聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第74回
「神はお返しのできない人を招かれる」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩編 133編 1節
新約聖書 ルカによる福音書 14章 7〜14節

7節 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。

今日読んでいるテキストには、「客と招待する者への教訓」という見出しがついています。すぐ前の14章1節に「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった」と書かれています。主イエスはこの時、ファリサイ派の人に招かれて、その家の客となっていました。その食事の席には、主イエスとともに招待を受けて、共に食卓についていた人たちがいました。その人たちは3節に律法の専門家たちやファリサイ派の人々だったとあります。
8節以下には、主イエスがその席に共に招かれていた人たちに向けて語られた教訓が記されています。
そして、後半の12節以下には、主イエスを招いてくれた人に対して語られた言葉が書かれています。

主イエスは同席の人たちの様子を見ておられました。彼らは上席を選ぼうとしていました。
自分は上から数えて何番目の席に着いたら良いのか。そこに招かれている客の中でだれがどこに座るのか、それはわたしたちも例えば結婚式の披露宴を催す時、招待客の席順について神経を使うことで経験していることです。
もしそれが、イギリスの王室が主催する結婚式だったら、その席順をゆるがせにすることはできないでしょう。日本の皇室のメンバーが招かれる場合、どこに座るか、まかり間違えば外交問題に発展しかねません。

8〜11節

主イエスの時代のある書物に、招かれたら自分が思う席より2〜3番目の下の席に座るのが良いと書かれていたそうです。あまり卑下するのもかえってわざとらしいからです。
後半の部分もわたしたちには身の覚えのあることです。

12〜14節

わたしたちも食事に招くのはまずもって、「友人、兄弟、親類」でしょう。それに加えて、「近所の金持ち」を招くかもしれません。しかし、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人をことさらに招くでしょうか。そういうことはしないと思います。

そして、人を招いたら、反対に自分も招待を受けることを期待します。
この世においては、果たすべき義理があります。招かれたら、招き返すべきです。
もし、相手が、自分と不釣り合いなくらい地位が高いとか、自分がおよびもつかないほどの金持ちだとしたら、たといそのような人から招かれても、その人を招き返すことができそうもない、そう思って招待を辞退しようと考えるかもしれません。
また体が不自由で車椅子を使わなければならない人、目が見えない人、耳が聞こえない人など、様々なハンディを抱えている人は、自分を招いてくれた人にかえって迷惑がかかることを気にして、出かけて行っていいかどうか、考えるかもしれません。

こうしてわたしたちが招く人の範囲は、自ずと限られて行きます。あまりに身分の高い人は招かないし、そもそも、そちら側から招待に応じようとはしない可能性が高いでしょう。また、招待したらかえって気まずい思いをするかもしれない人は、あえて招かないようにしようと考えるかもしれない、それがわたしたちの現実ではないでしょうか。

神さまはわたしたちのこの世界の有様をよくご存知です。主イエスがこのとき、招待を受けた客の様子をじっとご覧になっていたように、神さまもこの世界の現実を見ておいでになります。

そこで問いたいことがあります。「婚宴に招かれたら、上席についてはならない」と言われた主イエスは、このとき、どこに座られたのでしょうか。
このとき、主イエスを招いた人は、主イエスにどこの席を、何番目の席を用意していたのでしょう。また同席していた人たちは、主イエスの上座に座ろうと考えたのか、下座に座ろうと考えたのか。

神さまは上から、この世界をご覧になるだけではありません。神さまは主イエスにおいて、この世に来られたのです。

ここで語られている教訓はかなり具体的なものであり、受け取りようによっては、謙譲の美徳の勧め、守るべきエチケットが教えられていると思われる可能性があります。しかし、主イエスは「たとえ」を語られたと言われています。どういう意味でこれが「たとえ」なのかと言えば、主イエスが語ろうとされるのが、一般的な世俗の結婚式のことではないからです。主イエスが語ろうとしておられるのは神の国の食事に関わることなのです。

神の国の食事は、神が父として、ご自身の愛する子どもたちを招いてくださる食卓です。その食卓につく者たちは等しく父なる神に愛されている神の子たちであり、互いに兄弟姉妹です。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133:1)

もし、そこに席順があるとしたら、兄弟姉妹の間の順序です。東洋では長幼の序がありますが、本来、兄と弟、姉と妹の間に上下はありません。兄弟姉妹は互いに対等です。わたしたちにとって、世界中の人が、民族や人種や文化を超えて、共に兄弟姉妹として一つの食卓にあずかれる喜びと幸は何にもまさるものです。

もう一度問いたいと思います。「宴会を催す時は、お返しのできない人を招きなさい」と言われた主イエスは、だれを招いて食事をなさったでしょうか。
みなさん、皆さんが招く客の中に主イエスはいるでしょうか。もし主イエスが皆さんの招かれる客人であるなら、マタイによる福音書25章35節で「お前たちは、わたしが飢えていた時に食べさせ、乾いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」と言われるように、主イエスの兄弟である、いと小さい人、お返しのできないこれらの人たちはまさにわたしたちが招くべき、主イエスご自身なのです。

主イエスだけでなく、主イエスの父なる神も神の国の食卓に、あらゆる人々を招かれます。父なる神にとって、その人の目が見えているか、見えないかは、その人を父として愛するときなんの問題にもならないからです。黒人か、白人か、あるいは黄色人種か、父なる神にとっては皆等しく愛する子どもたちであることに何ら変わりがありません。父なる神は、わたしたちを父なる神の子どもたちとして食卓に招く時、わたしたちから見返りを期待されません。

父なる神が、わたしたちを父なる神の子どもたちとして食卓に招く、その招きはこの世の、招かれたら招き返す、いただいたら必ずお返しをする、迷惑をかけることを気にする、そういった食卓とは全く違います。わたしたちは、等しく父なる神に愛されている者たちとして、なんの気兼ねも、心配も、遠慮も気後れもなしに、招きに応じることができます。

それゆえに、わたしたち自身、父なる神の招きに預かっている者たちとして、お返しのできない人たちを招きなさいと主イエスは言われます。お返しのできない人が招かれることを願っておられる父なる神が、その人たちに代わって報いてくださるからです。

わたしたちの礼拝は、主イエスがわたしたちの兄弟となってくださった恵み、その主イエスによって、神がわたしたちの父となってくださった恵みへの招きです。今から預かる聖餐の食卓は、神が父としてわたしたちをご自身の子どもたちとして養って下さる恵みです。わたしたちは、心から主を褒め称えて歌います。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、何という喜び。」

父と子と聖霊の御名によって。