聖日礼拝「泉となる水を飲ませてください」
説教 谷村禎一
旧約聖書 イザヤ書 12章 1〜3節
新約聖書 ヨハネによる福音書 4章 7〜26節
今日はみなさんもよくご存知のサマリアの女性と主イエスの井戸端での対話の箇所からみ言葉に聴きたいと思います。
私たちの体の半分は水なので、水なしで生きることはできません。日本は水源が豊富で、特に最近の雨の量は災害をもたらすほどです。旧約、新約聖書の舞台は、今、イスラエルとパレスチナの戦争が起こっているところです。パレスチナ地方は、年平均降水量が平均400mmほどしかなく、一年を通して雨が降らないことがあります。水はとても貴重であり、命綱です。現在、パレスチナの人は、ガザに加えて、ヨルダン川西岸に住んでいます。であれば、ヨルダン川を水源にできると思われるのですが、ヨルダン川沿岸はイスラエルの入植地と壁ができており、パレスチナの人々はヨルダン川の水を使うことができません。イスラエルとパレスチナの問題は水資源を巡る紛争でもあるのです。
さて、皆さん、「マイム!マイム!(Mayim Mayim)」というフォークダンスを踊ったことがありませんか?私は小学生の時にその意味も知らないで踊っていました。というのは、マイム!マイム!は、ヘブライ語の歌だったからです。「マイム」はヘブライ語で「水」のことで、歌詞の「マイム・べッサーソーン」という部分は先ほど読んでいただいたイザヤ書12章3節の「わたしは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」から来ています。雨の降らない国で、井戸を掘って水が出てきたときの喜びを歌ったもので、イスラエルで作曲されました。今日は、「マイム・べッサーソーン」つまり、喜びのうちに救いの泉から水を汲むことがテーマです。
ヨハネの福音書4章3節にありますが、イエスと弟子たちは、南のユダヤを去り、サマリアを通って、北のガリラヤへ移動していた途中、イエスは疲れて井戸端で休まれ、弟子たちは食べ物を買うために出かけていました。ある訳では「イエスは疲れ果ててそのまま座り込んでいた」とあり、かなりお疲れの様子です。このような人間的な描写は新約聖書でここにだけあります。ユダヤ人はガリラヤへの移動する時、サマリア人と会わないようにサマリアを避けて遠回りしました。サマリアを通れば平地ですが、サマリアを避けるには高低差がある道を通らなければなりませんでした。よきサマリア人の出来事はエルサレムからエリコへの道の出来事でしたが、サマリアを通らない迂回ルートでした。イエスと弟子たちはサマリアを通り旅をされましたが、それでも途中での宿泊が必要な長い旅でした。現在、サマリアの地域はナーブルスという県ですが、パレスチナ自治区で、ヨルダン川西岸地区のゲリジム山の近くにあります。ゲリジム山麓の村にはサマリア人社会が今もあるそうです。
ヨハネの福音書4章5節にヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあるシカルというサマリアの町に着いてとありますが、創世記 第33章18 ~ 20節に「ヤコブは、天幕を張った土地の一部を、シケムの父ハモルの息子たちから百ケシタで買い取り、そこに祭壇を建て」とあります。そこに掘られた井戸が「ヤコブの井戸」と呼ばれていると推測できます。主イエスは由緒ある井戸の傍らで休んでおられたのです。現在も、昔、サマリアであったナーブルス県の町はずれある井戸がヤコブの泉であると思われています。創世記が書かれたのは紀元前5世紀ころですから、この箇所の地域は7千年以上にわたって辿ることができるわけです。
サマリア人についてはご存知だと思いますが、復習をしておきます。ソロモンの死後、イスラエル王国は、南北に分裂します。北王国が紀元前722年にアッシリアに侵略され、民族が混じり合うことになりました。彼らはモーセ5書だけに基づき、ゲリジム山に神殿を建てました。それが、ヨハネの福音書4章20節にある山のことです。その結果、ユダヤ人は民族の純血性、宗教が違うという理由で北のサマリア人を差別して軽蔑することになったのです。
この時代、女性がいかに差別されていたかは皆さんご存知だと思います。宗教的にも差別され、神殿で女性が入れるのは婦人広場までであり、奴隷並みの権利しか与えられていませんでした。外出するときには顔を隠し、外であまり話をしてはならなった。ところが、イエスの女性に対する態度はまったく違っていました。それは、この箇所を読んでも、福音書でイエスが女性と話す場面を読んでもわかります。4章27節で、戻ってきた弟子たちが、イエスが女性と話しているのを見て驚いたとあります。イエスの裁判において、女性と話をしていたことが告訴に含まれていたとある聖書学者は書いています。
イエスが休んでおられると、正午頃にサマリアの女が水を汲みにきました。水を汲むのは女性の仕事で、朝と夕方の涼しい時間が通常だったので、昼間に一人で来たのは普通ではないことでした。イエスは女を見て「水を飲ませてください」と言われました。ユダヤ人のイエスが、サマリア人の女性に声をかけるという行動は想定外の出来事です。男性同士でもお互いに無視していて、さらに男性が身も知らぬ女性に言葉をかけるのはありえないことでした。女性という壁と、サマリア人という壁があるのですが、イエスはこの2つの壁を越えて、というか全く壁とは思われないで話しかけられました。9節で女は驚きました。女は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしにどうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」
11節、15節で女は「主よ」という呼びかけをしていますが、「主よ」ではなく「旅の方」と訳している聖書があります。15節でサマリアの女は、「ここに汲みに来なくていいように、その水をください」と言っていますが、イエスが述べる「水」の意味をまだ理解していないように読めます。16節でイエスから「あなたの夫をここに連れてきなさい」と言われて初めて、サマリアの女はハッとするのです。そこから「主よ」という呼びかけになるのです。
イエスは、この女性が5回の離婚をして、今は結婚していない男性と同棲していることをなぜご存知だったのでしょうか。噂話がイエスの耳にさえ入るほど知られていたのかもしれません。しかし、5回離婚するというは、当時の結婚についての社会規範から考えると極めて稀だと思われます。アッシリアは北王国を滅ぼして5つの町から異邦人をサマリアに招き入れたという歴史的記述が列王記下(17:24)にありますので、5人の夫をその象徴ととる人々もいます。
サマリアの女性は不道徳な女であったという聖書註解、説教がほとんどです。例えば、宗教改革者のカルバンは次のように書いています。「彼女が強情で不従順な女だったので、夫たちがいたたまれずに離婚した」「彼女は娼婦であった」。このように、サマリアの女は誤解されてきました。福音書に登場する女性は、マグラダのマリアにしても、姦淫の女にしても、またサマリアの女にしても、皆、罪の女であったことが強調して語られます。しかし、罪は男性の側にも等しくあるのではないでしょうか。
当時の律法で、5回の離婚が可能であったかは疑問です。父親が結婚相手を決めることが習わしでした。離婚は夫の側からしかできなく、理由は述べる必要がありません。何回か離婚した女性が別の男性と結婚することはありえないという見方があります。サマリアの女は旧約聖書をよく理解しており、イエスにとても鋭い質問をしています。そして「わたしがメシアである」という、これまでイエスが他人にはほとんど明らかにしていなかったことを、この女性には告げたのです。実際、会話でイエスがサマリアの女の罪を指摘している言葉はありません。「あなたの言ったことはほんとうである」とだけ言われています。彼女は、どこで礼拝をすべきかとイエスに訊ねます。これだけ長い女性とイエスの会話が聖書に書かれている箇所は他にありません。彼女は聡明な女性であると思います。このような読み方を私は、米国の女性の新約学者Caryn Reederの主張から学びました。新約学者Reederは、これまでサマリアの女が偏見を持って読まれてきたことを指摘しました。サマリアの女性はイエスと出会い、驚いて村に帰り、救い主に会ったことを皆に伝えました。もし、村人たちが彼女を見下し、のけものにしていたのなら、彼女が知らせることなど誰も聞きもしなかったでしょう。しかし、村の多くのサマリア人は、女性が伝えたことを信じて、イエスを呼んで村に留まってくれるように頼んでいます。
私たちが心にとめるべき大切なことは、イエスの福音は、男女の違いによる差別、民族の違いによる偏見を乗り越えて世界中に広がるということです。また、礼拝は、特定の神殿で捧げられるものではなく、霊と真理とをもって礼拝することだとイエスは教えられます。霊と真理は目に見えません。
さて、サマリアの女は皆にメシアの知らせを伝えるために水がめを置いたまま行ってしまいました。一方、イエスは長い対話が終わって、弟子たちが戻ってきて、ようやく水を飲むことができたのでしょうか。このことは聖書に書かれていません。
このサマリアの女性の伝道の働きによって多くの人がキリストを信じるようになりました。伝承によると彼女は皇帝ネロの前に引き出されて殉教の死を遂げたと言われています。正教会では、「サマリアの女の日曜日」という記念日が設けられています。
この後に、讃美歌の「あまつましみず」を歌います。この曲の作詞は松本英子という方です。彼女は明治時代の女性としてただ一人の讃美歌作家でした。彼女が17歳の頃に宣教師のもとで書いた讃美歌のひとつです。あまつましみず(天津真清水)を解読しておきますと、天津水は万葉集で「仰いで待つ」の枕詞です。ましみずは、仰いで待つのではなく、自ら流れ出るものだそうです。14節にあるように「わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」それが、主イエスが与えてくださる「あまつましみず」です。
私たちは、井戸から命の水を汲むという、自らの努力、労働によってではなく、主イエスが与えてくださった、絶えることがない命の泉を受け取ることによって、日々を生きることができます。私たちが生きることに、悩みや不安を覚えたり、渇きを覚えることがあっても、命の泉が私たちの助けです。イザヤ書にあるように、命の泉を得て、皆で手をとりあって喜んで礼拝を捧げて、喜びと微笑みと共に、そして、シャロームという平和のメッセージを携えて、私たちは教会から踊り出てゆくことができることを感謝したいと思います。