聖日礼拝
「答えを待たれる父なる神」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇 133編 1〜3節
新約聖書 ルカによる福音書 15章 11〜32節

ルカによる福音書15章に書かれている3つの例え話は、共通のテーマのもとに書かれた例え話です。聖書につけられた見出しによれば、最初が、「見失った羊」のたとえ、二番目が「なくした銀貨」のたとえ、そして、最後のたとえは「いなくなった息子」の喩えで、いずれも、いなくなっていたものが見つかった喜びを伝えています。

その場合、主人公となっているのはだれかといえば、最初のたとえではいなくなった、迷い出た一匹の羊ではなくて、その羊を捜し、発見して喜ぶ羊飼ではないでしょうか。また第二のたとえでも、主人公は女の人が持っていた10枚の銀貨のうちのなくなった一枚ではなくて、それを一生懸命に捜して、ついに見つけた女の人でしょう。

それでは、三番目のしばしば、「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる、今日読んでいるたとえの主人公はだれでしょうか。このたとえの主人公を帰ってきた息子であるかのように読むとすれば、それは15章の3つのたとえを一貫したテーマのもとで読む読み方から外れることになるでしょう。一貫した読み方をするなら、三番目のたとえもいなくなっていた息子が見つかったと言って喜ぶ父親が主人公であるはずです。

この父親には息子が二人いました。そのうちの一人について、父親はいなくなっていたのに見つかった、死んでいたのに生き返ったと言って大喜びします。しかし、大喜びする父親の傍らで、もう一人の息子は父親に反発し、家の外に立ったまま、中に入ろうとしません。

25〜28節
15章の3つの例えは、欠けていたものが満たされる喜びをテーマにしていると言えるでしょう。羊飼が所有していたのは100匹の羊です、その内一匹でも欠ければ、100匹になりません。また女の人が持っていたのも10枚の銀貨です。そのうち一枚がなくなれば、10枚になりません。一つも欠けることなく全部が揃って、初めて羊飼いも、女の人も大喜びするのです。そう考えれば、今日のたとえでも、息子を二人もつ父親は、息子が二人揃って初めて喜ぶことができるのです。

このたとえでは、父親はいなくなっていた弟が見つかったことを喜んでいますが、その喜びだけではまだ半分しか喜びは実現していないのです。反発して家に入ろうとしない兄が家に入るよう、父親は家の外に出て行って、兄を説得します。兄がその説得を聞き入れて弟の帰りを一緒に喜ぶ、その喜びを父親は目指します。

結局、兄は父の言葉を聞き入れて、家の中に入ったのでしょうか。そうして父親の喜びは満たされるようになったのでしょうか。聖書はそれを未解決のまま、オープンな状態にしています。

28節、31節
この兄とはだれのことで、また弟とはだれのことでしょうか。主イエスは、主イエスの話を聞こうとして近寄ってきた、徴税人や罪人たちを、たとえに出てくる弟になぞらえ、その人たちと食事を共にされる主イエスに文句を言ったファリサイ派の人々や律法学者を兄になぞらえておられるのです。

15章1〜2節
兄が、弟の無事の帰りを喜び祝う食卓につこうとしなかったように、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、主イエスが徴税人や罪人たちと共に祝う喜びの食事に加わろうとはしませんでした。

それゆえに、この例え話に出てくる外に出て兄を説得する父親の姿は、この例えを語って、主イエスが徴税人や罪人たちと共に祝う喜びの食事に加わるようにファリサイ派の人々や律法学者たちに語りかける主イエスの姿そのものだと言えます。

このたとえは、神の喜びの実現を目指しています。喜びが実現する日を目指して働かれる神を示しています。羊飼いのように、女の人のように、神さまもまた、いなくなった一人の罪人を捜し求め、それが見つかったとき、大喜びなさいます。その神さまの喜びは、ファリサイ派の人々や律法学者たちが食卓に加わろうとしない限り、完成しないのです。

父親に反発する兄は非難されるべきでしょうか。いいえ、父親は兄に少しも非難めいたことを言っていません。父親は兄を愛しているのです。兄は父親に愛されています。食卓に加わろうとしないファリサイ派の人々や律法学者たちも同じです。父なる神さまも、主イエスもファリサイ派の人々や律法学者たちを愛しておられます。彼らは神から愛されている人たちなのです。

兄のような立場にあった人、ファリサイ派の律法学者だった人で、主イエスの招きを受け入れるようになった人がいます。ファリサイ派の律法学者だったときはサウロと呼ばれ、のちにキリストの使徒と呼ばれるようになったパウロです。

サウロを回心させてパウロにしてくださったのはダマスコ途上で彼に現れてくださった主イエスでした。その回心はただ、奇跡というほかない一方的なめぐみの出来事でした。

でも、それを後から振り返ってみたときに考えられることがあります。たとえ話で言えば、兄も自分が息子たちを持つようになって、自分が父親の立場に立つようになったら、父親の思いが少しはわかるようになるのではないかということです。

兄は弟が許せません。弟の生き方が許せないし、そんな弟を憐れに思って受け入れ、許してしまう父親を受け入れることができないのです。それを受け入れ、弟と父を認めるということは、兄人とって自分の生き方が全否定されることだからです。

しかし、自分が父親になってみれば、自分の息子たちが家を出て行ってしまうことは、しばしば起こりうることです。そして、それは父親として最大の悲しみです。一人は弟のように家を出てしまう、もう一人は父親が弟を受け入れようとするのに反発して兄のように家から出て行ってしまう。こうして家族がバラバラになってしまう。

本来、一つの家族が、一人も欠けることなく、全員揃って、一つの食卓を囲み、喜びを共にすること、それはなんという恵み、なんという喜びでしょう。

この家族の分断は、神を父とする全人類、諸民族の分断と対立、様々な宗教に分かれているわたしたちの世界の分断に通じています。すべての人が神を父として、一つの食卓につく喜び、それは、わたしたちの喜びであるより、だれよりもまず父なる神御自身が願い求め、目指しておられる喜びなのです。

外に出て兄を説得する例えの中の父親のように、父なる神は今日も、主イエスの御言葉を通して、その、み声を通してすべての人に呼びかけておられます。

32節
主イエスを罪人の一人として十字架の死に渡された神は、主イエスを死者の中から復活させられました。こうしてすべての罪人をご自身の愛する子たちとして父なる神の家族の交わりに連れ戻してくださったのです。だから共に喜び祝おうではないかとすべての人に呼びかけられます。

その喜びの食卓にすべての人が連なる日、神の喜びが実現する日を目指しつつ、今日も、その終わりの祝宴をあらかじめ告げ示す聖餐の食卓を感謝と喜びのうちに守りたいと思います。

父と子と聖霊の御名によって。