聖日礼拝
「主イエスの最も小さい兄妹ラザロ」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 申命記14章 22〜29節
新約聖書 ルカによる福音書 16章 16〜31節

今日は「金持ちとラザロ」の箇所からみ言葉に聞きたいと思います。説教の前の聖書朗読で、その前の16節から聖書を読んでいただいたのは、「金持ちとラザロ」の話の終わりが、29節と31節にありますように「モーセと預言者」という言葉で締めくくられているからです。
29節、31節
ここに出てくる「モーセと預言者」と16節の「律法と預言者」とが、「金持ちとラザロ」の話の初めと終わりをちょうどカッコのようにくくっています。

「モーセの律法と預言者」に耳を傾けるとはどういうことでしょうか。それを主イエスは次のように言われました。マタイによる福音書22章34節以下です。
「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(22章40節)

「金持ちとラザロ」の話に出てくる金持ちはこの二つの戒めに耳を傾けて、それに服従しようとしていたでしょうか。

19節〜21節
金持ちとラザロ。これは一方に目の眩むほど富んでいる人々がおり、他方にその日の食べ物に事欠き、満足な医療も受けられずに、貧困に苦しむ人々がいる、わたしたちが生きている21世紀の世界の現実の姿でもあります。

金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
「遊び暮らす」と訳された言葉は、楽しんで祝いの食事をするという意味です。ぜいたくに、という言葉は聖書の原語では、煌々と明かりが灯っているというニュアンスです。きらびやかさです。金持ちには、毎日、来る日も来る日も、死を迎えるまで、生きている間中ずっと、そのような暮らしが続くのです。
「遊び暮らす」すなわち、楽しんで祝いの食事をするという言葉は、放蕩息子の喩えの中にも出てきます。15章22節です。放蕩息子の話では、帰ってきた息子のことで父親が喜んで食事を喜び楽しみます。主イエスにとっては、悔い改めて主イエスと一緒にいる徴税人、罪人のことで喜び祝う食事です。先ほど読んでいただいた申命記でも、そこには町の中にいる寄留者、孤児、寡婦が共に食べて満ち足りるそういう喜びと祝いの食事です。
でも金持ちの食卓は、自分だけが喜び楽しむ食事でした。そこには一緒に喜ぶ友がいません。ラザロはそこに招かれないのです。
間も無くクリスマスを迎えます。煌々と輝くイリュミネーションのもとで、人々は美味しい食事をいただいて楽しもうとしますが、かたやガザやウクライナではミサイルに怯え、破壊された家や町の中で、寒さに震えている人々がいます。
世界を覆っている深い、深い闇は、ガザやウクライナだけにあるのではないと思います。一方に金持ちが、他方にラザロがいる、それがわたしたちの生きているこの世界の暗さであり闇なのです。

22節〜25節
金持ちの生涯は、毎日が、死ぬまで毎日が幸せな日々でした。そうして彼は生涯を満ち足りた思いで閉じます。かたやラザロはだれにも看取られることなく、それゆえ、彼を葬ってくれる人もいない中で世をさります。
しかし、だれも葬ってくれなかった彼は天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れてゆかれます。そして、そこでラザロは慰めを受けるとあります。
地上において顧みられなかったラザロ、だれも悲しむラザロを慰めず、痛み苦しむ彼を癒さず、だれ一人孤独な彼の友とならなかったラザロを神様が天において慰めてくださると言うのです。

皆さん、なぜ神さまはラザロが死んでから彼を慰められるのでしょうか。神さまは、なぜ、彼が地上に生きている間に慰めようとなさらないのでしょうか。
神さまは自らラザロを助けることがおできになるでしょう。ラザロという名前は、「神は助けたもう」という意味です。
神さまの御心は、モーセと預言者を通して告げ示されています。神さまの御心はラザロが、彼の隣にいる隣人を通して助けられることなのです。
金持ちはその隣人の一人でした。金持ちが与えられている富は、ラザロを助けるために神が彼に託されたタラントだったのです。

26節〜28節
金持ちは陰府でさいなまれ、炎の中でもだえ苦しみます。この悶え苦しむと訳されている言葉の原語は、試金石という言葉で、この苦しみは金持ちの本質を明らかにするという意味があるのだと思います。彼は苦しみの中で自分のしたことが何だったかを知るようになります。彼はラザロに目をくれようともしなかったこと、彼を完全に無視したことを思い起こします。金持ちにとってラザロは存在しなかったことを認め、悟るようになります。しかし、いまさら後悔しても遅いのです。もう一度やり直すことはできないからです。そこで、彼はせめて自分の兄弟たちが同じ後悔を味わわないで済むようにしたいと願います。

29〜31節
死者がよみがえって、生きているものたちに警告したら、悔い改めるのではないかという金持ちの考えを、アブラハムはきっぱりとしりぞけます。
わたしたちはこれをどう理解したら良いのでしょうか。
生きている地上の世界と、死後の世界は両方とも、同じ神さまが同じ仕方で支配なさるところだということではないでしょうか。

わたしたちが生きている、この地上の世界においても、神さまは律法と預言者を通して、神さまの栄光を輝かせておられます。そして、ヨハネの時以来、主イエスによる福音の宣教が始まり、人々は神の国の栄光をいよいよはっきりと仰ぎ、その喜びに突入し始めている、それが16節で語られている意味だと思います。
神さまは死んだ後に天国でラザロたち、貧しく苦しむ人たちを慰められるだけでなく、今、この地上において、わたしたちを通して、それらの人々が慰められ、助けられることを望まれます。それが神の国の栄光なのです。

そのような神の国の栄光が地上において完全に輝くことはないでしょう。しかし、わたしたちが、地上において、終わりの日にわたしたちを待ち受けている神さまとともに喜ぶ食卓を待ち望みながら、その日に向かって一歩、一歩進んで行けること、それはわたしたちにとって大きな幸であり、喜びであり、栄光なのです。

わたしたちの教会の食卓は、わたしたちの救いだけを喜ぶ食卓であってはなりません。寄留者、つまり故郷を離れて日本で暮らす外国人の人たち、孤児、寡婦、身寄りのない、助けを必要としている人たちに、神さまがわたしたちを通して助けの手を差し伸べられ、満ち足りる姿を共に喜ぶ食卓であること、それが神さまの御心なのです。

神の国、天において神さまと共に喜ぶ食卓を目指して、今日も主の食卓を囲みましょう。

父と子と聖霊の御名によって