ね仕えることはできない」
説 教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇115編 2〜8節
新約聖書 ルカによる福音書 16章 1〜15節
主イエスが語られた喩えはとてもわかりやすくて、日曜学校の生徒たちにも理解できるものがほとんどです。しかし、今日読んでいる「不正な管理人」の喩えは、主イエスが語られた喩えの中でも最も難しい喩えだと言われています。
たとえそのものもですが、このたとえが何を言おうとしているのか、特に8節と9節で主イエスが言おうとしている意味が理解できないのではないかと思います。
この喩えの理解の困難さを解く鍵は、この喩えがだれに向けられたものかを理解することにあると思います。
16章1節に「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」とあります。弟子たち「にも」と言われているのは、前の15章では主イエスはだれに対して語っておいでになったかといえば、それは15章の初めに書かれていました。主イエスはご自身の話を聞こうとして近寄ってきた徴税人、罪人たちと、それを見て主イエスに非難を浴びせたファリサイ派の人々や律法学者たちに向けて、そこに書かれている3つの喩え話をなさったのでした。
そこでは一つの明確なメッセージが語られていたのです。それは、神さまが一人の罪人でも悔い改めて帰ってくるなら、放蕩息子の父親が「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って大喜びして迎えたように、大喜びなさる、そして、すべての人に「さあ、わたしと一緒に喜んでくれ」と呼びかけられると言うことでした。そのメッセージを今なお、放蕩息子の話に出てくる兄のように、神さまと一緒に喜ぼうとしないファリサイ派の人々や律法学者たちに向かって、主イエスを通して呼びかけておられると言うことでした。
16章1節で「弟子たちにも」と言われるとき、15章において主イエスが語りかけておられた人たち、徴税人、罪人たちと、ファリサイ派の人々や律法学者たちに加えて、「弟子たちにも」と言ういみだと思います。そして、この「不正な管理人」の喩えが語られた時、それを聞いたファリサイ派の人々の反応が14節にこう記されています。
14節「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」
15章に記された主イエスの3つの喩え話の主人公は主イエスの父なる神さまでした。父なる神さまは、たった一人であろうと、その罪人がご自分のもとから迷い出て、その人が失われることを望まれないのです。英語で「完全である」と言う意味のコンプリートと言う言葉がありますが、それは満月のように少しもかけたところがないと言う意味です。百パーセントと言うことです。主イエスの喩えでは、父なる神さまはそのコンプリートになることを喜ばれるのです。百匹の羊のうち一匹でもいなくなったら、羊飼いは喜べません。女の人も持参金としてもってきた10枚の銀貨の一枚がなくなったら見つけるまでは安心して眠れないのです。放蕩息子の父親も、弟息子が帰るまで心配し続け、彼が帰ると喜んで迎えますが、怒って家に入ろうとしない兄が喜びの食事に加わらない限り、父親の喜びはコンプリートにはならないのです。
主イエスが徴税人、罪人たちと一緒に食事をするのを非難して、そこに加わろうとしないファリサイ派の人々や律法学者たちを主イエスは説得しようとします。例え話で怒って家に入ろうとしない兄に、家の外に出て行って語りかける父のように、主イエスはファリサイ派の人々や律法学者たちに食事に加わるように、今日の箇所を通して語りかけたと、それが「不正な管理人」の喩えだと言えると私は思います。
そもそも、徴税人、罪人たちと主イエスが一緒に食事すること、それは一緒に喜ぶのが当たり前のことだと言われるのに、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、なぜ、それを拒否して、そこに加わろうとはしないのでしょうか。それを阻んでいる最大の障害は何なのでしょうか。
主イエスは、15章の3つの喩えで、喩えの主人公である神さま、羊飼いや、女の人、最後には二人の息子の父親で喩えられた神さまが心から願う喜びをファリサイ派の人々や律法学者たちも自分たちの喜びにして欲しいと言われたのでした。それでもなお、ファリサイ派の人々や律法学者たちがその招きを拒みつづけるとしたら、そのとき浮かび上がってくるのは、ファリサイ派の人々や律法学者たちにとっては、何が喜びなのか、神様が喜んでおられる喜びを共に喜ぶことが、彼らの喜びではないのではないとすれば、一体、ファリサイ派の人々や律法学者たちにとっての最大の喜びは何なのか。
ファリサイ派の人々や律法学者たちにあなたたちにとっての最大の喜びは何かと聞いたら、もちろん、彼らは自分たちの喜びは神を愛することだと答えるのではないかと思います。しかし、彼らは自分自身気づいていないのでしょうが、彼らは神様よりもお金を愛する人たちだったのでした。14節の「金に執着する」と訳されていることばは原語では「金を愛する」という意味です。当時のファリサイ派の人々には金持ちが多かったのです。16章の後半に「金持ちとラザロ」と言うもう一つの例え話が出てきますが、そこに登場する金持ちはファリサイ派の人のことです。ファリサイ派の人々は、自分たちが富んでいるのは、自分たちが律法を守って正しい生活をしていることに対する神様の報いであり、自分たちが富んでいるのは、自分たちが神さまから祝福されていることの証拠だと考えていました。
しかし、そのようなファリサイ派の偽善を主イエスは15節で鋭く、えぐり出しておられます。神さまはファリサイ派の人たちの心をご存知なのです。彼らは、神から評価されることよりも、自分の正しさを見せびらかし、人から自分が評価されることを最大の喜びとしていたのです。そのようなファリサイ派の偽善的生き方を神さまは心底、忌み嫌っておられると主イエスは言われました。
ファリサイ派の人々は生ける、真の神を礼拝しているのではないのです。彼らの礼拝する神は金銀であり、詩編115編に描かれている偶像だと言うことです。偶像を造るものは偶像と同じようになります。偶像が、口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、足があっても歩けない。そのように、ファリサイ派の人々も、生ける神に対して、目が見えず、耳が聞こえず、自分の足で歩いて従ってゆくことができずにいました。
ファリサイ派の人々がその話を聞いて主イエスをあざ笑った例え話について説明したいと思います。
ここに管理人が出てきます。ここで管理人がしたことは、主イエスが生きておられた当時、中東世界でおこなわれていた商慣習に沿ったことでした。管理人はいわゆる「マージン」をとって、それを収入源として生きていました。
ここで管理人は主人に借りのある人の証文を書き変えさせていますが、それはどう言うことかといえば、油百バトス、1バトスは23リットルですから、百バトスは相当な量です。2300リットルの油は今の金額に換算したらいくらでしょうか。管理人はそれを半分の50バトス分に減額します。仮に100万円を50万円に書き換えたとしましょう。
実はこの話はそもそも油百バトスの原価が50万円であるのを、管理人は百万円、すなわち倍の値段で売って、差額の50万円をマージンとしてじぶんの懐に入れるつもりだったのです。ですから、減額したからと言って、自分のマージンはなくなりますが、原価は確保しているため主人に損害が及ぶことはないのです。小麦百コロスの80コロスへの書き換えに関しても同じことです。この減額で主人に損害は生じておらず、管理人のマージンがなくなるだけなのです。
でも、結果として何が生じるかといえば、債務者はこの管理人に対して恩義を感じるようになります。将来、管理人が失業して、困窮しているのを見たら、きっとかつて恩義を受けたことを思い出して助けの手を差しのべてくれるでしょう。
この例え話のポイントは何かと言えば、ここに出てくる管理人はわたしたちだと言うことです。つまり、わたしたちは財産・富の所有者ではない、主人ではなく、主人の財産の管理者にすぎないと言うことです。富や財産はやがて手放す時がきます。しかり、わたしたちは死ぬ時、何一つ携えて行くことができません。それらは他人の手に渡ります。それゆえに、地上で生きている間に、富や財産は、その管理を任された者として、それを用いてできるだけ多くの友人を作るべきだと言うことです。
この勧めはテモテ(1)6章に次のように書かれています。(389ページ)
とてもむずかしく感じられた16章8、9節の言葉は結局、テモテの手紙の教えと同じことを言っているのだと思います。
それに続く10節で、対比されている「ごく小さなことと大きなこと」とは、小さな事が地上のお金、財産のことで、大きな事とは永遠の救いに関する事です。それが11節では、不正にまみれた富と本当に価値あるもの、つまり、信仰と対比され、12節では、他人のものすなわち、財産と対比されます。わたしたちにとって財産は所詮、いつまでも手元に所有しておくことのできない、他人のものに過ぎないからです。しかし、神さまが永遠に「これはあなたのものだ」と言ってくださるものがあります。それは本当に価値のあるものです。永遠の命、信仰、愛、喜び、罪の赦しです。
そして、わたしたちは、神さまから託されたそれらの賜物の管理人なのです。管理人の仕事は、この賜物を生かし用いて、主人である神さまを喜ばせるだけでなく、特にそれを友人を作るために用いるべきなのです。
昔、ドイツにシュミットと言う首相がいました。その首相はサミットで日本に来た時、日本に忠告しました。当時、日本は世界に冠たる経済大国でした。しかし、シュミットは「日本には友達はいないのではないですか」と言いました。
同じ言葉をわたしは、日本キリスト教会の大会でも聞きました。日本キリスト教会は最近、やっとNCC、日本キリスト教協議会に加盟しましたが、40年ほど前、当時NCC議長だった在日大韓基督教会の李仁夏牧師が、日本キリスト教会の大会に来賓としてこられた時、日本キリスト教会には友達がいないのではないですかと言われたのでした。
振り返って、わたしたちの福岡城南教会はどうでしょうか。わたしたちの教会には立派な会堂があり、パイプオルガンも与えられています。私たちの教会には他の教会にはない多くの賜物を与えられています。オルガニストが4人も5人もいて、毎週交代で奏楽している教会など、日本中探してもおそらくないと思います。ではこの賜物をどのように管理し、用いているでしょうか。それを用いて沢山の友達をつくっているでしょうか。これらの賜物は友達を作るために神さまがわたしたちに託しておられるものなのです。わたしたちはこの礼拝堂のオーナーではありませんし、土地も献金も私たちのものではありません。そのことを自覚しているでしょうか。
神さまはわたしたちの心をご存知です。わたしたちに神さまが託された賜物、あえて与えて下さったものと言わずに、賜物と表現したいのですが、その中には、罪の赦しがあります。あの莫大な負債を返せなくて1万タラントの負債を赦された僕の話を思い出したいと思います。その1万タラントの負債を赦された僕はそれを賜物として用いて、友人を作るべきでした。仲間の僕を許すことによってです。しかし、悪い僕はそれをタラントとして用いませんでした。自分は赦されながらも、仲間のほんの小さな負債をゆるしてやろうとしなかったからです。
わたしたちは神さまから多くの罪を赦していただいている僕たちです。この賜物を生かして、人を赦すべきです。また多く赦された者は多く愛すると言われる通りに、赦されたものとしていただいた愛の賜物を用いて、人を愛し、友達を沢山作るべきです。
みなさん、わたしたちの主はどなたでしょうか。
13節.これを聞いたファリサイ派の人々は主イエスをせせら笑ったのでした。ファリサイ派の人々と律法学者が主イエスを嘲った場面がルカによる福音書にもう一度出てきます。ゴルゴタにおいてです。十字架につけられた主イエスに向かって「自分を救えないお前が、なんでキリストなのか、十字架から飛び降りて、自分を救え、そうしたら信じてやろう」。
主イエスは自分を救わないで、わたしたちを愛してくださいました。主イエスを嘲笑ったファリサイ派の人たちは自分を愛し、お金を愛し、人を愛さず、神さまを愛しませんでした。お金を愛して神を愛さず、自分を愛して人を愛さないファリサイ派の人たちは、この世をさる日には、友達が一人もいない、天に積んだ富がゼロの人たちなのです。パウロが「彼らはおのが腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていない」と言ったのはまさにファリサイ派のことでした。
そんなファリサイ派の人たちに、あなたがたはそうであってはならない、あなた方をも愛される神がおられる、あなた方も悔い改めて、罪人たちと一緒に悔い改めて、喜びの食卓につきなさいと呼びかけ、待っておられる父が天におられる、主イエスはそう語りかけておられるのです。
神様が、放蕩息子のような人々にも、ファリサイ派のような人々にも、どうか等しく悔い改めを与えてくださり、すべての人々が父なる神の期待に応えて一つ食卓を囲み、父なる神の喜びがコンプリート、百パーセントになる日が来ますように。
父と子と聖霊の御名によって。