聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第72回
「神の都エルサレムが預言者の死に場所になる」
説 教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩編 118編 17〜29節
新約聖書 ルカによる福音書 13章 31〜35節
31節
ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
ファリサイ派の人々が、主イエスのところに来て、ここを立ち去るようにと忠告したというのは、いつ、どこでのことでしょうか。先週、ルカによる福音書の13章22節以下を読みましたが、その初めの13章22節に「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムに向かって進んでおられた」とありました。ですから、今、読んでいます31節に書かれていることは、主イエスがヘロデの治めていたガリラヤ地方あるいはヨルダン川東岸にある町や村を行き巡りながら、エルサレムに向かって進んでおられたときだったことがわかります。
ヘロデは先に預言者のバプテスマのヨハネを捕らえて幽閉し、ついには地下牢でその首をはねた冷酷な王です。そのヘロデが今、主イエスをも殺そうとしているという知らせは、根も葉もない噂として聞き流せない警告だったはずです。第三者であるファリサイ派の人々でさえ主イエスの身に、命の危険が差し迫っていることを感じていたくらいですから、本人である主イエスがそれを感じておられなかったはずはなかったでしょう。しかし、主イエスはその警告を聞かされたとき、少しも動じる気配を見せられませんでした。
これは驚くべきことではないでしょうか。わたしたちであれば、脅迫状が届いたり、お前を殺すと言った脅迫電話がかかってきたりしたら、夜も眠れなくなるでしょうし、どうやって身を守ろうか、どこに逃げてゆこうかと考えるだろうと思います。
32節
イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気を癒し、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」
「行ってあの狐に伝えよ」。主イエスはヘロデをあの狐と呼ばれます。狐はずる賢い動物であるというイメージと共に、「虎の威を借る狐」と言われるように、自分より強い者を後ろ盾にして虚勢を張る弱い動物というイメージもあります。ヘロデはローマ皇帝や、ローマ総督ピラトを後ろ盾としてユダヤ人を治める傀儡に過ぎませんでした。その強さは見せかけに過ぎず、自分自身は自分より強い者にまっすぐに物を言う勇気ももたない弱い人間なのです。そういうヘロデと比べて、主イエスは人を恐れないお方でした。主イエスは神のみを恐れて、人を恐れず、ヘロデの脅迫を受けても、それを意に介さず、まっすぐに神に従って進んでゆこうとされます。ご自身がそう決意していることを、行ってヘロデに伝えよと主イエスは言われました。
33節
だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。
主イエスの命を狙うヘロデの領地にとどまり続ければ、命に危険があるのでそこを立ち去るということは、主イエスの考えもしないことでした。主イエスがこのとき目指されていたのはエルサレムでした。そこで主イエスを待っていたのはご自身の死だったのです。主イエスは最初から死を恐れて、死の危険から逃げようとはしておられませんでした。ヘロデから脅されようとも怯まず、エルサレムでご自身の死が待ち受けていようとも躊躇わず、天に向かって顔を上げ、固い決意をもってエルサレムに向かって進んでゆこうとしておられました。
今日も明日も、つまり来る日もくる日も主イエスは自分の進むべき道をひたすら前に向かって進もうとなさいます。主イエスにとってそれ以外になすべきことはないのです。毎日、毎日がその繰り返しでした。しかし、永遠に続く繰り返しではなく、三日目にすべてを終えると言われるように、それには終着点があり、ついには終わりの時、完成の日を迎えるのです。
32節において「三日目にすべてを終える」と訳されている言葉は、聖書の原語のギリシャ語では、「完成される」、「全うされる」という意味があります。同じ言葉がヨハネによる福音書19章30節では「成し遂げられた」と訳されています。
神さまが御子である主イエスを地上にお遣わしになって、主イエスを通して実現なさろうとした救いの計画、救いのみわざが「成し遂げられる」「完成される」「全うされる」日に向かって、主イエスは今日も、明日も前進し、ついにすべてを終える日を迎えるのです。そのとき、主イエスは世のすべての人を救う救い主として「全うされた方」となられるでしょう。
その神の救いの計画が主イエスによって全うされる場所がエルサレムでした。エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺すエルサレムにおいて救いを完成させる、それが、主イエスを遣わされた父なる神のご計画でした。
34、35節
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、雌鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。
神の救いの計画はエルサレムで完成します。神の御子がそこで殺され、捨てられることによって、神は御子を救いの源となさるのです。そのような驚くべき仕方で救いの計画が実現することは、詩編の118編では「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと」(22、23節)と語っています。主イエスはエルサレムの指導者たちから捨てられました。その家造りらの捨てた石を、神は救いの家である教会の尊い隅の親石となさったのです。これがわたしたち人間の目には驚くような神の御業でした。
エルサレムは神の都、神の民が神への礼拝を捧げている神殿のある町です。そのエルサレムは神から遣わされた御子を殺すゆえに、神から捨てられた町になりました。
みなさん、エルサレムの指導者たちはなぜ、神から遣わされた御子を殺したのでしょうか。その結果、エルサレムが神から捨てられ、退けられることになったこと、しかし、その捨てられた主イエスによって、神はわたしたちを救われるのです。一体、これはどういうことなのでしょうか。
今、そのことを主イエスの語られた愚かな農夫のたとえで説明したいと思います。ある農夫は豊作を喜んで、収穫を納きれないそれまでの倉庫を壊して、新しく大きい倉庫を建てて長年分の食糧を貯蔵すると、自分に向かってこう言います。「魂よ、安心せよ。これで当分の間、思う存分飲み食いすることができる。」すると神が言われます。「愚か者よ、あなたの命は今夜取り上げられる」。これは地上の富についての話です。地上の富は、命を約束しないと言う話です。確かに地上の富は地上の命さえ保証しないくらいですから、来るべき世の命、永遠の命を保証することはないでしょう。では、わたしたちの来るべき世の命、神の国に至る永遠の命は何によって保証されるのでしょうか。エルサレムの指導者たちは、エルサレムに大きな立派な神殿を建てる。そこで荘厳な礼拝を守る。そこでユダヤ人の信仰共同体における、押しも押されもしない重鎮としての地位を占める。そして自分の魂にこう言い聞かせる。さあ、これで安心せよ。お前には天国への切符が保証されている。神の国での永遠の命が約束されている。
しかし、そのようなエルサレムの指導者たちに主イエスは言われます。愚かなものたちよ、自分たちが神の国に入る先頭にいると思うなら、その者は最後のものとされるだろう。自分たちには神の国に入る資格が十分にあると思う者は、神の国に入ることは許されず、外の暗闇に締め出されて、歯噛みをし、泣き叫ぶだろうと言われました。
みなさん、私たちは生まれたとき何一つ持たずにこの世に来ましたが、天国に旅立つときにも何一つ持ってゆくことはできないのです。それはお金やものだけではありません。学歴も、勲章も、名誉も、神の前に立つとき、神に対して、わたしたちは何一つ誇ることはできないでしょう。わたしたちはまさに裸で、神に対してただ恥多い、自分の罪の姿をさらすのみでしょう。
神の救いの計画が、神の子が自らの身を纏う物をすべて剥ぎ取られた裸の姿で十字架にかけられて死なれることによるのか、それは、わたしたち、何も持たないものたちを神の国へ招き入れるために、主イエスご自身が、わたしたちと同じ、何も持たないものとなられるためだったからです。神の国ではその主イエスご自身がわたしたちのすべてとなってくださるでしょう。主イエスは、自らは罪のない清いお方であるのに、わたしたちのために罪人としての十字架の恥を負って、わたしたちを恥じないと言ってくださり、主イエスとともに十字架につけられた犯罪人に言われたように、今日あなたはわたしとともにパラダイスにいるであろうと、私たちにも言ってくださるのです。そのようにして、わたしたちをご自身と共に神の国に伴ってくださるのです。これが神の救いのご計画です。これが主イエスによってエルサレムで成し遂げられるのです。
もう一度改めて申します。エルサレムの指導者はなぜ主イエスを殺したのでしょうか。それは主イエスが、エルサレムの指導者の考え方を否定したからです。すなわち自分たちは神の国に入る資格があると言う彼らの考えを否定したからでした。神が主イエスを十字架の死を通して全うされた者となさり、その主イエスを通して貧しい者、罪あるものを神の国に招きれられるのが神の御心であると言われる主イエスをエルサレムの指導者たちは受け入れることができませんでした。しかし、そのようにして、主イエスと主イエスによって示された神の御心を退けたユダヤ人の指導者たちは、永遠に捨てられたのでしょうか。そうではありません。彼らも自分たちが捨てられる者になることによって、捨てられた主イエスは、自分たちをも救う救い主であることを知るようになるのです。
神の救いの計画の完成は、神の御子がエルサレムで殺されて、捨てられた石となることだったのです。それこそが、主イエスが私たちを救う救い主として完成されるための道でした。ペトロは主イエスを捨てましたが、それによって神から捨てられる者となったペトロは、ペトロを救うために、ご自身捨てられたけれども、神に選ばれた石、救いの家の隅の親石とされた主イエスによって救われました。その点では、ペテロとエルサレムは同じなのです。ペトロもエルサレムも、いったん主イエスを捨てることによって、捨てられた者とされましたが、選ばれた隅の親石である主イエスによって救われるのです。
こうして、自ら捨てられた石となることにより、主イエスは最後の者となられたのです。十字架は、ご自身が最後の者となることによって、あの十字架の犯罪人のようなこの世の最後の者たちを、ご自身を通して神の国に招き入れるための救いの道でした。それはエルサレムのユダヤ人指導者にとっても、ペトロにとっても唯一の救いの道なのです。
主イエスを捨て、自らも神から捨てられた者となってしまったペトロ、また主イエスを捨てたことによって神から捨てられる者となったエルサレムの人々に、主イエスがご自分の方から近づき、もう一度出会ってくださるとき、ペトロもエルサレムの人々も、このお方、家つくりらに捨てられたけれど、救いの親石となってくださった主イエスこそ、自分たちの救い主であることを心からの喜びをもって、こうほめたたえることができるでしょう。
「主の名によって来られる方に祝福があるように」
説教を締めくくります。今日の説教題「神の都エルサレムが預言者の死に場所になる」、神の遣わされた最大の預言者主イエスはなぜエルサレム、神の都で死なれなければならなかったのか、預言者はなぜ神の都以外で死ぬことがあり得ないのでしょうか。神の遣わされる預言者が、また最終的には神の御子、主イエスが、エルサレム以外の所で死なれたら、どうなっていたでしょうか。
神のみこが神の都で死なれることによって何が完成したのでしょうか。世界の救いが完成したのです。他の場所で殺されたら、世界の救いは完成しなかったでしょう。
エルサレム、神の民、神の都、そこで犯される罪が世界で最も重いのです。今日、神の教会が犯す罪ほど重大な罪はないし、神の民であるわたしたち信仰者の罪ほど、神の前で深刻で重大な罪はないのです。だからこそ、神の御子はエルサレムで、神の都、神の民、神礼拝を捧げる所で死ななければならないのです。
世界で最も大きな、深刻な罪を、父なる神は御子をエルサレムで、死なせることによって赦されます。その主イエスは教会の隅の親石ですが、世界全体の隅の親石でもあります。教会は自らの大きな罪を赦されている者として、今なお罪と矛盾を抱えている世界全体の希望なのです。教会は世界の罪、すべての人の罪が赦される保証であり、約束だからです。
父と子と聖霊の御名によって