聖日礼拝
「イエスとは何者か」
説  教 内田 聡 長老
旧約聖書
新約聖書 マタイによる福音書 11章 2〜19節

本日は、澤正幸牧師が柳川教会の伝道礼拝に講師として奉仕されますので、長老が説教の務めを担います。よろしくお願いします。
早いもので11月も今週で終わり、来週からは待降節、アドベントです。私が、かつて勤めていたラジオ局では、12月になるとクリスマスソングを流し、気分を盛り上げていました。同僚に「クリスマスって何の日か知ってる。」と尋ねると、「イエス・キリストの誕生日だろ。」と答えます。戯れに「そうか君もイエス様を神様だと思ってるんだね。」と言うと、慌てて、「いやいや、うちは代々浄土真宗だから。」と打ち消します。「でも、イエスはキリストなんだろう?」とは言わず、その場はやり過ごしました。多分、同僚はキリストをイエスのファミリーネームだと思っているのでしょう。
イエス・キリストという聖名は、それだけで短い信仰告白です。「イエスはキリスト、すなわち救世主である。」キリストは称号で、ファミリーネームではありません。キリスト教徒はこの救世主が神の子、神と同じであるとします。だから「イエス・キリスト」と聖名を言う者は、「イエス様は神様だ。」 と信仰告白していることになるのです。
もちろん「イエス・キリスト」と言う人が、全て神様を信じているわけではありません。でも、このような勘違いが聖書や礼拝にもあることにお気づきでしょうか。新約聖書はイエス様がキリストであることを前提に書かれています。旧約聖書はそれを基に読み直されます。
キリストを知らなければ、クリスマスは心温まるファンタジーでしょう。礼拝も厳かな洋風の儀式、或いはスピリチュアルな交わりでしょう。
私は今回の説教題を「イエスとは、何者か」にしました。少し不遜な響きがありますが、イエス様について、信者でない方にも共感できるよう聖書に聴いて参りたいと思います。

マタイによる福音書11章2節から3節。ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」
2節に「キリストのなさったことを聞いた」とありますが、キリストという言葉はヘブライ語のメシアをギリシャ語に翻訳したものです。この場面の登場人物はヘブライ語の文化圏にいました。従って「メシアのなさったことを聞いた」とする方が状況に合っていると思います。彼らはユダヤ教の伝統の中にいました。それはメシアを待ち望むものでした。

ヘブライ語のメシアは「油そそがれた者」という意味で、王様の称号です。最初の王はサウルでした。旧約聖書のサムエル記上10章1節には、「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされた」 とあります
このような王はダビデ、ソロモンと続きますが、バビロニアの捕囚によって途絶えます。ペルシャによって捕囚から解放されても王を立てることは出来ず、エルサレムの神殿を中心とした宗教共同体として残りました。400年近くも王のいない時代が続いたのです。

このような歴史の中でユダヤ人は二通りのメシアを待望します。一つは「ユダヤ人の王国を再建するダビデの血統であるメシア」です。この待望は、実際にハスモン王朝として具現化し100年続きました。しかし混乱や内紛の果てに、ローマ帝国によって制圧されます。イエスがいたのはこの時代です。福音書に出てくる熱心党はユダヤ人の王国を再建する王、メシアを待望していました。
もう一つは「ユダヤ人の王国を含めた世界そのものを、消滅し創造するメシア」です。絶望的な状況の中で、この世での救いを諦め、来るべき世に救いを求めるもので、黙示思想とも呼ばれます。(この黙示とはヨハネの黙示録の黙示のことです。) ユダヤ人の神、ヤハウエが天地を創造した唯一の神であることから生まれた幻、ヴィジョンと言えます。神による再創造の待望であり、担い手がメシアでした。洗礼者ヨハネは、その備えとして罪の悔い改めの洗礼を施していました。

いかかでしょう?アメリカから押し付けられた憲法を改正し、日本人の誇りを回復する強い指導者を期待すること。現実ではないファンタジーやゲームを好みヒーローやアイドルに憧れること。今の日本は、洗礼者ヨハネの頃と似ていると思いませんか? 違いは本当の神様を畏れないことです。ある人は言いました。「神様に祈るのは心の保険だ。人事を尽くして天命を待つという心持さ。」と。 しかし現実は、自分の力だけでは何ともしがたいことばかりです。予期せぬ事態に巻き込まれることもあります。その時「運が悪かった。」と諦めて気晴らしをするのか、「神様、どうしてですか?」と嘆くのか。 洗礼者ヨハネの頃なら「神様、憐れんで下さい。」と祈るでしょう。しかし、嘆く者には救いがあります。やり場のない問いかけは、本当の神様へ向うからです。知らない内に「イエス・キリスト」と信仰告白しているように。

洗礼者ヨハネは問いかけます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」

洗礼者ヨハネは過去にイエスと出会っています。 「私こそ、あなたから洗礼をうけるべきなのに」と言って、イエスをメシアと思ったのかもしれません。メシアの業は、牢の中にいても聞こえて来ます。彼には、弟子たちを遣わしてでも確認したいことがありました。黙示思想のメシアは、始めに世を滅ぼす者だからです。彼自身、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」  「わたしの後から来る方」は「手に箕(み)を持って脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」と語りました。イエスは、そのようなメシアでしょうか?

イエスは答えます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」

イエスの答えは何かの譬え話ではありません。洗礼者ヨハネの弟子たちが見聞きしていること、今、ここで起こっている出来事です。  彼は、この答えをどう聞いたでしょう?
「それはイザヤ書で預言された奇跡のこと。そのような奇跡は昔からあった。イエスは自分の周りの不幸な人々に救いをもたらすだけか。この世を滅ぼして、新しい世を来たらせる者ではないのか。」 と思ったでしょうか。

イエスは語ります。「わたしにつまずかない人は幸いである」

7節からはイエスが洗礼者ヨハネについて語ります。洗礼者ヨハネとは何者か。14節、「彼は現れるはずのエリヤである。」 エリヤとは列王記に登場する預言者です。先ほど朗読していただいたマラキ書3章23節に、「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤを遣わす。」とあります。実は預言者も「油注がれた者」としてメシアの称号がありました。再来の預言者エリヤは、人々が待ち望んでいたメシアです。彼の使命は神様への立ち帰りでした。24節「彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって この地をうつことがないように。」 と。洗礼者ヨハネはメシアの使命を行っていました。メシアを待ち望んでいた洗礼者ヨハネが実はメシアだった?! では、彼が問うている「来るべき方」とは、何者でしょう。

 

ここまで、私はキリスト教の信者でない方にも共感できるよう聖書に聴いて参りました。ここからはキリスト教の神学の助けを必要とします。神学はイエスがキリストであることを前提として、どのように理解するかという学問です。
イエス・キリストが何者であるかについて、神学の答えの一つは「真の神にして真の人」です。日本キリスト教会信仰の告白でも、「我らが主と崇むる神の独り子イエス・キリストは、真の神にして真の人」と冒頭に告白しています。これは両性論といって、古代教会の会議にまでさかのぼる伝統的な理解です。私は今、九州バプテスト神学校でカール・バルトの教義学を聴講していますが、イエス・キリストの本性に関する講義で、「真の神」とは「われわれに代わって審かれ給うた者としての、審判者」という逆説的な表現を知りました。これ自体はイエス・キリストの十字架の出来事を表現しているのですが 「イエスは審判者であって、われわれを裁くために来た」というのは意外でした。イエスは救済者であると思っていたからです。
イエスが審判者であるとすれば、洗礼者ヨハネが待ち望んだ「来るべき方」とも合致します。イエスが捕えられた時、剣を取ってイエスを守ろうとした若者に、「お願いすれば、
父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」と言ったのはハッタリではなかったのです。イエスが裁く者から裁かれる者に転換したのは、ゲツセマネの祈りからと学びました。では、それまでのイエスの活動は何だったのでしょう。居丈高に罪を罰しようとする審判者には見えません。

イエスは「神の国」を伝えました。「神の国」、実はこれこそが救いであり、裁きであったと思います。本日の御言葉に戻ります。12節に「天の国は力ずくで襲われており激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」とあります。天の国はイエスが伝える神の国。今、そこが襲われているのです。その場所は5節で語られた人々がいる所、人生の不条理や社会の理不尽で苦しむ人々に、神の救いが実現している現場です。そこを力ずくで激しく襲う者とは誰でしょう。不幸な人々を不幸な状態のままにしている者たち。自らの幸いを実感するため、他人の不幸を望んでいる者たち 排除や差別は彼らが作り出すのでしょう。「神の国」は人々の心の内にあるものを自覚させます。何とも居心地が悪い、裁きです。
13節「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」 神の裁きを無効にするための屁理屈はもはや通用しません。神の救いの出来事は、今、起こっています。預言者と律法がその役割を変えてしまう出来事、それが今、起こっています。出来事を前にして、わたしたちには然りか、否かしかありません。救いと裁き。「神の国」を実現するイエスこそ、世の審判者であり、洗礼者ヨハネが待ち望んだ「来るべき方」でしょう。

イエスは、続けて奇妙な譬え話をします。今の時代は広場で呼びかける子供たちに似ていると。「笛を吹いたのに 踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに 悲しんでくれなかった。」 これは結婚式ごっこと葬式ごっこの遊びです。しかし「神の国」の真相を知る時、それは審判の言葉になります。結婚式、それは「神の国」を受け入れ救われた者が、神と共に過ごす祝宴です。葬式、それは「神の国」を受け入れず裁かれた者が、自ら滅びへと至る儀式です。子供たちが審判を呼びかけるのに、大人たちは踊ることも悲しむこともしません。世の審判は来ているのに、人々は気づきません。
それは彼らが待ち望んだ世の審判とは違っているからです。先ほどのマラキ書には「主の日」としてこう書かれています。マラキ書3章19節 「見よ、その日が来る 炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は 全てわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。」 そして20節「しかし、わが名を恐れ敬うあなたたちには 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て飛び回る。」 いかがでしょう。 順序が逆ですね。裁きの後に救い、子供の遊びで言えば、葬式ごっこの後に結婚式ごっこがあるべきなのです。高慢な者、悪を行う者が裁かれて、神すなわち正義を、恐れ敬う者が救われる。そちらの方が、理屈が通ると思うのです。

わたしたちは嘆いています。「どうして社会に不公正があるのか。どうして戦争があるのか。どうして災害があるのか。悪人は喜び、善人は悲しむ。神はどこにいるのか。」と。
この嘆きは洗礼者ヨハネの時代も同じです。それ故に義しい神による世の裁きを、第一に望むのでしょう。勧善懲悪のヒーローを求めているなら、わたしたちの時代も変わりません。しかし、「全ては自己責任。不運は誰にでもある。神様はあなたの願望に過ぎない。愚痴を言うな。そこから逃げるな。もっと頑張れ。」という声が現実に連れ戻します。今、わたしたちの嘆きを聞いてくれる者はいません。或いは嘆きに付け込むカルトの神々なら聞くかもしれません。真の神は、「力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」のです。

「イエスとは、何者か」 キリスト教徒はイエスがキリストであることを知っています。彼は人々が待ち望んだメシア以上の方。「来るべき方」。世を裁くよりも先に救われる、真の神です。先週の説教で「福岡城南教会には愛がない。」と言った方がいると聞きました。それはわたしたちに悔い改めを促すものでした。しかしイエス・キリストはそのように語るより先に、福岡城南教会を愛されます。わたしたちはその愛に満たされているということを第一に受け止めましょう。イエス・キリストが奏でる笛の音に合わせて、素直に喜んで踊りましょう。喜びの輪を広げるため、「神の国」を伝えましょう。聞く人によっては葬式の歌になるかもしれません。その人のためには胸を叩いて悲しみましょう。悲しみが届き、自ら滅びに至っていることに気付いて、その人が救われるかも知れません。
とは言え、「神の国」をどのように伝えれば良いでしょう。日本キリスト教会信仰の告白を暗唱しましょうか。或いはニカイア信条ですか?幸いなことに現在の礼拝では澤正幸牧師によって「ルカによる福音書」の連続講解説教か行われています。使徒たちの手紙や旧約聖書ではありません。ゲツセマネの祈りよりも前で、イエス・キリストの言葉と業についての記事です。まさしく「神の国」そのもの。それを聞いて思ったこと、感じたことを、あなたなりのやり方で伝えれば良いのだと思います。「不信仰な私がそんなことをしたら、躓かせるかもしれない。」 確かにイエス・キリストは躓きの石です。但しあなたに躓くのではありません。イエス・キリストに躓くのです。躓かなければ、救いも裁きもありません。

「わたしにつまずかない人は幸いである」と、イエス・キリストは語りました。しかし全ての人が躓いたのです。全ての人が裁かれる対象だったのです。その身代わりにイエス・キリストは十字架で裁かれました。裁くよりも救う、真の神だからです。裁かれる神。このような神を神と言えるのでしょうか。否、裁かれたのは人です。イエス・キリストが身代わりになった全ての人です。救うために裁かれた、真の人です。十字架はイエス・キリストの真の神と真の人によって、わたしたちの躓きを完全に解決します。
それは神学的には罪の贖いということになるのですが、罪について、私は少し勘違いしていました。「罪とはアダムが犯した原罪や十戒を中心とした律法違反のこと。十字架が罪を贖ったのなら、なぜ罪の告白の祈りをするのか。贖いは不完全だったのか。」 と。
イエス・キリストから離れ抽象的に考えていたようです。本日の聖句に「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」とありました。イエス・キリストが「神の国」を伝えてから、罪についても新しい理解が始まるのです。 「神の国」が預言を成就し、律法を完成するからです。それは新しい目標になりました。だからイエス・キリストを鏡とした時、今の自分の歪みが罪なのです。イエス・キリストの十字架は、罪を赦しただけでなく罪から救います。罪人から義人へと向かう方向性を持つのです。
だから罪を恐れずに進んで参りましょう。わたしたちは罪責感に駆られた、自己犠牲を求められているのではありません。躓いて倒れたままなら滅びですが、イエス・キリストは倒れても立ち上がる道を開いてくれました。わたしたちはイエス・キリストを目指して、何度でも躓き、何度でも立ち上がります。そのようにして、わたしたちはイエス・キリストと似たものになり、「神の国」は広がっていくのでしょう。

来月から待降節、アドベントです。「神様、どうしてですか?」と嘆く人々に、イエス様が何者であるか。あなたの「イエス・キリスト」を伝えてください。信仰告白は神様ではなく、隣り人にするものです。

お祈りいたします。

父なる神様、この世を憐れんで下さい。
わたしたちは、人生の不条理や社会の理不尽に苦しみ、嘆いていいます。
御子によって啓かれた神の国は、激しく襲う者によって空しくされています。
この世の力を恐れ、目先の快楽を求め、あなたを忘れる罪をお赦しください。
御子を信仰の鏡とし、神を忘れた世にあっても、教会が救いとなりますように。
わたしたちが、裁き合うことから赦し合い、赦し合うことから愛し合うように。
御子が再び来たり給う日、神の国の完成を待ち望みます。
この祈りをイエス・キリストの御名によって受け入れたまえ。
アーメン。