聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第73回
「安息日の輝き」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩編84 編 1〜13節
新約聖書 ルカによる福音書 14章 1〜6節

1節 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。

主イエスはナザレでお育ちになった子どもの頃から、安息日が来れば、会堂で礼拝を守られました。公生涯に入られ、ガリラヤ、ユダヤの町や村を行きめぐられた3年間も、安息日がくれば会堂で教えられました。
安息日の会堂の礼拝において、そこにいた病気の人を主イエスが癒されたという記事は、これまでに2度出てきました。
最初は6章6節下です。112ページ。ここで深刻な対立が起こりました。主イエスに対して怒り狂って、主イエスをなんとかしよう、つまり殺そうと考えた人々がいました。それは律法学者やファリサイ派の人でした。
もう一度はすぐ前の13章10節以下です。 135ページ。18年間も腰が曲がっていた婦人の癒しの記事です。ここでも会堂長は主イエスのなさることに腹を立てて言いました。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうが良い。安息日はいけない。」

今日読んでいるところでは、安息日に主イエスはファリサイ派の議員の家に招かれ、食事を共にします。主イエスの時代、主イエスのような巡回伝道者を迎えて安息日の会堂での礼拝を終えた後で、その会堂のメンバーのだれかが説教者を食事に招くのが慣しでした。この日、主イエスを食事に招いたファリサイ派のある議員というのは、その会堂の会堂長だったと思われます。その人はユダヤ人の最高法院の議員というのですから、その地方の有力者だったのでしょう。
ファリサイ派である会堂長からその食事に同席するよう招かれていた人々が他にもいました。それは3節を読むと律法の専門家やファリサイ派の人たちとありますから、これまで読んできましたように、彼らが主イエスと鋭い対立関係にあったことを考えれば、彼らが主イエスの様子をうかがっていたというのは予想されることでした。

2〜4節a そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。

「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」という主イエスの問いかけは、6章では「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」と相手の心に鋭く切り込むような問いでした。
当時の律法の専門家たちやファリサイ派の人々の立場は、命が危険にさらされている場合を除いて、安息日には病気の治療をすべきでない、それは安息日に禁じられている労働だからだというものでした。
主イエスから、目の前に立っている水腫の人を安息日に癒してもいいのか、いけないのかと問われたとき、彼らは正直に日頃、自分たちが考えていることを主イエスに答えればよかったのではないでしょうか。ところが、そこに同席していた律法の専門家たちやファリサイ派の人々は黙っていました。
思っていることを口に出さない律法の専門家たちやファリサイ派。それに対して、主イエスはどうでしょうか。主イエスは常に、今、ここで、何が神の御心かを問うて、それをはっきりと語り、その通り実行される方でした。人の顔色をうかがったり、忖度したり、人を恐れたりしないで、ただ、神のみを恐れ、神に従われるのです。

4b〜6節 すると、イエスは病人の手を取り、病気を癒してお帰しになった。そして言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。

18年間、腰を伸ばせなかった女の人の癒しについて、それは安息日以外の日にすべきだと主張した会堂長に対して、それは偽善だと主イエスは言われました。13章15節。律法の専門家たちやファリサイ派の人々は、安息日でも自分の家畜に水を飲ませていたからです。彼らは自分については甘く、自分の利益や都合を優先させていました。そうしていながら、いざ、他人のことになると、たちまち冷淡な態度を示し、安息日律法を厳格に守るべきだと主張する。そういうのは偽善だと主イエスは言われます。同じ安息日の律法でも、適用する相手が自分であるか、他人であるかによって変える、それをダブルスタンダードと言いますが、そういうのは神の前では通用しないと言われるのです。
自分の息子が井戸に落ちているのに安息日だから必死で救おうとはしないという親がどこにいるだろうか。しかし、目の前の病人については、その病気は命に関わる病気ではないから、安息日が終わるのを待って癒すべきだというのは偽善なのです。

そうきっぱりと主イエスから自分たちのしていることの偽善性、矛盾を突かれた律法の専門家たちやファリサイ派の人々は反論できませんでした。黙っています。彼らは、この間、終始、黙って何も言いませんでした。

先週新聞に、沖縄の辺野古の中学校教師、喜屋武幸さんという方の記事が載っていました。辺野古の大人たちは、基地建設容認派と反対派に分かれ、村が分断される中で、皆、口を閉ざしている。そういう大人たちのもとで育つこどもたちを、教師としてどう教え導いたら良いのか。言葉を奪われている大人たち、まさに黙っている人々です。でも将来を生きる子どもたちには言葉が必要です。言葉がないなら子どもたちはこれからを生きてゆくことはできないでしょう。こどもたちのために言葉を回復しなければなりません。そう思った名護市の中学校教師、喜屋武さんは、同僚に反対されながら、辺野古基地移設問題を授業で取り上げます。どのような授業をしたのか、記事を引用します。

黙る。この言葉が使われている聖書の箇所を調べてみました。すると、この言葉にはいろいろなニュアンスが含まれていることに気づかされました。言われたことに反感を抱いて黙る場合もあります。でもそれだけでなくて、相手に説得されて黙る場合もあります。あるいは激しい議論で沸き立っていた議場が、ある発言を聞いてシーンを静まり返る場合も、この同じ黙るという言葉が用いられていました。。
黙るという場合、言われたことに同意するか、反対するかはともかく、静かに、もう一度言われたことを考えてみよう、これまで抱いていた自分の考えはどうだったのか、神様の前で反省してみる。その結果、右に行くか、左にゆくか、それはわからないけれど、ともかく黙って考えてみる。神からの問いかけを、問いかけとして静かに受け止めて思い巡らしてみる。黙るということにはそういう意味があると思います。

本来「安息日」はエジプトのパロの奴隷だったイスラエルがその奴隷の軛から自由にされた解放記念日でした。それは、今も変わりません。安息日は苦しんでいる人々にとって苦しみや病から解放され、自由にされる喜びの日なのです。それが神の御心なのです。主イエスは繰り返し、それを明らかにされます。

それに対して、律法の専門家たちやファリサイ派の人々にとって「安息日」とはどういう日だったのでしょうか。
彼らは、自分の息子や、家畜のことならば安息日であっても、例外扱いしますが、こと人のことになったら安息日律法を厳格に守るべきだと主張します。でも彼らが厳格に遵守を主張する安息日礼拝に生ける神さまはおられたでしょうか。隣人はいたでしょうか。
隣人の存在は非常に重いものです。なぜなら、その人と共に、その人を愛し、心にかけられる主なる神様が共におられるからです。礼拝における隣人の不在は、隣人とともにおられる主なる神様がその礼拝に不在だということです。
ファリサイ派と律法学者たちの守る安息日の礼拝にいるのは律法によって自分が義人であることを認められようとする自己義認的、自己中心的な自分たちだけなのです。そこには喜びも輝きもないのです。せいぜいあるのは沈黙だけです。

辺野古の中学生が、言葉を回復したとき、表情は明るくなり、思ったことを表現できた充実感にあふれたように、わたしたちも、神の御前に静まって、もう一度、神の御心を問いつつ、神の前で自分たちの言葉を回復したいと思います。

最近読んだ本に、アジア大陸の一番東と西に言葉を失っている二つの国がある、それはイスラエルと日本だと書かれていました。

現在のイスラエルには、イスラエルが抱えている神の前での沈黙があると思います。
ハマスのテロ攻撃によって人質がいまだに返還されない。その人質の返還を求めてガザを攻撃し、テロ組織であるハマスを殲滅することはイスラエルにとって、正当な自衛権の行使であるとイスラエルは主張しています。
しかし、そう主張するイスラエルの刑務所に、その人質の何百倍もの、何千人というパレスチナの人々が不当に拘束されています。その人たちを奪還しようとしてハマスがイスラエルを攻撃したことを、テロ行為だと言って非難し、人質奪還のためにガザの学校、病院を無差別攻撃し、罪のない人々の血を流すイスラエルに、果たしてハマスを非難する資格があるのでしょうか。
黙って、正直に神さまの前で、神たちのしていることについて思い巡らすべきでしょう。

アメリカをはじめヨーロッパの諸国も、ロシアがウクライナを攻撃したことは侵略であり、国際法違反だと言いつつ、いくら国連決議の名の下であれ、イスラエルがもともとそこに住んでいたパレスチナ人を追い出し、土地を奪うことは侵略ではないと主張する、それは明らかなダブルスタンダードではないのでしょうか。
イスラエルもまたイスラエルを支持する国々も神様の前で沈黙し、正しい答えに導かれなければならないことがあると思います。

同じように、わたしたちの日本と、私たちの教会にも沈黙があると思います。
来週は9月1日です。関東大震災から101年目の記念日です。関東大震災が起こってからこの百年、日本に住む韓国人たちは、流言蜚語によって虐殺された百年前の出来事がいつまた自分たちが暮らす日本の国で繰り返されないかを憂いて、過去の歴史を覚え、惨劇が二度とあってはならないことを訴え続けてきました。その叫びと訴えの声を挙げる隣人の声を日本人として聞いてきたでしょうか。悲しむべきことに、私たち日本の教会は、この百年、在日の教会の兄弟姉妹の叫びと祈りの声をきいてきませんでした。それが日本人と日本の教会の百年の歴史でした。そのことを覚えて、日本と日本の教会は神様の前で沈黙し、御心にかなった思いと言葉に導かれなければならないと思います。

安息日は生ける神さまのもとで、今を生きる隣人と新しく出会い、今、ここで、私たち、わたしとわたしの隣人を救い、解放し、自由にしてくださる安息日の主、イエス・キリストにあって共に喜び合う日です。安息日は自由と、喜びに満ち溢れる、輝かしい日なのです。

父と子と聖霊の御名によって。