聖日礼拝「神の愛が私たちの心に注がれている」
説教 伊藤健一
旧約聖書 サムエル記下19章1〜5節
新約聖書 ローマの信徒への手紙5章1〜11節
「最後まで諦めない。」素敵な言葉です。先月のパリオリンピックの際にも、最後まで諦めずに大逆転で金メダルを獲得した選手たち、あるいは金メダルは取れなかったものの、諦めずにチャレンジして見事に銅メダルを獲得した選手たち、そうした姿が幾度となくテレビで、また新聞などでも取り上げられ、見るものに大きな感動を与えてくれました。
何もスポーツだけに限った話ではありません。よくあることですが、大学入試センター試験、現在は大学入試共通テストと読んでいますが、この試験で期待しただけの点数をとれなかった、不本意な結果になった、と言った人たちが入試直前相談会にお見えになると、私たちは、「じゅうぶん逆転できます。合格の可能性はあります。」と言って励ましたりします。そして彼らが本当に逆転して、上位で合格している例は少なくありません。何事においても、最後まで諦めないことは、本当に大切なことだと痛感します。
でも、本当に最後まで諦めない方は神さまではないでしょうか。私たちは可能性があるときには諦めずにチャレンジしていくかもしれませんが、意外とあっさりと諦めてしまうことも少なくありません。でも、神さまは違います。何度裏切られても、最後まで諦めずに私たちに接してくださっています。ヘブライ人への手紙の冒頭には、こう記されています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」(ヘブライ人への手紙1章1~2)。
神さまは、人間を神の似姿に、すなわち自由意志を持って神と親しく交わることのできる存在として創造されました。しかし人間は、すぐに神のことばに逆らって、決して食べてはならない、食べると必ず死ぬ、と警告されていた木の実を食べてしまいました。その後、人間はエデンの園から追放され、罪が増大していきました。ノアの洪水も起こされました。でも神さまは人間を滅ぼすことはなさらず、アブラハムという一人の人を起こし、ここから救いの計画を進められました。エジプトで奴隷となっていたイスラエルの人々を、モーセを用いて救い出されました。モーセを通して律法を与え、神とともに生きる指針を示されました。それでも神に背を向ける人々に預言者を通してみことばを与え、繰り返し立ち返りの機会を備えられます。そして最後に、神さまは御自身の御子を私たちに与え、十字架上の死をとおして私たちの罪を購い、救いをもたらしてくださったのです。神さまは本当に、最後まで私たちに寄り添い、私たちを救うことを諦めない方なのです。
私たちは、神さまが御子を私たちのために差し出し、十字架上の死に引き渡されたというこの業について、毎週ニケア信条の中で覚え、告白していますが、このことを決して軽いことと考えてはならないと思います。そこにどれほどの苦しみ、痛みがこめられているか、話を進めていく前に、ここで改めて確認しておきたいと思います。先ほどサムエル記下19章の冒頭部をお読みいただきました。そこには息子アブサロムを失ったダビデの苦悩の叫びが記されています。少し遡って、その背景から確認してみましょう。イスラエル統一王国の二代目の王として立てられ、神の御心を問いつつ国を治めていたダビデでしたが、ある時、水浴をしている美しい女性バト・シェバを発見し、罪を犯してしまいます。その罪を隠蔽するために彼女の夫を戦死させます。ダビデは十戒の第6戒「殺してはならない」と第7戒「姦淫してはならない」の二つの戒めを破ってしまいました。ダビデはその犯した罪の深さを悟り、悔い改めますが、その罪ゆえにダビデはたいへんな困難に陥ることになるのです。
ダビデの長男アムノンは、異母妹タマルに恋をし、仮病を使い二人だけになるときを作り、彼女を犯してしまいます。タマルと同じ母親から生まれた兄アブサロムはこれに激怒し、機会を狙ってアムノンを討ち、逃亡します。アブサロムは、後にエルサレムに戻ることが許されましたが、彼は密かに兵を集め、民心を捉え、ダビデに立ち向かうこととなりました。その戦闘の中で、アブサロムは殺されてしまうのです。息子の死を知らされたダビデの悲嘆の声が、サムエル記下19章1節の叫びでした。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」この取り乱した叫びからは、愛する子を失った親の苦悩が読み取れます。そもそも、この悲劇は、ダビデが引き起こしたものと言うことができます。ダビデは、バト・シェバと寝てしまい、夫ウリヤを戦死させるという、モラルのかけらも感じ取れない乱れた家庭生活を送ったが故に、過ちを犯したアムノンに厳しく接することができなかったし、アブサロムを律することもできなかったのです。その意味で、アブサロムの死は、ダビデの罪のゆえの死であったとも言えるでしょう。
子を失い苦悩するダビデには、深い共観を覚えます。子どもを失うことがどれほどの苦しみか、改めて語る必要はないでしょう。しかしこのダビデの叫びを聞きつつ、私たちは、神さま御自身がこの苦しみを負われたということを忘れてはならないと思うのです。そもそも私たちは、自分の力だけで義を獲得する資格のない者たちでした。ローマの信徒への手紙3章11節には、「正しいものはいない。一人もいない。」とはっきりと記されています。そのような私たちに対して、神さまも深く苦しみ、痛みを覚えられるこのみ業を通して、御子イエス・キリストの十字架は私たちの罪を購うためのものだったのだということを信じることにより義とされるという、「信仰義認」という新しい方法によって私たちを救う方法をお示しになりました。そのことをパウロは雄弁に語ります。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」(ローマ3章23~25節)。
これほどまでに神さまは私たちに寄り添い、私たちを愛し、ご自分の御子を十字架に架ける苦悩を負うことまでして、私たちを信仰によって義とし、救いの計画を成し遂げてくださる方なのです。ローマの信徒への手紙5章1節は、「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから」ということばで始まります。ここにはそれまでの議論を踏まえてそれをさらに深めようとしているパウロの姿勢が読み取れます。これまでの議論は、そのすぐ前の4章25節にこうまとめられています。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4章25節)。ここで決して陥ってはならない落とし穴があります。パウロも6章15節でこう言っています。「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯して良いと言うことでしょうか。決してそうではない。」信仰によって義とされていながら、同時に罪を犯し続けることなどあり得ません。もし信仰さえ持っていれば義とされるのだから、どんどん罪を犯し続けていこうと考える人がいるならば、その人の持っている信仰の内容が問われなければなりません。パウロが言う「信仰」は、日本人がよく言う、信じることが大切で、何を信じているかは重要ではないと言うようなものではないのです。十字架に架けられた主イエスを信じる信仰なのです。主イエスは本来わたしが自己責任で自分が十字架にかからなければならなかった罪を私に代わって負い、十字架にかかって死んでくださった。そして陰府まで下り、死に勝利して復活してくださり、そのよみがえりの命に生きる希望を与えてくださったのです。私たちはそのことを信じているはずです。
あわせて、よく比較されるヤコブの手紙を見てみましょう。ヤコブは、行ないのない信仰は死んだ信仰である、と記しています。2章21節から24節を引用します。「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」表面的に見ると、ここでヤコブは信仰によって義とされるという考え方を否定して、行ないによって義とされるという主張をしているように見えます。しかし、主の十字架の信仰がどれほど深い内容を内包しているかを知れば、逆に行ないのない信仰などあり得ない、そういうものになる可能性はまったくないと言って良いと思います。
5章1節の後半には、「主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いると記され、続く2節には、「このキリストのお陰で」とあり、私たちは、イエス・キリストの仲立ちによって神との間に平和を得、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光に預かる希望に生かされていることを誇ることができるようにしていただけました。これは決して、自分自身の力だけで、努力だけで獲得することはできないものです。それが私たちに恵みとして、何の値打ちもなく価値のない私たちに対して与えられているのです。だから私たちはもはや、誇る意味のないものを誇ることはないのです。そして本当に誇るべきものを知らされているのです。主イエス・キリストが、私たちが神さまとの間に平和を、その栄光に預かるための希望を得るためにいかに大きな働きをしておられるかが力強く宣言されています。私たちが繰り返し繰り返し、せっかく道を開いてくださって御自身と和解させようとしてくださった神さまの御心から離れ続けてきたにもかかわらず、神さまは最後の手段として主イエスの十字架を信じる信仰によって、私たちに神との和解、神との平和を実現してくださったのです。
しかしパウロは3節でこう言います、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」と。この当時、天に昇られた主イエスは、すぐにでも再び地上に降りてこられ、神の国を実現してくださるという希望が広く信仰されていました。だから2節で「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」と言っていました。新約聖書の文書がまとめられ始めたのは、紀元50年前後以降、パウロによる書簡が最初でした。なぜこんなに執筆が遅くなったのか。それは彼らが、今すぐにでも主イエス・キリストの再臨があり、それ故文書として記録をまとめておく必要はないと考えていたからです。だから口伝による資料は多くあったにもかかわらず、それらは速やかにまとめられることはなかったのです。しかし再臨がなかなか起こらない、再臨が遅れている、そういう中で世代交代が始まり、主イエスの教えをまとめる必要性が強まっていきました。こうして初めにパウロ書簡から、新約聖書の文書が書き初められて行ったのです。それほど、当時の教会において、主の再臨は非常に重要なテーマであり、当時の信仰者たちは、主イエス・キリストの再臨を心待ちに信仰生活を送っていたのです。
しかしパウロは、終末的希望から現実世界へ目を転じてみても、そこにも希望があると言うのです。この世界の中には苦しみや絶望したくなるような状況などがあふれていますが、この世の中で経験する苦難でさえ、私たちにとって喜びであり誇りである、と言うのです。それは、使徒言行録14章22節でパウロが「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言っていることと同趣旨ですが、ローマの信徒への手紙5章3節以降では、パウロは、苦難は忍耐を生む、忍耐は練達を生む、練達は希望を生む、だから苦難は希望につながるのだ、だから苦難を喜ぶのだと言っています。この部分は、最新の聖書協会共同訳では「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生む」と訳されていますし、新改訳2017では、「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と訳されています。練達、あるいは品格、練られた品性と訳された言葉は、英語訳をいくつか見てみると、proven character、あるいはcharacterと訳されています。「鍛えられた人格、整えられた人間性」といったところでしょうか。このような境地を通って、希望に至るというのです。いずれにせよ、「苦難を喜ぶ」という考え方は、普通の人の考え方にはありません。苦難に出くわせば、不平不満を口にするのが常道でしょう。しかしそうではなく、苦難を喜ぶことができると言うことは、キリストにあって造りかえられた存在となったことの雄弁な証であると言うことができるでしょう。
このすべては、キリストが私たちのために死んでくださった故に実現したことです。そこに神の愛があります。5節に、「希望は私たちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とある通りです。この希望は確かなのです。希望だと思っていたが、結局は虚しい空想にすぎなかった、と言うようなものではないのです。なぜならこれを与えてくださっているのは神さまであり、それが真実であることを証ししてくださるのは、私たち一人一人に注がれている聖霊だからです。
神さまが御子イエス・キリストを通して成し遂げてくださった愛の業については、6節以降に記されています。6節の「まだ弱かった頃」ということばは、8節の「まだ罪人であったとき」と呼応しますから、同じことを言っていると考えることができます。私たちが神さまの方を向いていなかった頃、そのときにすでに罪人たちのために死んでくださったのだということが改めて記されています。神さまは、私たちが罪人に過ぎず、神さまに背を向けていた頃、言い換えれば神さまから見て何らプラスの要素が見いだせないようなものに過ぎなかった頃に、そのような私たちのために御子イエスを十字架に架けられたという、驚くべき業を成し遂げられたのです。私たちのために、というのは、私たちに代わって、と言う意味でもあります。旧約聖書の時代には罪の贖いの供え物として、所定の動物を生け贄として献げなければなりませんでした。何の値打ちもない私たち罪人に代わって、主イエスがわたしたちの罪の贖いのための生け贄となってくださったのです。今や私たちは信仰を与えられ、それによって義とされ、そのことを通して神さまと和解させていただいていることを知っているのですから、私たちはイエス・キリストを与えてくださった神さまを誇りにして生きていくべきなのです。
最後まで諦めることをなさらない神さまは、最後に御子を私たちの許へ送り出し、あまつさえ十字架に架けて私たちの罪を滅ぼし、信仰によって神に連なって神との平和の中に生きるものへと変えてくださったのです。神さまは、究極の、最後の手段とでも言うべき方法を用いてまで、最後まで諦めずに私たちに向かい、責任を取ってくださる方であることを、感謝を持って覚えましょう。
私たちの救い主イエス・キリストの父なる神さま
あなたは取るに足りない、無価値な私たちを滅びるがままにしておかず、逆に私たちのために愛する御子を差し出し、あまつさえ十字架にかけて死に渡し、そのことを信ずる信仰によって私たちを新たに造りかえ、義と認め、御自身と和解させ、平和を与えてくださいました。あなたは最後まで諦めずに私たちを建て直してくださる愛の神であることを改めて告白し、感謝申し上げます。そのことを私たちは、私たちの心に注がれている聖霊を通して証ししていただいています。この世にあって、時に神さまの姿を見失ったり、独りよがりな考え方にとらわれて迷走することがありますが、御ことばを通して常に立て直され、十字架の主を見上げつつ、感謝と喜びに溢れた歩みを続けることができますよう、お導きください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン